MUGEN(夢現) 〜あやかし奇譚と大正艶話

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プロローグ 雨夜に香る梔子

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 大正初期。
 帝都郊外の町、神在坂かみありざか
 昼から降り始めた雨は、夜の闇が深まってもやむ気配がなく、境内の木々を重たく濡らしている。

 今夜の灯守とうもり神社は、雨音以外の一切の物音が絶え、ひっそりと静まり返っていた。
 奥の古い屋敷で、ただ一人留守を預かる晴臣はるおみは、すでに灯りを落として布団に入っていた。

 しとしとと屋根を打つ雨音だけが、暗い座敷に満ちている。

 ――ふいに。
 すっ……と、枕元の障子が、音もなく開いた。

(……え?)

 起き上がろうとして、身体が指一本動かぬことに気づく。
 金縛りだ。
 喉も凍りつき、声が出ない。

 同時に、むせ返るような甘く重たい梔子くちなしの香りが、部屋の中に立ち込めた。

 ――ずしり。
 晴臣の腹の上に、生気のない重みがのしかかってきた。

(え、嘘、乗ってき――!?)

 金縛りで強張る晴臣を見下ろしていたのは、乱れた黒髪の隙間から覗く、恐ろしくも美しい女の顔だった。虚ろな瞳が、真下の獲物を真っ直ぐに捉えている。

(いやあぁぁぁぁ――!)

 女の凍えた指先が、晴臣の寝巻きの衿元えりもとに掛けられた。抵抗できないのをいいことに、帯が乱暴に解かれ、着物の合わせが左右に大きくはだけさせられる。

(ひっ……! 殺される)

 声にならない悲鳴が漏れた。露わになった熱い胸元に、女の掌がぴたりと吸い付く。胸板から腹へと、這いずるように撫で下ろされていく感触は、生々しく、おぞましかった。

『あ、な、た……やっと、ひとつに……』

 女の顔が近づき、梔子の香りが鼻腔を犯す。
 そして、その冷たい手は、ついに晴臣の秘部を守る最後の一枚――白い下帯へと伸びた。躊躇いなくそこに指が掛けられ、ぐい、と容赦なく引き下げられる。
 耳につく衣擦れの音と、下腹部に触れるありえない冷気に、晴臣の思考は恐怖で真っ白に染まった。

(嘘だろ、喰われるって、そっちの意味!? 嫌だ、助けてくれ……ッ!!)

 晴臣が涙目で絶望的な心の悲鳴を上げた、まさにその瞬間だった。

「――無粋な真似をするが」

 冷ややかな声と共に、青白い閃光が闇を切り裂いた。
 バヂィッ――!

 放たれた呪符が一瞬にして発火し、晴臣の上に乗りかかっていた女の身体が、悲鳴を上げる間もなくちりとなって吹き飛んだ。

「かはっ、はぁ、はぁ……っ!」

 束縛から解放され、晴臣は激しく咳き込みながら身を起こす。
 見上げると、開け放たれた障子の向こうに、一人の男が立っていた。
 銀色の長い髪に、紅色の瞳。闇夜に浮かび上がるその容貌は、人ならざる怪異すら恐れをなすほどに冷徹で、圧倒的に美しい。

 若き陰陽師、綺良きらである。
 彼は忌々しげに扇子で室内の淀んだ空気を払うと、はだけた着物とずり落ちた下帯のまま、涙目でへたり込んでいる晴臣を冷めた目で見下ろした。

「……お前、一体何をされているんだ」

「き、綺良さん……っ! もう少し遅かったら、俺、俺……!」

「馬鹿か。隙だらけだからそんな下等な淫霊に魅入られる。……さっさと着物を直せ、見苦しい」

 冷たく吐き捨てながらも、綺良の赤い瞳には呆れと、弟分への僅かな甘さが滲んでいる。

「だって金縛りが……て、なんで、入って来られたんだ……?」

「結界が解けていたぞ。えんなことだ……怪異に魅入られるのも才能のうちかもしれんが、あまり俺の手を焼かせるなよ」

「う……善処します」

「ああ。だが、はる――」

 綺良は不意に晴臣との距離を詰め、無防備なその首元に指を這わせる。
 白い滑らかな綺良の指先が、晴臣の喉仏を愛でるようになぞった。

「っ、綺良さん!?」

「お前のここ、まだ残り香がついているぞ」

「えっ」

 晴臣が慌てて自分の着物に鼻を寄せると、甘ったるい梔子の香りが、女の痕跡のように染みついていた。

 顔を引きつらせる晴臣をよそに、綺良はふっと艶やかに微笑み、その首筋からゆっくりと指を離した。

 雨の夜は、まだ長い。
 この町の深い闇の底では、まだ見ぬ怪異たちが息を潜め、這い出す刻を静かに待ちわびていた。
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