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4、新米マスターの非日常
アプリコットのシフォンケーキ
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その日から良平は、貴広の店舗兼住宅にチョイチョイ姿を現すようになった。
大学が終わった夕方頃顔を出すこともある。
照明を落とした閉店後、閉めたドアをトントンと遠慮がちに叩く夜もある。
来れば二階の居住スペースで貴広の作ったメシを食い、そのまま泊まっていく。
朝も貴広が淹れたコーヒーと簡単な朝食をともに摂り、大学の講義へ出る。講義のない午前は何となくゴロゴロしていたり、バイトよろしく貴広の店を手伝うこともあった。
やって来たときに貴広が外出していたらどうするのか。来る前に連絡を寄こせと貴広が言っても、いつも良平はふらりとやってきて、またふらりと出ていった。
人付き合いが得意でない貴広は、少々不安だった。他人の存在感がうっとおしくなって、この純情な子を邪険にしてしまうのではないかと怖れていた。だが、それは杞憂だった。
広くもない居住スペースでふたりでいると、何だか安心するような、心のどこかが浮き立つような、悪くない気分だった。
良平も、「ここからなら大学が近い」と便利がる。
親の家は手稲の山際だとかで、JRの最寄り駅までバスで六、七分、歩けば二十分以上かかる。しかも帰りはダラダラと長い登り坂だ。
「喫茶トラジャ」からなら大学はJR二駅だし、歩くと、……歩くと小一時間かかるが、貴広は自転車を買ってやろうかと思い始めた。
……まあ、朝自転車で大学へ向かった良平が、またこの店に戻ってくるとしたらの話だが。
「じゃあ、貴広さん。俺行くわ」
「おぅ。気をつけてな」
開店前の店から、カランと軽やかに鐘を鳴らして良平が出ていった。貴広はカウンターの中から、仕込みの手を止めずにそれを見送った。
ランチのサラダ用の野菜たちは、予めカットして深型バットに入れておく。トースト用の食パンは、もうすぐ配達が届くだろう。開店までのこの時間、することが幾つもあって慌ただしい。
カウンターの端でスマホが震えた。開店七分前を知らせるアラームだ。貴広は電光看板を外へ出し、チョコレートドアに「営業中」の札をぶら下げた。開店だ。
「おはようございまあす」
今日の一番客は菅原さんだった。トーストとコーヒーのモーニングセットを頼み、菅原さんはいつものボックス席で資料を拡げた。
「お忙しそうですね」
貴広がそう声をかけると、菅原さんは「ごめんなさいね」と眉を寄せた。
「そんなに立て込んでるって訳じゃないんだけど。椅子に座るとついつい仕事のことを考えてしまうの。長年のクセになっちゃってるのね」
「分かります」
貴広はコーヒーを落としながらうなずいた。自分も商社を辞めて四ヶ月になるのに、今でも朝と昼、為替レートをチェックするのを止められない。
カランと鐘が鳴り、次の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
女性客。最近ちょいちょい来るすみれさんだった。
「おはようございます」
すみれさんはボックス席を意外そうな顔でチラチラ見ながら入ってきた。開店早々、他の客はまだいないと思っていたようだ。どっこい年寄りは朝が早いのだ。今日の菅原さんは常連さんの中でもまだ若い方だが。
貴広は「どうぞ」と笑顔ですみれさんを促した。
すみれさんのオーダーはケーキセット。季節のシフォンケーキ、今週はアプリコットだ。それとブレンド。ただ飲みものだけより単価が高くてありがたい。
「この時間に、お珍しいですね」
注文の品を運ぶとき、貴広は世間話の積もりでそう言った。これまでのすみれさんは、買いもの帰りに午後に寄る。
「あ……ええ。今日はちょっと用事があって」
貴広は「ごゆっくり」と笑顔で引っ込んだ。別に客の事情を知りたい訳じゃない。
大学が終わった夕方頃顔を出すこともある。
照明を落とした閉店後、閉めたドアをトントンと遠慮がちに叩く夜もある。
来れば二階の居住スペースで貴広の作ったメシを食い、そのまま泊まっていく。
朝も貴広が淹れたコーヒーと簡単な朝食をともに摂り、大学の講義へ出る。講義のない午前は何となくゴロゴロしていたり、バイトよろしく貴広の店を手伝うこともあった。
やって来たときに貴広が外出していたらどうするのか。来る前に連絡を寄こせと貴広が言っても、いつも良平はふらりとやってきて、またふらりと出ていった。
人付き合いが得意でない貴広は、少々不安だった。他人の存在感がうっとおしくなって、この純情な子を邪険にしてしまうのではないかと怖れていた。だが、それは杞憂だった。
広くもない居住スペースでふたりでいると、何だか安心するような、心のどこかが浮き立つような、悪くない気分だった。
良平も、「ここからなら大学が近い」と便利がる。
親の家は手稲の山際だとかで、JRの最寄り駅までバスで六、七分、歩けば二十分以上かかる。しかも帰りはダラダラと長い登り坂だ。
「喫茶トラジャ」からなら大学はJR二駅だし、歩くと、……歩くと小一時間かかるが、貴広は自転車を買ってやろうかと思い始めた。
……まあ、朝自転車で大学へ向かった良平が、またこの店に戻ってくるとしたらの話だが。
「じゃあ、貴広さん。俺行くわ」
「おぅ。気をつけてな」
開店前の店から、カランと軽やかに鐘を鳴らして良平が出ていった。貴広はカウンターの中から、仕込みの手を止めずにそれを見送った。
ランチのサラダ用の野菜たちは、予めカットして深型バットに入れておく。トースト用の食パンは、もうすぐ配達が届くだろう。開店までのこの時間、することが幾つもあって慌ただしい。
カウンターの端でスマホが震えた。開店七分前を知らせるアラームだ。貴広は電光看板を外へ出し、チョコレートドアに「営業中」の札をぶら下げた。開店だ。
「おはようございまあす」
今日の一番客は菅原さんだった。トーストとコーヒーのモーニングセットを頼み、菅原さんはいつものボックス席で資料を拡げた。
「お忙しそうですね」
貴広がそう声をかけると、菅原さんは「ごめんなさいね」と眉を寄せた。
「そんなに立て込んでるって訳じゃないんだけど。椅子に座るとついつい仕事のことを考えてしまうの。長年のクセになっちゃってるのね」
「分かります」
貴広はコーヒーを落としながらうなずいた。自分も商社を辞めて四ヶ月になるのに、今でも朝と昼、為替レートをチェックするのを止められない。
カランと鐘が鳴り、次の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
女性客。最近ちょいちょい来るすみれさんだった。
「おはようございます」
すみれさんはボックス席を意外そうな顔でチラチラ見ながら入ってきた。開店早々、他の客はまだいないと思っていたようだ。どっこい年寄りは朝が早いのだ。今日の菅原さんは常連さんの中でもまだ若い方だが。
貴広は「どうぞ」と笑顔ですみれさんを促した。
すみれさんのオーダーはケーキセット。季節のシフォンケーキ、今週はアプリコットだ。それとブレンド。ただ飲みものだけより単価が高くてありがたい。
「この時間に、お珍しいですね」
注文の品を運ぶとき、貴広は世間話の積もりでそう言った。これまでのすみれさんは、買いもの帰りに午後に寄る。
「あ……ええ。今日はちょっと用事があって」
貴広は「ごゆっくり」と笑顔で引っ込んだ。別に客の事情を知りたい訳じゃない。
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