MUGEN(夢現) 〜あやかし奇譚と大正艶話

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第二話 額縁の夜這い

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 深夜の画室アトリエには、テレピン油と、絵の具の匂いが淀んでいる。
 その薄暗い部屋の片隅に置かれたキャンバスが、ぬらりと濡れたような光沢を放った。

 万年床に横たわる、売れない洋画家の蓮太郎れんたろうは、痩せこけた身体を起こし、熱に浮かされた瞳でそれを見つめている。

「……おいで。今夜も、おいで」

 キャンバスの中、微笑む女の肖像画が、生き物のように波打った。
 衣擦れの音がして、女の白い脚が枠の外へと踏み出された。
 女はゆっくりと蓮太郎の枕元へ歩み寄ると、身につけていた薄絹を、はらりと床に落とした。

「……蓮太郎さん」

 闇に浮かぶ肢体は、妖しく、そして豊満だった。
 女はそのまま、蓮太郎の布団へと滑り込む。

「ああ、待っていた……!」

 蓮太郎は、縋りつくように女の腰に手を回す。
 女の肌は、じっとりと熱を帯びている。
 女が蓮太郎の上にまたがった。
 成熟した果実のような乳房が、蓮太郎の痩せ細った胸板に押し付けられ、むにゅりと形を変える。

「ん……っ、あ……」

 女が腰を揺らすたびに、蓮太郎の喉から快楽のうめき声が漏れる。
 締め付けられるたび、蓮太郎の精気が根こそぎ吸い上げられていく。
 それでも、蓮太郎は腰を突き上げるのをやめられない。
 髪が彼の顔にかかり、濃厚な女の体臭が、部屋に満ちた油の匂いを塗り替えていく。

「もっと……僕を食べてくれ……」
「ええ……全部、私のもの……」

 女は蓮太郎の唇を塞ぎ、むさぼるように舌を絡めた。
 唾液の糸が銀色に光り、部屋には身体が重なり合う卑猥な音だけが、いつまでも響いていた。




 翌日の昼下がり。
 灯守とうもり神社の社務所には、滋味深く、どこか野性味のある出汁の香りが漂っていた。

「すっぽん鍋だ。生き血もとってあるぞ」

 宮司の敬道けいどうが、ぐつぐつと煮える土鍋をかき混ぜながら言った。
 その横で、蓮太郎の友人と名乗る男が、必死に頭を下げている。

「お願いします、宮司様! 蓮太郎のやつ、もう骨と皮ばかりになって……医者にも行かねぇし、あれは絶対、悪い狐か何かに化かされてるんです!」

「ふむ……。だが困ったな、この鍋から目が離せん。火加減が命なんでな」

 敬道はすげなく断り、煮えたぎる鍋に酒を注いだ。

「なんで神社ですっぽん煮てるんですか!」

「だからぁ――目が離せんと言っとるだろうが!」

「そんな……あいつ、死んじゃう。お願いしますよ!」

「――父さん、あんまりだろ。俺が行くよ」

 見かねた息子の晴臣はるおみが手を挙げた。
 敬道は、その言葉を待っていたかのように、にやりと笑う。
 その時、戸口から声がして振り返った。

「お、ええ匂いがするのう。ほう、すっぽんか。わしも呼ばれようかの」

 ぬっと顔を出したのは、敬道の喧嘩友達、柿坂寺の住職・宗玄そうげんだ。
 その背後には、不機嫌そうな顔をした銀髪の美青年――陰陽師の綺良きらも控えていた。

「おぅ、宗玄か。たくさんあるから、食っていけ。まだ当分かかるけどな」

「ほら、酒を持ってきちゃったぞ。皆で飲もう思うてな」

 敬道はポンと手を叩いた。

「ちょうどいい。宗玄、鍋を食わせてやる代わりに、綺良を借りるぞ」

「は? 俺を?」
 綺良が眉をひそめる。

「晴臣が厄介ごとの片付けに行くんだが、一人じゃ心許ねぇ。お前も行ってやれ」

「なぜ俺が……」

 綺良がきびすを返そうとすると、宗玄がニヤリと笑ってその衿首を掴んだ。

「ええじゃないか、綺良。働かざる者食うべからず、だ。腹を空かして戻ってこい、われの分の肉は残しといちゃるけぇ」

「嫌です」

「そうか。じゃあ、代わりにこっちですっぽん煮てくれるか? あと二時間は弱火で灰汁あくを取り続けなきゃならんのだが」

 敬道がお玉を突き出すと、綺良は露骨に嫌な顔をした。

「……それは御免こうむります。俺の性分じゃない」

「だろ? なら、晴臣の付き添いを頼んだ。こっちは任せろ、極上の雑炊を作って待っててやるからよ」

「……二択しかないんですか」

 綺良はため息をつくと、だるげに長い銀の髪をかき上げ、赤い瞳で男を見下ろした。

「案内してくれ。……食前の運動くらいにはなるだろう」




 蓮太郎の住まいは、手入れもされず庭木が伸び放題になった、古びた平屋だった。
 昼間だというのに雨戸が締め切られ、異様な気配に包まれている。
 友人の男は何度も頭を下げ、足早に去っていった。

 玄関を開けた途端、もわっとした空気と絵の具の匂いが流れてきた。晴臣は思わず鼻をつまむ。

「……ううっ、何かいるね」
「ああ。随分と濃いのがな……」

 綺良が不快げに顔をしかめた。
 その赤い瞳は、すでに部屋の隅にわだかまる怪しい影を見据えていた。

「……ひどいな。こりゃあ長生きできんぞ」

 部屋の奥、万年床に沈む蓮太郎は、友人の言う通り、今にも消えそうな蝋燭ろうそくのようだった。
 頬はこけ、目の下にはどす黒い隈がある。
 だが、その表情はどこか恍惚としていた。

「……彼女が来るんだ……ああ、早く会いたい……」

 うわ言のように呟き、虚空に手を伸ばしている。
 晴臣は部屋を見回し、イーゼルに架けられた絵に目を留めた。

 薄衣をまとった女の肖像画だ。
 黒い瞳が、じっとこちらを見ている気がする。
 その絵からは、絵の具の匂いに混じって、生きている人間のような生温かい色気が漂っていた。

「よし。今夜はここで張り込むぞ」

 綺良がてきぱきと指示を出した。

「この男は別の部屋に移して結界を張る。……はる、お前はここで寝ていろ」

「えっ、俺が?」

おとりだ。あの絵の女は、夜になれば男を求めて出てくる。……若い男なら、尚更食いつきがいいだろうさ」

「そんな……」

 綺良は悪戯っぽく笑い、蓮太郎を担いで隣室へと消えた。




 夜が来た。
 晴臣は、蓮太郎の寝床に潜り込み、身体を固くしていた。
 油絵の具と、蓮太郎の汗、そして微かな体液のような臭いが染み付いた布団は、居心地が悪い。

(……来るかな)

 心臓の音がうるさい。
 その時。
 衣擦れの音がした。
 晴臣は薄目を開けた。

 隅に置いたランプの薄明かりの中、絵の女が、ぬるりと枠から抜け出してくるのが見えた。
 白い肌が闇に浮き上がり、豊満な肢体が露わになる。
 女は迷うことなく、晴臣の寝ている布団へと這い寄ってきた。

「……蓮太郎さん?」

 布団がめくられる。
 晴臣が反応する間もなく、女が滑り込んできた。
 全裸だった。

(うわっ……!?)

 晴臣は悲鳴を上げそうになるのを、必死に飲み込んだ。
 女が晴臣の上にまたがり、体重を預けてくる。
 たわわな膨らみが、晴臣の胸に押し付けられ、下腹が密着する。

「……あ、あの……ちょっ……!」

 晴臣の思考が真っ白になった。
 神職とはいえ、十九歳の健康な男子である。
 いきなり全裸の美女に抱きつかれて、平静でいられるはずがない。
 血液が一気に下半身へと集まり、あられもない反応を示してしまう。

「温かい……蓮太郎さん、愛して……」

 女は人違いに気づいていないのか、それとも男なら誰でもいいのか。
 晴臣の着物のえりを強引にはだけさせ、首筋に熱い唇を寄せてくる。
 ちゅ、と吸い付かれる音。
 唾液で濡れた舌先が、晴臣の喉仏を舐め上げる。

(ひゃっ。だめだ、祓わなきゃ……でも、どうしたら……!)

 晴臣は思案の挙げ句、女の背中に手を回した。
 その瞬間、強烈な違和感に気づいた。

(え……温かい?)

 幽霊特有の、ぞくっとする冷たさがない。
 むしろ、人間よりも体温が高い。
 ドクン、ドクンと脈打つ心音すら聞こえる。
 そして、視界に映ったのは、女の背中から伸びる、赤い糸のような「気」の流れだった。
 それは家の外へと続き、どこか遠くの「生きた人間」と繋がっている。

(――生霊いきりょうだ!)

 死者ではない。
 どこかで生きている誰かの想いが、ここまで飛んできている。下手に断てば、本体が危うい。

 女が晴臣の唇を奪おうと、顔を寄せてくる。
 晴臣は羞恥心で爆発しそうになりながらも、覚悟を決めた。

「……ごめんなさい!」

 女の腰に手を回し、力一杯抱きしめた。
 これ以上、好き勝手させないために。
 そして、逃がさないために。

「きゃっ!?」

 女が驚いて身をよじる。
 柔らかな肌が擦れ合い、甘い体臭が鼻孔を満たした。
 晴臣の理性が悲鳴を上げる。

「綺良さん! 今だ! 出てきて!」

 晴臣は裏返った声で叫んだ。

「こいつ、死んでない! 生きてる人間だ! 滅しちゃだめだ!」

 ふすまが勢いよく開いた。

「――まったく。役得だな、晴」

 綺良が呆れた顔で立っていた。
 手には扇子。その瞳が、鋭く光る。

「生霊か。……道理で、妙に艶めかしいわけだ」

 女は綺良の気配に怯え、晴臣から逃れようと暴れる。
 だが、晴臣は必死に抱きとめたままだ。
 女の豊かな胸に顔が埋まりそうになりながら、懸命に耐えている。

「は、早くしてくれ! もう限界だ!」

 何が限界なのかは言わなかったが、顔は茹でたように真っ赤である。
 綺良は苦笑し、印を結んだ。

「その執着、断ち切ってやる。……『ぜつ』!」

 綺良が扇子を一閃させた。
 空間が歪むような衝撃が走る。
 女の悲鳴が上がった。
 女と本体を繋いでいた「縁」の糸が、プツリと切断されたのだ。

「あ……ぁ……」

 女の体が霧のように霞む。
 晴臣の腕の中から、その重みと温もりが消えていく。
 絵の方へと戻らず、その場で霧散して消滅した。
 部屋には、乱れた布団と、呆然とする晴臣だけが残された。
 晴臣は荒い息をつきながら、自分の股間を隠すように着物を合わせた。

「……助かった……」

「ほう。もう少し楽しんでいても良かったんだぞ?」

「からかわないでよ、綺良さん……!」

 二人がイーゼルを見ると、そこにあった肖像画からは女の姿が綺麗に消え失せ、ただの背景だけが描かれたキャンバスになっていた。




 翌朝。
 蓮太郎が目を覚ました。
 顔色はまだ悪いが、憑き物が落ちたように目は澄んでいた。

「……僕は、夢を見ていたようだ」

 蓮太郎は、女の消えたキャンバスを見つめ、寂しそうに呟いた。

 その時。
 ドンドンドン!
 激しく玄関を叩く音がした。

「蓮太郎さん! いますか!?」

 女の声だ。
 蓮太郎が驚いて戸を開けると、一人の若い女が飛び込んできた。
 派手な美人だ。
 その顔は、あの肖像画の女と瓜二つだった。

「……さ、小夜子さよこさん?」

「ごめんなさい、私……昨夜から急に、あなたが恋しくてたまらなくなって……!」

 女――小夜子は、蓮太郎の胸に飛び込んだ。
 生霊の縁を強制的に断たれた反動で、行き場を失った執着が本体へと一気に逆流したのだ。

「まあ、なんて酷い顔色……。私が看病してあげます。たっぷり、栄養をつけてあげるわ」

「えっ、あ、ちょっ……」

 小夜子は強引に上がり込み、蓮太郎を布団へと押し倒した。
 その勢いは、昨夜の生霊以上だ。

「蓮太郎さん、私を見て……もっと……」

 雨戸の閉まった部屋から、艶めかしい声と、男女の交わりの音が漏れてくる。

 家の外。
 晴臣と綺良は、その様子を伺っていた。

「……綺良さん」
「なんだ」
「あの人、今度こそ干からびて死ぬんじゃないの」

 中からは、蓮太郎の「嬉しいけど……もう無理……」という情けない悲鳴が聞こえてくる。
 綺良は肩をすくめ、扇子を開いた。

「霊障は祓えても、女難の相までは祓えんさ。……自業自得だ。行くぞ、敬道さんの鍋が待っている」

「……すっぽん、残ってるかなぁ」

 晴臣は疲れた体を伸ばし、大きな欠伸をした。
 その首筋には、昨夜つけられた口づけの痕が、うっすらと赤く残っていた。
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