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第二話 額縁の夜這い
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深夜の画室には、テレピン油と、絵の具の匂いが淀んでいる。
その薄暗い部屋の片隅に置かれたキャンバスが、ぬらりと濡れたような光沢を放った。
万年床に横たわる、売れない洋画家の蓮太郎は、痩せこけた身体を起こし、熱に浮かされた瞳でそれを見つめている。
「……おいで。今夜も、おいで」
キャンバスの中、微笑む女の肖像画が、生き物のように波打った。
衣擦れの音がして、女の白い脚が枠の外へと踏み出された。
女はゆっくりと蓮太郎の枕元へ歩み寄ると、身につけていた薄絹を、はらりと床に落とした。
「……蓮太郎さん」
闇に浮かぶ肢体は、妖しく、そして豊満だった。
女はそのまま、蓮太郎の布団へと滑り込む。
「ああ、待っていた……!」
蓮太郎は、縋りつくように女の腰に手を回す。
女の肌は、じっとりと熱を帯びている。
女が蓮太郎の上にまたがった。
成熟した果実のような乳房が、蓮太郎の痩せ細った胸板に押し付けられ、むにゅりと形を変える。
「ん……っ、あ……」
女が腰を揺らすたびに、蓮太郎の喉から快楽の呻き声が漏れる。
締め付けられるたび、蓮太郎の精気が根こそぎ吸い上げられていく。
それでも、蓮太郎は腰を突き上げるのをやめられない。
髪が彼の顔にかかり、濃厚な女の体臭が、部屋に満ちた油の匂いを塗り替えていく。
「もっと……僕を食べてくれ……」
「ええ……全部、私のもの……」
女は蓮太郎の唇を塞ぎ、貪るように舌を絡めた。
唾液の糸が銀色に光り、部屋には身体が重なり合う卑猥な音だけが、いつまでも響いていた。
◇
翌日の昼下がり。
灯守神社の社務所には、滋味深く、どこか野性味のある出汁の香りが漂っていた。
「すっぽん鍋だ。生き血もとってあるぞ」
宮司の敬道が、ぐつぐつと煮える土鍋をかき混ぜながら言った。
その横で、蓮太郎の友人と名乗る男が、必死に頭を下げている。
「お願いします、宮司様! 蓮太郎のやつ、もう骨と皮ばかりになって……医者にも行かねぇし、あれは絶対、悪い狐か何かに化かされてるんです!」
「ふむ……。だが困ったな、この鍋から目が離せん。火加減が命なんでな」
敬道はすげなく断り、煮えたぎる鍋に酒を注いだ。
「なんで神社ですっぽん煮てるんですか!」
「だからぁ――目が離せんと言っとるだろうが!」
「そんな……あいつ、死んじゃう。お願いしますよ!」
「――父さん、あんまりだろ。俺が行くよ」
見かねた息子の晴臣が手を挙げた。
敬道は、その言葉を待っていたかのように、にやりと笑う。
その時、戸口から声がして振り返った。
「お、ええ匂いがするのう。ほう、すっぽんか。わしも呼ばれようかの」
ぬっと顔を出したのは、敬道の喧嘩友達、柿坂寺の住職・宗玄だ。
その背後には、不機嫌そうな顔をした銀髪の美青年――陰陽師の綺良も控えていた。
「おぅ、宗玄か。たくさんあるから、食っていけ。まだ当分かかるけどな」
「ほら、酒を持ってきちゃったぞ。皆で飲もう思うてな」
敬道はポンと手を叩いた。
「ちょうどいい。宗玄、鍋を食わせてやる代わりに、綺良を借りるぞ」
「は? 俺を?」
綺良が眉をひそめる。
「晴臣が厄介ごとの片付けに行くんだが、一人じゃ心許ねぇ。お前も行ってやれ」
「なぜ俺が……」
綺良が踵を返そうとすると、宗玄がニヤリと笑ってその衿首を掴んだ。
「ええじゃないか、綺良。働かざる者食うべからず、だ。腹を空かして戻ってこい、われの分の肉は残しといちゃるけぇ」
「嫌です」
「そうか。じゃあ、代わりにこっちですっぽん煮てくれるか? あと二時間は弱火で灰汁を取り続けなきゃならんのだが」
敬道がお玉を突き出すと、綺良は露骨に嫌な顔をした。
「……それは御免こうむります。俺の性分じゃない」
「だろ? なら、晴臣の付き添いを頼んだ。こっちは任せろ、極上の雑炊を作って待っててやるからよ」
「……二択しかないんですか」
綺良はため息をつくと、気だるげに長い銀の髪をかき上げ、赤い瞳で男を見下ろした。
「案内してくれ。……食前の運動くらいにはなるだろう」
◇
蓮太郎の住まいは、手入れもされず庭木が伸び放題になった、古びた平屋だった。
昼間だというのに雨戸が締め切られ、異様な気配に包まれている。
友人の男は何度も頭を下げ、足早に去っていった。
玄関を開けた途端、もわっとした空気と絵の具の匂いが流れてきた。晴臣は思わず鼻をつまむ。
「……ううっ、何かいるね」
「ああ。随分と濃いのがな……」
綺良が不快げに顔をしかめた。
その赤い瞳は、すでに部屋の隅に蟠る怪しい影を見据えていた。
「……ひどいな。こりゃあ長生きできんぞ」
部屋の奥、万年床に沈む蓮太郎は、友人の言う通り、今にも消えそうな蝋燭のようだった。
頬はこけ、目の下にはどす黒い隈がある。
だが、その表情はどこか恍惚としていた。
「……彼女が来るんだ……ああ、早く会いたい……」
うわ言のように呟き、虚空に手を伸ばしている。
晴臣は部屋を見回し、イーゼルに架けられた絵に目を留めた。
薄衣を纏った女の肖像画だ。
黒い瞳が、じっとこちらを見ている気がする。
その絵からは、絵の具の匂いに混じって、生きている人間のような生温かい色気が漂っていた。
「よし。今夜はここで張り込むぞ」
綺良がてきぱきと指示を出した。
「この男は別の部屋に移して結界を張る。……晴、お前はここで寝ていろ」
「えっ、俺が?」
「囮だ。あの絵の女は、夜になれば男を求めて出てくる。……若い男なら、尚更食いつきがいいだろうさ」
「そんな……」
綺良は悪戯っぽく笑い、蓮太郎を担いで隣室へと消えた。
◇
夜が来た。
晴臣は、蓮太郎の寝床に潜り込み、身体を固くしていた。
油絵の具と、蓮太郎の汗、そして微かな体液のような臭いが染み付いた布団は、居心地が悪い。
(……来るかな)
心臓の音がうるさい。
その時。
衣擦れの音がした。
晴臣は薄目を開けた。
隅に置いたランプの薄明かりの中、絵の女が、ぬるりと枠から抜け出してくるのが見えた。
白い肌が闇に浮き上がり、豊満な肢体が露わになる。
女は迷うことなく、晴臣の寝ている布団へと這い寄ってきた。
「……蓮太郎さん?」
布団がめくられる。
晴臣が反応する間もなく、女が滑り込んできた。
全裸だった。
(うわっ……!?)
晴臣は悲鳴を上げそうになるのを、必死に飲み込んだ。
女が晴臣の上にまたがり、体重を預けてくる。
たわわな膨らみが、晴臣の胸に押し付けられ、下腹が密着する。
「……あ、あの……ちょっ……!」
晴臣の思考が真っ白になった。
神職とはいえ、十九歳の健康な男子である。
いきなり全裸の美女に抱きつかれて、平静でいられるはずがない。
血液が一気に下半身へと集まり、あられもない反応を示してしまう。
「温かい……蓮太郎さん、愛して……」
女は人違いに気づいていないのか、それとも男なら誰でもいいのか。
晴臣の着物の衿を強引にはだけさせ、首筋に熱い唇を寄せてくる。
ちゅ、と吸い付かれる音。
唾液で濡れた舌先が、晴臣の喉仏を舐め上げる。
(ひゃっ。だめだ、祓わなきゃ……でも、どうしたら……!)
晴臣は思案の挙げ句、女の背中に手を回した。
その瞬間、強烈な違和感に気づいた。
(え……温かい?)
幽霊特有の、ぞくっとする冷たさがない。
むしろ、人間よりも体温が高い。
ドクン、ドクンと脈打つ心音すら聞こえる。
そして、視界に映ったのは、女の背中から伸びる、赤い糸のような「気」の流れだった。
それは家の外へと続き、どこか遠くの「生きた人間」と繋がっている。
(――生霊だ!)
死者ではない。
どこかで生きている誰かの想いが、ここまで飛んできている。下手に断てば、本体が危うい。
女が晴臣の唇を奪おうと、顔を寄せてくる。
晴臣は羞恥心で爆発しそうになりながらも、覚悟を決めた。
「……ごめんなさい!」
女の腰に手を回し、力一杯抱きしめた。
これ以上、好き勝手させないために。
そして、逃がさないために。
「きゃっ!?」
女が驚いて身をよじる。
柔らかな肌が擦れ合い、甘い体臭が鼻孔を満たした。
晴臣の理性が悲鳴を上げる。
「綺良さん! 今だ! 出てきて!」
晴臣は裏返った声で叫んだ。
「こいつ、死んでない! 生きてる人間だ! 滅しちゃだめだ!」
襖が勢いよく開いた。
「――まったく。役得だな、晴」
綺良が呆れた顔で立っていた。
手には扇子。その瞳が、鋭く光る。
「生霊か。……道理で、妙に艶めかしいわけだ」
女は綺良の気配に怯え、晴臣から逃れようと暴れる。
だが、晴臣は必死に抱きとめたままだ。
女の豊かな胸に顔が埋まりそうになりながら、懸命に耐えている。
「は、早くしてくれ! もう限界だ!」
何が限界なのかは言わなかったが、顔は茹でたように真っ赤である。
綺良は苦笑し、印を結んだ。
「その執着、断ち切ってやる。……『絶』!」
綺良が扇子を一閃させた。
空間が歪むような衝撃が走る。
女の悲鳴が上がった。
女と本体を繋いでいた「縁」の糸が、プツリと切断されたのだ。
「あ……ぁ……」
女の体が霧のように霞む。
晴臣の腕の中から、その重みと温もりが消えていく。
絵の方へと戻らず、その場で霧散して消滅した。
部屋には、乱れた布団と、呆然とする晴臣だけが残された。
晴臣は荒い息をつきながら、自分の股間を隠すように着物を合わせた。
「……助かった……」
「ほう。もう少し楽しんでいても良かったんだぞ?」
「からかわないでよ、綺良さん……!」
二人がイーゼルを見ると、そこにあった肖像画からは女の姿が綺麗に消え失せ、ただの背景だけが描かれたキャンバスになっていた。
◇
翌朝。
蓮太郎が目を覚ました。
顔色はまだ悪いが、憑き物が落ちたように目は澄んでいた。
「……僕は、夢を見ていたようだ」
蓮太郎は、女の消えたキャンバスを見つめ、寂しそうに呟いた。
その時。
ドンドンドン!
激しく玄関を叩く音がした。
「蓮太郎さん! いますか!?」
女の声だ。
蓮太郎が驚いて戸を開けると、一人の若い女が飛び込んできた。
派手な美人だ。
その顔は、あの肖像画の女と瓜二つだった。
「……さ、小夜子さん?」
「ごめんなさい、私……昨夜から急に、あなたが恋しくてたまらなくなって……!」
女――小夜子は、蓮太郎の胸に飛び込んだ。
生霊の縁を強制的に断たれた反動で、行き場を失った執着が本体へと一気に逆流したのだ。
「まあ、なんて酷い顔色……。私が看病してあげます。たっぷり、栄養をつけてあげるわ」
「えっ、あ、ちょっ……」
小夜子は強引に上がり込み、蓮太郎を布団へと押し倒した。
その勢いは、昨夜の生霊以上だ。
「蓮太郎さん、私を見て……もっと……」
雨戸の閉まった部屋から、艶めかしい声と、男女の交わりの音が漏れてくる。
家の外。
晴臣と綺良は、その様子を伺っていた。
「……綺良さん」
「なんだ」
「あの人、今度こそ干からびて死ぬんじゃないの」
中からは、蓮太郎の「嬉しいけど……もう無理……」という情けない悲鳴が聞こえてくる。
綺良は肩をすくめ、扇子を開いた。
「霊障は祓えても、女難の相までは祓えんさ。……自業自得だ。行くぞ、敬道さんの鍋が待っている」
「……すっぽん、残ってるかなぁ」
晴臣は疲れた体を伸ばし、大きな欠伸をした。
その首筋には、昨夜つけられた口づけの痕が、うっすらと赤く残っていた。
その薄暗い部屋の片隅に置かれたキャンバスが、ぬらりと濡れたような光沢を放った。
万年床に横たわる、売れない洋画家の蓮太郎は、痩せこけた身体を起こし、熱に浮かされた瞳でそれを見つめている。
「……おいで。今夜も、おいで」
キャンバスの中、微笑む女の肖像画が、生き物のように波打った。
衣擦れの音がして、女の白い脚が枠の外へと踏み出された。
女はゆっくりと蓮太郎の枕元へ歩み寄ると、身につけていた薄絹を、はらりと床に落とした。
「……蓮太郎さん」
闇に浮かぶ肢体は、妖しく、そして豊満だった。
女はそのまま、蓮太郎の布団へと滑り込む。
「ああ、待っていた……!」
蓮太郎は、縋りつくように女の腰に手を回す。
女の肌は、じっとりと熱を帯びている。
女が蓮太郎の上にまたがった。
成熟した果実のような乳房が、蓮太郎の痩せ細った胸板に押し付けられ、むにゅりと形を変える。
「ん……っ、あ……」
女が腰を揺らすたびに、蓮太郎の喉から快楽の呻き声が漏れる。
締め付けられるたび、蓮太郎の精気が根こそぎ吸い上げられていく。
それでも、蓮太郎は腰を突き上げるのをやめられない。
髪が彼の顔にかかり、濃厚な女の体臭が、部屋に満ちた油の匂いを塗り替えていく。
「もっと……僕を食べてくれ……」
「ええ……全部、私のもの……」
女は蓮太郎の唇を塞ぎ、貪るように舌を絡めた。
唾液の糸が銀色に光り、部屋には身体が重なり合う卑猥な音だけが、いつまでも響いていた。
◇
翌日の昼下がり。
灯守神社の社務所には、滋味深く、どこか野性味のある出汁の香りが漂っていた。
「すっぽん鍋だ。生き血もとってあるぞ」
宮司の敬道が、ぐつぐつと煮える土鍋をかき混ぜながら言った。
その横で、蓮太郎の友人と名乗る男が、必死に頭を下げている。
「お願いします、宮司様! 蓮太郎のやつ、もう骨と皮ばかりになって……医者にも行かねぇし、あれは絶対、悪い狐か何かに化かされてるんです!」
「ふむ……。だが困ったな、この鍋から目が離せん。火加減が命なんでな」
敬道はすげなく断り、煮えたぎる鍋に酒を注いだ。
「なんで神社ですっぽん煮てるんですか!」
「だからぁ――目が離せんと言っとるだろうが!」
「そんな……あいつ、死んじゃう。お願いしますよ!」
「――父さん、あんまりだろ。俺が行くよ」
見かねた息子の晴臣が手を挙げた。
敬道は、その言葉を待っていたかのように、にやりと笑う。
その時、戸口から声がして振り返った。
「お、ええ匂いがするのう。ほう、すっぽんか。わしも呼ばれようかの」
ぬっと顔を出したのは、敬道の喧嘩友達、柿坂寺の住職・宗玄だ。
その背後には、不機嫌そうな顔をした銀髪の美青年――陰陽師の綺良も控えていた。
「おぅ、宗玄か。たくさんあるから、食っていけ。まだ当分かかるけどな」
「ほら、酒を持ってきちゃったぞ。皆で飲もう思うてな」
敬道はポンと手を叩いた。
「ちょうどいい。宗玄、鍋を食わせてやる代わりに、綺良を借りるぞ」
「は? 俺を?」
綺良が眉をひそめる。
「晴臣が厄介ごとの片付けに行くんだが、一人じゃ心許ねぇ。お前も行ってやれ」
「なぜ俺が……」
綺良が踵を返そうとすると、宗玄がニヤリと笑ってその衿首を掴んだ。
「ええじゃないか、綺良。働かざる者食うべからず、だ。腹を空かして戻ってこい、われの分の肉は残しといちゃるけぇ」
「嫌です」
「そうか。じゃあ、代わりにこっちですっぽん煮てくれるか? あと二時間は弱火で灰汁を取り続けなきゃならんのだが」
敬道がお玉を突き出すと、綺良は露骨に嫌な顔をした。
「……それは御免こうむります。俺の性分じゃない」
「だろ? なら、晴臣の付き添いを頼んだ。こっちは任せろ、極上の雑炊を作って待っててやるからよ」
「……二択しかないんですか」
綺良はため息をつくと、気だるげに長い銀の髪をかき上げ、赤い瞳で男を見下ろした。
「案内してくれ。……食前の運動くらいにはなるだろう」
◇
蓮太郎の住まいは、手入れもされず庭木が伸び放題になった、古びた平屋だった。
昼間だというのに雨戸が締め切られ、異様な気配に包まれている。
友人の男は何度も頭を下げ、足早に去っていった。
玄関を開けた途端、もわっとした空気と絵の具の匂いが流れてきた。晴臣は思わず鼻をつまむ。
「……ううっ、何かいるね」
「ああ。随分と濃いのがな……」
綺良が不快げに顔をしかめた。
その赤い瞳は、すでに部屋の隅に蟠る怪しい影を見据えていた。
「……ひどいな。こりゃあ長生きできんぞ」
部屋の奥、万年床に沈む蓮太郎は、友人の言う通り、今にも消えそうな蝋燭のようだった。
頬はこけ、目の下にはどす黒い隈がある。
だが、その表情はどこか恍惚としていた。
「……彼女が来るんだ……ああ、早く会いたい……」
うわ言のように呟き、虚空に手を伸ばしている。
晴臣は部屋を見回し、イーゼルに架けられた絵に目を留めた。
薄衣を纏った女の肖像画だ。
黒い瞳が、じっとこちらを見ている気がする。
その絵からは、絵の具の匂いに混じって、生きている人間のような生温かい色気が漂っていた。
「よし。今夜はここで張り込むぞ」
綺良がてきぱきと指示を出した。
「この男は別の部屋に移して結界を張る。……晴、お前はここで寝ていろ」
「えっ、俺が?」
「囮だ。あの絵の女は、夜になれば男を求めて出てくる。……若い男なら、尚更食いつきがいいだろうさ」
「そんな……」
綺良は悪戯っぽく笑い、蓮太郎を担いで隣室へと消えた。
◇
夜が来た。
晴臣は、蓮太郎の寝床に潜り込み、身体を固くしていた。
油絵の具と、蓮太郎の汗、そして微かな体液のような臭いが染み付いた布団は、居心地が悪い。
(……来るかな)
心臓の音がうるさい。
その時。
衣擦れの音がした。
晴臣は薄目を開けた。
隅に置いたランプの薄明かりの中、絵の女が、ぬるりと枠から抜け出してくるのが見えた。
白い肌が闇に浮き上がり、豊満な肢体が露わになる。
女は迷うことなく、晴臣の寝ている布団へと這い寄ってきた。
「……蓮太郎さん?」
布団がめくられる。
晴臣が反応する間もなく、女が滑り込んできた。
全裸だった。
(うわっ……!?)
晴臣は悲鳴を上げそうになるのを、必死に飲み込んだ。
女が晴臣の上にまたがり、体重を預けてくる。
たわわな膨らみが、晴臣の胸に押し付けられ、下腹が密着する。
「……あ、あの……ちょっ……!」
晴臣の思考が真っ白になった。
神職とはいえ、十九歳の健康な男子である。
いきなり全裸の美女に抱きつかれて、平静でいられるはずがない。
血液が一気に下半身へと集まり、あられもない反応を示してしまう。
「温かい……蓮太郎さん、愛して……」
女は人違いに気づいていないのか、それとも男なら誰でもいいのか。
晴臣の着物の衿を強引にはだけさせ、首筋に熱い唇を寄せてくる。
ちゅ、と吸い付かれる音。
唾液で濡れた舌先が、晴臣の喉仏を舐め上げる。
(ひゃっ。だめだ、祓わなきゃ……でも、どうしたら……!)
晴臣は思案の挙げ句、女の背中に手を回した。
その瞬間、強烈な違和感に気づいた。
(え……温かい?)
幽霊特有の、ぞくっとする冷たさがない。
むしろ、人間よりも体温が高い。
ドクン、ドクンと脈打つ心音すら聞こえる。
そして、視界に映ったのは、女の背中から伸びる、赤い糸のような「気」の流れだった。
それは家の外へと続き、どこか遠くの「生きた人間」と繋がっている。
(――生霊だ!)
死者ではない。
どこかで生きている誰かの想いが、ここまで飛んできている。下手に断てば、本体が危うい。
女が晴臣の唇を奪おうと、顔を寄せてくる。
晴臣は羞恥心で爆発しそうになりながらも、覚悟を決めた。
「……ごめんなさい!」
女の腰に手を回し、力一杯抱きしめた。
これ以上、好き勝手させないために。
そして、逃がさないために。
「きゃっ!?」
女が驚いて身をよじる。
柔らかな肌が擦れ合い、甘い体臭が鼻孔を満たした。
晴臣の理性が悲鳴を上げる。
「綺良さん! 今だ! 出てきて!」
晴臣は裏返った声で叫んだ。
「こいつ、死んでない! 生きてる人間だ! 滅しちゃだめだ!」
襖が勢いよく開いた。
「――まったく。役得だな、晴」
綺良が呆れた顔で立っていた。
手には扇子。その瞳が、鋭く光る。
「生霊か。……道理で、妙に艶めかしいわけだ」
女は綺良の気配に怯え、晴臣から逃れようと暴れる。
だが、晴臣は必死に抱きとめたままだ。
女の豊かな胸に顔が埋まりそうになりながら、懸命に耐えている。
「は、早くしてくれ! もう限界だ!」
何が限界なのかは言わなかったが、顔は茹でたように真っ赤である。
綺良は苦笑し、印を結んだ。
「その執着、断ち切ってやる。……『絶』!」
綺良が扇子を一閃させた。
空間が歪むような衝撃が走る。
女の悲鳴が上がった。
女と本体を繋いでいた「縁」の糸が、プツリと切断されたのだ。
「あ……ぁ……」
女の体が霧のように霞む。
晴臣の腕の中から、その重みと温もりが消えていく。
絵の方へと戻らず、その場で霧散して消滅した。
部屋には、乱れた布団と、呆然とする晴臣だけが残された。
晴臣は荒い息をつきながら、自分の股間を隠すように着物を合わせた。
「……助かった……」
「ほう。もう少し楽しんでいても良かったんだぞ?」
「からかわないでよ、綺良さん……!」
二人がイーゼルを見ると、そこにあった肖像画からは女の姿が綺麗に消え失せ、ただの背景だけが描かれたキャンバスになっていた。
◇
翌朝。
蓮太郎が目を覚ました。
顔色はまだ悪いが、憑き物が落ちたように目は澄んでいた。
「……僕は、夢を見ていたようだ」
蓮太郎は、女の消えたキャンバスを見つめ、寂しそうに呟いた。
その時。
ドンドンドン!
激しく玄関を叩く音がした。
「蓮太郎さん! いますか!?」
女の声だ。
蓮太郎が驚いて戸を開けると、一人の若い女が飛び込んできた。
派手な美人だ。
その顔は、あの肖像画の女と瓜二つだった。
「……さ、小夜子さん?」
「ごめんなさい、私……昨夜から急に、あなたが恋しくてたまらなくなって……!」
女――小夜子は、蓮太郎の胸に飛び込んだ。
生霊の縁を強制的に断たれた反動で、行き場を失った執着が本体へと一気に逆流したのだ。
「まあ、なんて酷い顔色……。私が看病してあげます。たっぷり、栄養をつけてあげるわ」
「えっ、あ、ちょっ……」
小夜子は強引に上がり込み、蓮太郎を布団へと押し倒した。
その勢いは、昨夜の生霊以上だ。
「蓮太郎さん、私を見て……もっと……」
雨戸の閉まった部屋から、艶めかしい声と、男女の交わりの音が漏れてくる。
家の外。
晴臣と綺良は、その様子を伺っていた。
「……綺良さん」
「なんだ」
「あの人、今度こそ干からびて死ぬんじゃないの」
中からは、蓮太郎の「嬉しいけど……もう無理……」という情けない悲鳴が聞こえてくる。
綺良は肩をすくめ、扇子を開いた。
「霊障は祓えても、女難の相までは祓えんさ。……自業自得だ。行くぞ、敬道さんの鍋が待っている」
「……すっぽん、残ってるかなぁ」
晴臣は疲れた体を伸ばし、大きな欠伸をした。
その首筋には、昨夜つけられた口づけの痕が、うっすらと赤く残っていた。
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