MUGEN(夢現) 〜あやかし奇譚と大正艶話

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第一話 夜伽の幽霊

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 それは、ある夕暮れ時のことだった。
 灯守とうもり神社に隣接する灯神とうがみ家では、跡取り息子の晴臣が珍しく熱を出して横になっていた。

晴兄はるにい、動かないでってば。まだ顔色悪いよ」

 甲斐甲斐しく濡れ手拭いを取り替える十五歳の弟・れいの手つきは、どこかぎこちない。
 幼少期に母を亡くし、現在は父と弟との三人暮らし。

「過保護だな。ただの風邪だ」

「林檎剥いたから、これ食べて大人しくしてて」

 不恰好なうさぎの林檎を乗せた皿を枕元に置くと、玲はパタパタと台所へ駆けていった。
 まるで嵐のような看病ぶりだ。

「……愛されてるな、晴臣」

 腕を組んで壁に寄りかかっていた父の敬道けいどうが、可笑しそうに呟く。

「父さん……」

 晴臣がわずかに口元を緩めたその時、控えめに戸を叩く音がした。

「……ごめんください。敬道さん、いらっしゃる?」

 現れたのは、神在坂かみありざかでも指折りの老舗旅館『月波楼げっぱろう』の女将、梅子だ。
 三十路半ばの彼女は髪を結い上げ、しっとりと着物を着こなしている。愁いを帯びたその表情が、いっそう艶を増していた。

「おう、梅子か。こんな時間に、どうした」

 敬道が湯呑みを置くと、梅子は青ざめた顔で座布団に腰を下ろした。
 その目には、隠しきれない不安が揺れている。

「……お願い、助けてください。大変なことになってるの」

「どうした?」

 梅子の話によれば、旅館の離れの客室に「幽霊」が出るという。
 泊まった殿方が、翌朝になると皆、魂を抜かれたような顔をして、「女が出た」と震えながら逃げ帰るのだそうだ。

「おかげで悪い噂が立って、客足が遠のいてしまって……。ねえ、敬道さん。あの離れ、一晩だけ、泊まってみてくれないかしら」

 梅子は上目遣いで、すがるように敬道の太い腕にそっと手を添えた。
 敬道は振り払うでもなく、彼女が自分に気があるのを知ってか知らずか、面白そうに目を細めて無精髭の生えた顎を撫でる。

「……幽霊、ねえ」

 梅子の肩をぽんと大きな手で叩いて言った。

「お前さんの店の危機となっちゃ、男として放っておけねぇな。……行ってやるよ」

「本当? 嬉しい!」

「その代わり、極上の酒を用意しとけよ。祓いには清めの酒が必要だからな」

 そう言って、敬道はにやりと笑った。




 深夜。
 『月波楼』の離れは、静寂に包まれていた。母屋から距離があるため、他の客や使用人の声は滅多に聞こえてこない。それを気に入って泊まる客が多かった。

 敬道はあぐらをかき、ひとりさかずきを傾けていた。無造作にはだけた着物の胸元から、浅黒く分厚い胸板が覗く。
 酒を飲み込むたびに、喉仏が上下に動く。

「ふぅ。さすがに、いい酒だ……」

 神刀も、お札もない。あるのは酒と、強靭な肉体だけだ。

(……妙だな)

 敬道は盃を手にしたまま、鋭い眼差しで虚空を睨んだ。
 長年、怪異と向き合ってきた直感が告げている。
 ここには、霊気が全くない。淀んだ空気も死者の未練も感じられないのだ。

(幽霊が出るって話だが……こいつは、もっとタチの悪い化け物かもしれねぇな)

 丑三つ時。
 すぅっ……と、ふすまが音もなく開いた。
 冷たい空気と共に、一人の女が入ってきた。
 長い黒髪。透き通るような白い肌。着物の合わせ目は乱れ、艶めかしい太腿がちらりと覗いている。

「……旦那様。おひとりで寂しくありませんか?」

 夢のような甘い声。
 女は音もなく敬道のそばへ滑り寄ると、その背中にしなだれかかった。
 女の熱い指先が着物の隙間から素肌へと侵入してきても、敬道は全く動じない。ただ静かに酒をあおり、喉を鳴らした。

「寒いの……温めて……」

 女は敬道の膝に乗り、顔を寄せた。
 吐息からは、甘い香りがする。

「……随分と積極的な幽霊だな」
「ふふ……お嫌いですか?」

 女は妖艶に笑い、敬道の盃を取り上げた。
 そして、持参した徳利から酒を注ぎ足す。
 とぷ、とぷ、と液体が注がれる音。
 その瞬間、鼻が微かな異臭を捉えた。酒の芳醇な香りに隠された、痺れ薬特有のエグみのある匂いだ。

(なるほど、そう来たか)

 敬道は表情を変えず、注がれた酒を一息に呷るふりをして、巧みに袖の中の布へ吸わせた。

「……うめぇ酒だ。身体が熱くなってきやがる」

 敬道がわざとらしく目をしばたたかせ、身体をふらつかせると、女の瞳に冷たい光が宿った。
 女は敬道を布団へと押し倒し、その上に覆いかぶさる。

「ええ……もっと熱くして差し上げますわ」

 女の手が、敬道の懐――財布が入っているあたりを探るように動く。

 ガシッ。
 大きな手が、女の手首を万力まんりきのように掴んだ。

「っ……!?」
 女の顔が引きつる。

「おい、姉ちゃん。芝居ならもう少しマシな脚本を書けよ」

 敬道はにやりと笑い、女の手首を引き寄せた。
 女の身体が支えを失い、敬道の胸に押し付けられる。

「あっ……」

「幽霊にしちゃあ、脈が早すぎるぞ? それに……この温もり、活きのいい人間の雌そのものじゃねぇか」

「な……離してっ!」

 女が暴れるが、着物が乱れるだけで身動き一つできない。
 彼女は幽霊ではない。幽霊のふりをして客を脅し、色仕掛けで骨抜きにして金品を奪う、こそ泥だ。
 被害者の男たちは、女にたぶらかされて金を盗られたとは恥ずかしくて言えず、「幽霊が出た」と言い訳して逃げ帰っていたのだ。

「離せ? お前が誘ったんだろうが」

 敬道は女を畳の上に押し倒し、逃げ道を塞ぐようにその上に覆いかぶさった。
 見下ろす瞳からは、先ほどまでの飄々ひょうひょうとした空気が完全に消え失せている。組み敷かれた女の顔から血の気が引き、本能的な恐怖と威圧感で小刻みに震え出した。

「やっ……な、何を……!」

「男を誑かすのが得意なんだろう? なら……俺も骨抜きにしてみろよ」

 敬道は逃げようとする女の顎を指先でぐいと持ち上げ、吐息が触れる距離に顔を近づけ、凄みのある声で囁いた。

「ほら、どうした。誘ったのはそっちだろうが」

 耳元で低く、甘く響く声。
 至近距離で見つめてくる野性味を帯びた色気に、女は恐怖を忘れて思わず息を呑んだ。

 力強く押さえつけられているはずなのに、その腕の中は不思議と熱く、離れがたい。

(な、なに、この男……っ)

 逃げなければならない。
 捕まれば終わりだ。そう分かっているのに――

 ほんの一瞬。

 このまま、本当に抱かれてしまってもいいのではないかと。
 そんな愚かな考えが、胸の奥をよぎった。
 心臓が跳ね上がる。
 怖いのに、目が逸らせない。

(こんなの、初めて……)

「あ、あの、私……その……っ」

 女が完全に呑まれ、乙女のように潤んだ瞳で見つめ返したその瞬間――敬道はふっと温度のない瞳に戻り、あっさりと身を離した。

「……俺を落とせねぇなら、もう二度とこんな真似はするな。さっさと消えな」

「ご、ごめんなさい! ……あ、あのっ!」

 女は弾かれたように跳ね起きると、先程まで自ら魅せつけていた着物の乱れを、今度は乙女のように恥じらい掻き合わせた。

(恐ろしい……でも、たまらなくいい男……っ!)

「も、もう二度としませんっ……! し、失礼いたしますっ!」

 女は逃げ出そうと襖に手をかけ――そこでもう一度だけ、名残惜しそうに熱を帯びた潤んだ瞳で敬道を振り返った。そして、両手で火の出そうな頬を覆いながら、転がるように夜の闇へ走り去っていった。

「……なんだありゃ。急に顔を赤くして、風邪でも引いてたのか?」

 自分が女を骨抜きにしたことなど露ほども知らぬまま、敬道は呆れたように首を傾げて身体を起こす。
 そして無造作に衿元を直すと、残っていた酒をぐいと飲み干した。




 翌朝。
 空は澄み渡り、爽やかな朝日が庭の木々を照らしていた。
 敬道が母屋おもやに戻ると、梅子が待ち構えていたように駆け寄ってきた。

「敬道さん! どうでした? 昨日の夜……」

「ああ、片付いたぞ。幽霊の正体は、タチの悪い女泥棒だ」

 敬道は大きく伸びをした。

「客が幽霊だと騒いでいたのは、女に騙されたと認めるのが恥ずかしかったからだろうよ。男の見栄ってやつだ」

「まあ……! さすが敬道さんね」

 梅子は安堵の息を漏らし、熱っぽい視線を敬道に向ける。

「その泥棒、二度と来ないかしら?」

「俺の顔を見りゃ、逃げ出すくらいには脅しておいた。二度とこの辺りには寄り付かねぇよ」

「ふふ、頼もしい……。やっぱり、私の見込んだ殿方だわ」

 梅子は甘えるように身を寄せ、上目遣いで敬道を見つめる。

「約束通り、とっておきの『おもてなし』をさせてもらわないとね。……今夜、また離れに来てくださる?」

 敬道は梅子の腰をぐっと引き寄せ、その耳元に顔を近づけた。

「……魅力的な誘いだが、今日はやめておく」
「え……?」

 吐息がかかり、梅子の顔がポッと赤く染まる。
 敬道はふっと口角を上げると、すがりつく梅子の頭を無造作にポンと叩いた。

「晴臣が風邪で寝込んでてな。看病してやらなきゃなんねぇんだわ」

「ええっ? もう、晴臣ちゃんったら……」

 梅子が頬を膨らませるのを背に、敬道はひらひらと手を振って旅館を後にした。
 その背中はどこまでも頼もしく、熟れた男の色香を静かに漂わせていた。
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