夜行性の暴君

狼の章

間違い探し３

　


　いつの間にか眠っていた僕は、明日紀に起こされて服を着るように命じられた。


「ピクニックに行く」


　つまりデートだ。こうしちゃいられない。僕は痛くて泣きながら服を身に付けた。怪我のせいで熱が出たのだろう。頭が朦朧とする。もたもたしていたら、明日紀が僕の足に靴を履かせてくれた。優しい。天使だ。激痛と感動で気が遠くなりそうだった。少し乱暴だったけど、きっとこんなことをするのは初めてなんだろう。慣れない作業をする明日紀も可愛い。

　痛くて立ち上がるのもやっとの僕に、明日紀は肩を貸して支えてくれる。そのまま歩いて、と言うより引き摺られて部屋を出た。手ぶらだけどたぶん敷物やお弁当は、僕が寝てる間に準備してくれていたのだろう。僕の恋人は本当に僕を喜ばせるのが上手だ。間違いない。今夜は生れてから一番幸せなお出掛けになる。

　マンションの前にタクシーじゃない一台の車が待機していて、僕たちは後部座席に乗り込んだ。運転席には女が座っている。年は三十くらいか。そいつがバックミラー越しにぎらついた目つきで僕を見てきて気味が悪い。いくら口が縫われてるからって見過ぎだと思う。明日紀とどういう関係なんだろう。目で疑問を投げかけても明日紀は何も言ってくれない。

　車が動き出すと明日紀が僕の手を握ってくれた。指先を潰されて痺れるほど痛い。恋人には常に触れていたいその気持ち、凄くよく分かるよ。僕も同じ気持ちだから。

　真っ暗な雑木林の中を明日紀に引っ張られて歩く。人が通るような場所じゃない。張り出した枝が鞭のように顔を打つ。明かりは後ろをついてくる運転手の女が持つライトが頼りだ。自分の陰で前が良く見えない。凸凹の地面に足を取られる。爪先は痛いを通り越して麻痺してきた。明日紀が引っ張ってくれなかったら一歩も歩けないだろう。それにしても明日紀はよくすいすい歩けると感心してしまう。山育ちなのかしら。

　しばらくすると明日紀が立ち止まって僕を横に並ばせた。何だろうと思って視線を上げると、前方には開けた場所があって、その上には綺麗な星空。僕にこれを見せたかったんだね、明日紀。素敵な思い出をありがとう。今すぐ明日紀に愛してるって伝えたい。キスしようとしたら強い力で突き飛ばされた。

　この場所が開けていたのは下が沼だったからだった。立ち上がると脛の真ん中くらいに水面がきた。たいしたことない深さだけど、底に溜まった泥に足が沈む。歩こうとすると爪先の傷が靴に当たってびっくりするくらい痛い。こんなドッキリを仕掛けてくるなんて明日紀はヤンチャな子だ。


「こっちを見ろ、篠原孝輔」


　僕が泥の中で悪戦苦闘している間に設置されたらしいランタンが、三方向から沼を照らしていた。明日紀は隣に立つ運転手の女の肩を抱いていた。


「これはお前が殺した上原うえはら大和やまとの母親だ」


　ちょっと時間がかかったけど思い出した。僕の愛を信じないで、僕から逃げようとした裏切り者だ。だから殺した。あいつと明日紀が知り合いだった？  だとしたらこれは……


「俺との遊びはここまでだ。次は未沙みさが相手をする」

「んんんーっ！」


　僕の叫びは言葉にならなかった。女が小さな斧を持って下りてくる。


「ははは！  逃げろ孝輔、殺されるぞ！」


　嘘だろう、明日紀。僕の運命の恋人。君まで僕を裏切るというのか？  それともドッキリの続き？  

　池から上がろうと岸に手を着いたら、女が僕の指を斧で叩き落としやがった。なんで狂暴な女なんだ！

　泥の中を必死に逃げる。切られて、逃げて、また切られて。後ろから聞こえる粗い呼吸のような笑い声が耳障りだ。苦しい。とうとう我慢できなくなって針金を外した。力尽くでやったから穴が広がって、口の中が血でいっぱいになる。大きく息を吸い込んでも全然酸素が足りない。この三日間がハードだったし、日頃の運動不足も良くなかった。こんなことならジョギングでもしておくんだった。


「未沙おいで。少し休憩しよう」


　僕だけ呼ばれなかったのは悲しいけれど助かった。これで一息つける。僕は握っていた手を広げたがそこに針金はなかった。恋人からの贈り物を失くすなんて最低だ。慌てていたら肩に水がかけられた。なんだろうと思って見てみると、それは女のおしっこだった。明日紀に持ち上げられた女のおしっこが僕に命中してる。汚い！  汚い汚い汚い！！


「未沙、これが終わったら最後までさせてくれる？」

「もちろんよ、明日紀。壊れるまで愛して……」


　あの明日紀がお願いしている。しかも跪いて女の股間を舐めている。なんだこの光景は。僕だってまだ一回も舐めてもらってないのに！

　僕は胸が痛んだ。さっきまではほんの少し、もしかしたらこれは悪い冗談なんじゃないかと思っていたんだ。でもそうじゃない。僕は裏切られた。

　また追いかけっこが始まった。死にそうな僕に岸から差し伸べられた手が見える。その先には微笑みを浮かべた明日紀がいた。綺麗だ。美しい僕の妖精。あんなことをしておいて、まだ僕に希望を持たせるの？  運命の恋人。また君を信じていいの？


「死ね、篠原孝輔。殺されろ」


　どうしてそんなことを言うの？  痛い。明日紀の手を取りたいのに、女が邪魔してくる。助けて明日紀。殺されてしまう。寒い。女の笑い声が煩い。助けて。怖い。


「死ねぇ！  ゴミ屑！  大和の仇！  ざまあみろ！！」


　シングルマザーの未沙は息子の大和と二人で生活していた。三十過ぎの子持ちとは思えない美貌の母親と、よく似た美少年の息子。明日紀は最近この親子に目を付けていた。健全で正しい常識を備えた彼らを少しずつ破壊していくつもりだったのに、篠原が横から掻っ攫った。拉致、監禁、凌辱、そして殺害。息子がどんな目に遭わされたか知った未沙は全てを捨ててでも復讐する決意を固めた。篠原の死体に何度も斧を振り下ろす彼女にかつての輝きはなかった。

　明日紀にとってはすっきりしない幕引きとなってしまった。怨嗟の闇に沈めたかったのに、篠原は無駄なポジティブを発揮してくれた。気違いは往生際が悪い奴が多いが、あれは断トツだ。今まで痛めつけた人間の中で一番しぶとかった。これだから頭のおかしい奴は困る。

　長く生きているとこういうことも起こる。すべてが思い通りにはいかないものだ。