上 下
27 / 57
3、彷徨

今夜は、手出すから

しおりを挟む
「な、何?」

 貴広は良平の細い手首をつかんでいた。

「行くなよ、そんなとこ」

 つかんだ手をぐいと引いた。グラスが倒れ、ワインが数滴、膝にこぼれた。

(このコに、晒してもいいのだろうか)

 貴広に引き寄せられ、良平はコテンと貴広の胸に収まった。肩が、背中が、骨張って、細くて、そのか細さが痛々しくて――。

(あいつにも見せられなかった俺を)

 良平の肩が強ばっている。震える指が貴広のシャツを小さくつかむ。この身体の内側でも、葛藤が、嵐が巻き起こっているのだろうか。

(このコは、許してくれるのか? 誰のことも愛せなかった醜い俺を)

(いつも自分の身を安全な位置に置いて、一歩も踏み出すことのなかった狡い俺を)

 貴広はいつも自分をコントロールしてきた。見られたい通りに見られるよう、服装を、表情を、行動を律してきた。それはたやすいことだった。なぜなら、貴広にはとくにやりたいことなどなかったから。

 欲望も、衝動も、貴広を大きく撞き動かすことなどなかった。これまでは。

 自分がマイノリティであることも、生活圏で晒すことは一切なかった。

「彼」にだって隠しおおせて――。

 それで、何かよかったか。

 失うものは、なかったかもしれない。

 だが、何をも手に入れることができなかった。

 三十年以上生きてきて、手に入ったのはこの北の地で得た祖父の遺産。この小さな店だけだ。

 本音を話し合える友人も、温かな心を通じさせる家族も、心躍る夜をともにする恋人も。何もない。

 いつも安全地帯に身を置き、危険を遠ざけて生きるとは、つまりはそういうことだ。生身の自分を誰からも遠ざけ、誰とも触れ合わない孤独。

 良平の伏せた睫毛が揺れた。

「あんた……『いつまででもいていい』って俺に言ったよな」

「……ああ」

 貴広は細い身体に腕を回した。その腕にそっと力をこめる。

 良平は顔を上げた。

 狡い自分を、真っ直ぐな瞳が見つめる。

 胸の中の、細い身体。

 瞳に引き寄せられ、貴広は良平の唇に触れた。良平の咽が「んん」と鳴った。

 貴広の舌に口腔を愛撫され、良平の背がしなった。良平の腕が貴広の背に回り、そして。

 唇が離れ、良平は涙でうるんだ目を伏せた。

「でも、貴広さん、手出してくれないからな。そばで寝てるのに、放置されるのも、辛い……から」

「いい……のか」

「貴広さん?」

 この子に、晒けだしても。

 ――愛、しても。

「……俺を抱いてくれるのか」

「ええっ? あんたネコ?」

「そうじゃない」

 目を丸くする良平の耳に貴広は吹き込んだ。

「今夜は手、出すから。先に風呂使っておいで」

 良平はプルと震えた。そしてこくりとうなずいて、貴広の胸から身体を起こした。

(誰にも見せられなかった俺の醜さを、お前は)

 受け入れてくれるのだろうか。
しおりを挟む

処理中です...