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第1章
第10話
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エルは朝逸早く部屋を出ると、仕込みの最中のシェーバを急かして朝食を作ってもらい、飲み込むように一気に食べると武の神の神殿に駆けて行った。
昨日の興奮が収まるどころか、むしろ時間を置くごとに大きくなり夜が明けるのが待ち遠しくて仕方なかったのである。正に子供の反応であった。昨日ライネルにからかわれたのも弟分を構う気持ちもあったろうが、子供らしさが抜け切っていない所を見抜かれたせいもあるだろう。
神殿に着き門番に通してもらったが、まだアルドは神殿に来訪していないそうだ。
アルドを待つ間に修行の続きをしようと修練場に赴き、武人拳、すなわち拳に気を籠めた中段突きを始める。
中腰になり腰だめに構えた右拳に気を集めようと試みる。
昨日の成果もあってか、エルの意思に応えるように純白の気が徐々に右拳に現れ始める。
当初は湯気のように立ち昇っては消えていたが、やがては右拳を球状に覆いつくす。
鋭い気合の声と共に、左前足で踏み込み腰を回転させながら気塊を纏わせた右拳で中段突きを放つ。
右拳を引きながら気を解放し、今度は左拳に気を集中させる。
本来なら右を引くと同時に返しの左拳を放つべきだが、まだ気の集中に慣れないエルでは間に合わない。
数秒の間をおいてから、ようやく気を籠めた左拳で突きを放つ。
武人拳の連続突きが可能になるのはまだまだ先のようだ。
エルは少しでも気の扱いに熟達すべく、ただひたすらに武人拳の練習に励むのだった。
「朝早くから頑張ってるようだな」
後方から声を掛けられ、アルドが傍にいることに気がついた。エルは鍛錬に没頭するあまり、周囲のことなど意識から除外していたのだ。恥ずかしそうに頭を掻きながらアルドに挨拶を返す。
「アルド神官、おはようございます。
その……、気付くのが遅くなってすいません」
「気にしなくて良い。
それだけ修行に集中できていたということだからな。
さて、今日の訓練は受けや捌きや足運びなどの防御術についてだ」
「はい、よろしくお願いします」
エルの威勢の良い声に満足そうに頷くと、アルドは技の説明に入る。
「まず、回歩という歩術だ。
これは相手の側面に回り込むと同時にこちらの攻撃態勢を整える足さばきだ」
そう言うと、アルドがエルの左横に回り込んだ。
エルの視点では右側面にアルドが回り込んだと思ったら、既に攻撃の態勢ができている。確かに回り込みが完了した時点で攻撃ができるようだ。
向き直ったエルに、もう一度アルドが左横に回り込む。
エルはアルドの足さばきを一瞬たりとも逃すまいと注視する。
どうやらこの足さばきは、2つの行程から成り立っているようだ。まず、左前足を動かし相手の左横に移動する。その後、後足である右足を引きつけながら腰を回転させ自分の真正面に相手を捉えるのだ。
つまり、相手に対して左足を前足として前後に足を開き、かつ、いつでも攻撃できるように中腰になっている、左半身の状態を側面に回り込みながら継続するのが回歩という歩術なのだろう。
エルも見様見真似でアルドの左横に回り込む。
「ほうっ。そうだ。
よくわかったじゃないか。
だが、回歩はそれだけではない後足で逆側に回り込むこともできる」
アルドは左半身の状態から右後足でエルの右側に回りこみ、残った左足を引き付けて後足にすることで右半身になる。
相手の両側どちらにも回り込める技術というわけだ。
「左半身の状態を継続したいなら、左前足で相手の左に回る。
逆に右半身になりたいなら、右後足で相手の右に回るというわけだ。
当然、右半身状態からなら逆になるから気をつけるように」
この回歩を使えば、回り込み攻撃準備をするという2つの動作を1つの動作にまとめることが可能になる。その有用性は計り知れない。
エルは夢中になって回歩の練習に取り組むのだった。
「回歩はそれまで。
次は廻し受けだ。
両手をやや開いた状態で胸の前に置き、上下に円を描くように開くのだ」
アルドは肩の幅まで左右に足を開いて腰を落とし、胸の前に両手を上下に構えると肘を内から外に開きながら腕を回転させる。両手を開き始めた時は別々の円だったものが次第に大きくなり、やがて一つの大きな真円となった。
「この技は両腕を外に開くときの遠心力によって相手の攻撃を外に弾く技だ。両手に気を籠めれば、魔法や弓だって防げるぞ」
「はい、やってみます」
エルは中腰になり腕を回し上下に円を描き始める。
「この技は受けに使うだけでない。
相手の攻撃を捌いて投げにつないだり、または相手の体勢を崩してこちらの攻撃につないだり、あるいは相手の掴みへの外しに使えたりと様々な用途に使える重要な技だ。
よく修練するように」
「はい、わかりました」
エルはアルドにその都度指摘を受けながら何度も廻し受けを行う。
どうにか形になったら次の技である。
「よし、廻し受けは大分形になったな。
次は螺旋受けだ。
これは肘から先の部分を内から外に回転させて攻撃を外に捌く技だ」
アルドは左半身の状態から左手を上方に掲げ、肘を起点として前腕部を独楽のように回転させる。この受け技は腕のみで可能なので、相手の連続攻撃を受ける際などに使えるだろう。
「螺旋受けは瞬間的な回転力が重要になる。相手の攻撃を捌く一瞬の間にどれだけ高速で回転できるかが鍵になるぞ。
さて、次は本日教える最後の技だ。
その技を牙受けという」
アルドは左半身の状態になるとエルに突きを放つように促す。
エルは言われるままアルドに中段突きを行う。
突きがアルドの胸に迫る。
だが、前方に掲げられたアルドの左手を通過した瞬間、突きを左側に逸らされると同時に手首に激しい痛みを覚える。アルドが手の甲でエルの手首を打ち据えたのだ。
「もう受けてみてわかったろうが、相手の攻撃を受けて逸らす際に脆い部分、例えば今のように手首だったり、魔物が噛み付きを行った際に首などに攻撃を与える、つまり受けと攻撃を同時に行う技だ」
未だ腕に残る鈍い痛みに顔を顰めながらもアルドの言葉に頷く。痛みで動きが鈍れば、相手の隙を付ける機会も増える。実に実践的な技だ。
「今は手の甲でエルの手首を打ったが、手刀や貫手で行う場合もある。
迷宮の魔物相手に実際に使ってみて研鑚を積むのが上達の早道だろう。
ただし、この技はあくまで受け技だということを忘れないように。
攻撃に意識が行き過ぎると失敗することがあるぞ。
今日はここまでだ。
後は修行に励むがいい」
「ありがとうございました。
アルド神官、明日もよろしくお願いします」
頭を下げてアルドを見送りながら、エルは武神流の多彩で芳醇な技に感動を覚えていた。この技が自分のものになることを考えると興奮が治まらない。
ただ、実戦での使用に耐えるようになるには大分先のことだろう。まずは型をなぞり、意識せずとも技を出せるように体に覚え込ませる必要がある。
しかし、エルは修行好きである。故郷では迷宮都市に旅立つまでの10年近くを中段突きの鍛錬に費やしたほどだ。今迄の人生の大半を修行に使ってきた人間である。新な技の研鑚に取り組むのに否があるはずもない。
エルは新たな技を覚える喜びを噛み締めながら、食事をするのも忘れて修行に没頭するのだった。
エルは翌日も朝早くから修練場に訪れていた。本日も興奮し過ぎてあまり寝ていなかったのである。ほとんど寝ていないのにもかかわらず疲れはなく、エルの体は気力が漲っていた。
受け技や武人拳の練習をしていると、ほどなくしてアルドが現れた。
「アルド神官、おはようございます」
「ああ、おはよう。
今日も朝早くから励んでいるようだな。
さて、今日は基礎訓練の最終日だ。
今日はいくつかの攻撃術を伝授する。
肘打ちや膝蹴り、それと剄についてだ」
「肘や膝はわかりますが剄とはなんですか?」
「うむ、剄とは特殊な身体操作法のことだ。
実際には防御や歩法にも使えるのだが、今日は分かり易い攻撃の技を教える」
「はい、よろしくお願いします。」
「では、まずは膝蹴りについてだ。
これは前蹴りや回し蹴りを膝で行うだけだ」
アルドは下から突き上げるような右の膝蹴りを放ち、右足が地に着くと腰を捻り左の上段回し蹴りの軌道で肘蹴りを放った。膝が空を切り裂く。
鉄槌が振り回されたかと錯覚するような一撃にエルは身震いする。アルドの優れた身体能力に称賛を覚えると同時に、膝蹴りの威力の凄まじさに戦慄がはしったのだ。胸や頭に決まれば骨が砕け、一撃で勝負が決することも想像に難くない。
エルも膝蹴りを放ってみる。前蹴りや回し蹴りの経験があるので問題なく使えるようだ。アルドもエルの膝蹴りに問題ないというかのように頷いた。
「飛び膝蹴りを相手に顔面に叩き込むこともあるので覚えておくように。
次に肘打ちだが、こちらはいくつかの打ち方がある。
突きを拳ではなく肘で行ったり、下からかち上げたり上から叩き付けたり、そして斜め上から切り裂いたりなど様々だ。」
アルドは右半身になると猛烈な踏み込みから中段突きを右肘で行った。突きの場合は腰の回転力を生かすが、肘打ちの場合は腰をほとんど回転させず体当たりを肘から行うように見受けられる。自分の突進する力を肘に集約するような技だ。
右肘での突きが終わると、腰を縦方向に回転させ下から左肘を突き上げる。その後息つく間もなく右肘を上方から叩き付け、腰や肩の回転と上腕の振りを生かして左右上下と連続で肘打ちをみまう。
アルドの強靭な腰の回転力により隙のない連続攻撃になっている。
しかも一撃一撃が強固な肘によって行われているので、顎や頭などに当てられたら昏倒は免れないような凶悪な破壊力を秘めている。
エルは目を閉じ、今しがた目撃したアルドの動きを再現しようと試みる。初めはゆっくりとアルドの動きをなぞるように肘を振るう。想像との齟齬が減りだしたら目を開け徐々に速度を上げ始める。
振るう、振るう、我武者羅に振るう。予想通りこの肘打ちは連打性能に優れているようだ。
難点を上げるとすれば、攻撃範囲の短さだけだ。
「肘や膝は人体の中でも最も固い部位だ。
これを攻撃に用いるのは当然の帰結というものだ。
ただし、これらの技は至近距離での使用になるので、突きや蹴りに比べて使用頻度は下がるだろう。
だが、見て分かる通り一撃の威力は凄まじいので覚えておいて損はないぞ」
「はい、自分のものにできるように努力します」
「うむ、期待しているぞ。
さて、次は剄についてだ。
先ほど剄は特殊の身体操作法だと説明したが、力を貯める段階を蓄剄といい、力を放つ段階を発剄という。
ようするに攻撃の準備をするのが畜剄、実際の攻撃が発剄だ。
よく見ておきなさい」
アルドは右半身になると右掌を肩の高さと平行に突き出した格好になる。その状態から右前足で踏み込み、轟音を立てながら地を砕き全身を回転させて右掌をさらに突き出した。
今のが発剄だろうかとエルは疑問を浮かべる。強烈な踏込だったが、相手への打撃部位である右掌は突き出した状態から少し動いただけにしか見えなかったからだ。
アルドもエルの疑念がわかるのかエルに構えるように促す。エルが左半身になり構えると、アルドが先ほどと同様に右半身になり右掌をエルの腹に密着させる。
「今から軽く発剄を放つから、思い切り腹筋を締めなさい」
「わかりました」
エルはアルドの言葉に頷くと全力で腹筋を締めた。
エルの準備が整ったとみると、アルドが軽く発声しながらエルの腹に密着した右掌を突き込んだ。
アルドの右掌が押し込まれた瞬間、エルは強烈な痛みを感じる。
腹を突き込まれた衝撃も然ることながら、内部を熱い何かが駆け抜けたような痛みを感じる。あまりの痛みに膝が落ち、倒れ込むように座り込んだしまう。
座り込んで休んでもまだ内部の熱が消えない。
密着状態から軽く掌を押し込まれただけなのに、立てなくなるような衝撃を打ち込まれたのだ。エルが今まで体験したことのない異質な痛みであった。
なんと摩訶不思議で絶大な力であろうかと、苦痛に苛まれながらも獣のような笑みを浮かべアルドに感想を述べる。
「アルド神官、この発剄は素晴らしい技です。
是非教えてください」
「まだ痛みが引かないだろうに……。
エルは見た目は大人しそうに見えるが、その内に熱い闘志を秘めているようだな。
武人とはそうでなくてはいかん」
アルドはエルの闘志の剥き出しになった様に称賛の言葉を送り何度も頷く。新たな修行者の胆気溢れる振舞いによほど感じ入ったのだろうか、エルの問いに返答せずしばらくの間自己の内面に入り込んでしまう。
やがてはたと気づくと、顔を赤面させ咳払いをすると発剄の説明を始める。
「失礼した。
えー、発剄についてだが一度受けてみて理解したと思うが通常の攻撃と同じように表面への打撃を加えると共に、内部に衝撃を浸透させることができる」
「ええ、凄い威力でした。
お腹の中がまだ熱いですよ」
「うむ、それが剄の力だ。
掌などで相手を打つことにより、振動が伝わるように内部に衝撃を与えることができる。
断っておくが、発剄は拳や肘、肩や背中など様々な部位で行うことが可能だ。
まず掌で行って見せたのは、その中でも特に内部に衝撃を徹し易いからだ。
本日エルに伝授するのは、掌打に剄を籠めた技で猛武掌という」
「猛武掌……、それが僕が習う技の名前なんですね」
「そうだ。掌で突きを行うので間合いも広く、多種多様な場面で使える非常に汎用性の高い技だ。
括目して見よ」
アルドは右半身に構える。両手はやや曲げているが、弛緩しており下に垂れ下がっている。
その状態から右前足で強烈な踏込を行う。大地を割る強烈な音を轟かせながら右足が地面についた刹那、下半身の回転そして上半身の回転をへて右掌が突き出される。それは完成された芸術に等しい一個の技であった。
見かけは普通の右の掌打に見えるが、その外見以上に恐ろしい力を宿していることをエルの未だ痛む腹が教えてくれる。手加減された発剄でこの威力である。今しがた虚空に放たれた猛武掌はどれほどの威力であろうかと、エルは我知らず笑みを深めた。早く自分のものにしたいという内なる欲求が肥大してくる。
エルは息せき切って猛武掌についてアルドに質問することにした。
「アルド神官、剄とは身体操作法だということですが、強烈な踏み込みと下半身の回転のことでしょうか?」
「ほうっ、良い着眼点だ。
あの踏み込みを震脚と言う。大地を割るほどの力で踏み込み己の体重のを何倍にも倍加させ、その力を損なうことなく膝、腰、肩、肘を回転させて掌まで伝え、相手に与えるのだ。
もちろん、支えとなる後足も忘れてはならない。
前足の踏み込みによる垂直方向の力を回転運動によって水平方向に変換する際に、後足で前方に押し出す力を加えてやることで力の損失を抑えるのだ」
アルドの説明が分からずエルは首を傾げてしまう。前足で踏み込み、その力を掌に伝えるために回転するまでは理解が及ぶが、後足で前方に押し出す力を加えるとはどういうことだろうと疑問を抱く。
早速質問しようとしたが、アルドもエルの顔を見て理解できていないことが分かったのか、説明の補足をする。
「後足で前方に押し出す力を加えるとは、前進の回転運動の際に後足、特に爪先で突っ張って上半身を前方に進ませることだ。
いずれにしても、震脚からの回転運動と後足の突っ張りは一瞬の間に完遂させなければならない。
何故なら人体は体のあちこちに衝撃を吸収する部位があるので、時間をおけばおくほど震脚で生み出した垂直方向の力は緩和されてしまうのだ」
「だから短い時間で掌に力を伝えなければならないんですね」
「その通りだ。
だが、この極短時間の間に掌に力を伝えるのは非常に難しいから、一朝一夕ではできないだろう」
「望む所です。
修行は大好きですから」
エルの答えに満足そうに微笑むとエルについて来るように促した。
言われるままアルドの後に付き従っていると、修練場の塀に向っていることが見て取れる。高い塀の傍に一点だけ背の低い紺碧の壁のようなものがある。
アルドはその壁の前に止まるとエルに説明し始めた。
「この壁は10階層付近で採れる空色の青鉱石という魔鉱でできている。今のエルの力で掌打を放っても傷一つつかないだろう。
試しにやってみたまえ」
「はい、わかりました」
エルはそう言うと、魔鉱の壁の前に立つと中腰になり右の掌打を放った。
エルの掌打では言われた通り傷一つつかない。大分固い金属で出来ているのだろう。
「凄く固いですね」
「ああ、ただの掌打では無理だろう。
だが、剄力を備えた猛武掌ならこの空色の青鉱石の壁も壊せるだろう」
「つまりこの壁が発剄の練習台というこですね?」
「うむ、その通りだ。
発剄の要訣の部分は説明し終えたが、実際に畜剄で貯めた剄力を発剄できるようになるのは感覚的な部分に依存するのだ。
目に見える成果がある方が修行のしがいがあるだろう?」
「ええ、アルド神官の仰る通りです。
この壁を壊せれば、発剄できるようになったということですからね。
燃えますね」
「その意気や良し。
私は戻るが、エルは修行に励みなさい。
汗を流して体で覚えるのだ」
「はい、頑張ります。
アルド神官、ありがとうございました」
アルドが去ると、エルは猛然と魔鉱製の壁に挑みかかった。
地を割れよと前足で強烈に踏み込み、全身を回転させながら後足を突っ張り掌打を放つ。
しかし、魔鉱はどこにも損傷は見られない。
剄の力を発剄できるようになるにはやはり簡単な道程ではないようだ。見えない力だけに、気のように目に見える力の方がまだ理解し易い。もし己が身で体験していなかったら、絵空事と一笑に付したかもしれない。
だが、既に体に味わった力である。後は信じて研鑚を積むだけだ。
苦難の道ほど達成したときの喜びも格別だろうと、エルはただ只管に鍛錬を重ねるのだった。
昨日の興奮が収まるどころか、むしろ時間を置くごとに大きくなり夜が明けるのが待ち遠しくて仕方なかったのである。正に子供の反応であった。昨日ライネルにからかわれたのも弟分を構う気持ちもあったろうが、子供らしさが抜け切っていない所を見抜かれたせいもあるだろう。
神殿に着き門番に通してもらったが、まだアルドは神殿に来訪していないそうだ。
アルドを待つ間に修行の続きをしようと修練場に赴き、武人拳、すなわち拳に気を籠めた中段突きを始める。
中腰になり腰だめに構えた右拳に気を集めようと試みる。
昨日の成果もあってか、エルの意思に応えるように純白の気が徐々に右拳に現れ始める。
当初は湯気のように立ち昇っては消えていたが、やがては右拳を球状に覆いつくす。
鋭い気合の声と共に、左前足で踏み込み腰を回転させながら気塊を纏わせた右拳で中段突きを放つ。
右拳を引きながら気を解放し、今度は左拳に気を集中させる。
本来なら右を引くと同時に返しの左拳を放つべきだが、まだ気の集中に慣れないエルでは間に合わない。
数秒の間をおいてから、ようやく気を籠めた左拳で突きを放つ。
武人拳の連続突きが可能になるのはまだまだ先のようだ。
エルは少しでも気の扱いに熟達すべく、ただひたすらに武人拳の練習に励むのだった。
「朝早くから頑張ってるようだな」
後方から声を掛けられ、アルドが傍にいることに気がついた。エルは鍛錬に没頭するあまり、周囲のことなど意識から除外していたのだ。恥ずかしそうに頭を掻きながらアルドに挨拶を返す。
「アルド神官、おはようございます。
その……、気付くのが遅くなってすいません」
「気にしなくて良い。
それだけ修行に集中できていたということだからな。
さて、今日の訓練は受けや捌きや足運びなどの防御術についてだ」
「はい、よろしくお願いします」
エルの威勢の良い声に満足そうに頷くと、アルドは技の説明に入る。
「まず、回歩という歩術だ。
これは相手の側面に回り込むと同時にこちらの攻撃態勢を整える足さばきだ」
そう言うと、アルドがエルの左横に回り込んだ。
エルの視点では右側面にアルドが回り込んだと思ったら、既に攻撃の態勢ができている。確かに回り込みが完了した時点で攻撃ができるようだ。
向き直ったエルに、もう一度アルドが左横に回り込む。
エルはアルドの足さばきを一瞬たりとも逃すまいと注視する。
どうやらこの足さばきは、2つの行程から成り立っているようだ。まず、左前足を動かし相手の左横に移動する。その後、後足である右足を引きつけながら腰を回転させ自分の真正面に相手を捉えるのだ。
つまり、相手に対して左足を前足として前後に足を開き、かつ、いつでも攻撃できるように中腰になっている、左半身の状態を側面に回り込みながら継続するのが回歩という歩術なのだろう。
エルも見様見真似でアルドの左横に回り込む。
「ほうっ。そうだ。
よくわかったじゃないか。
だが、回歩はそれだけではない後足で逆側に回り込むこともできる」
アルドは左半身の状態から右後足でエルの右側に回りこみ、残った左足を引き付けて後足にすることで右半身になる。
相手の両側どちらにも回り込める技術というわけだ。
「左半身の状態を継続したいなら、左前足で相手の左に回る。
逆に右半身になりたいなら、右後足で相手の右に回るというわけだ。
当然、右半身状態からなら逆になるから気をつけるように」
この回歩を使えば、回り込み攻撃準備をするという2つの動作を1つの動作にまとめることが可能になる。その有用性は計り知れない。
エルは夢中になって回歩の練習に取り組むのだった。
「回歩はそれまで。
次は廻し受けだ。
両手をやや開いた状態で胸の前に置き、上下に円を描くように開くのだ」
アルドは肩の幅まで左右に足を開いて腰を落とし、胸の前に両手を上下に構えると肘を内から外に開きながら腕を回転させる。両手を開き始めた時は別々の円だったものが次第に大きくなり、やがて一つの大きな真円となった。
「この技は両腕を外に開くときの遠心力によって相手の攻撃を外に弾く技だ。両手に気を籠めれば、魔法や弓だって防げるぞ」
「はい、やってみます」
エルは中腰になり腕を回し上下に円を描き始める。
「この技は受けに使うだけでない。
相手の攻撃を捌いて投げにつないだり、または相手の体勢を崩してこちらの攻撃につないだり、あるいは相手の掴みへの外しに使えたりと様々な用途に使える重要な技だ。
よく修練するように」
「はい、わかりました」
エルはアルドにその都度指摘を受けながら何度も廻し受けを行う。
どうにか形になったら次の技である。
「よし、廻し受けは大分形になったな。
次は螺旋受けだ。
これは肘から先の部分を内から外に回転させて攻撃を外に捌く技だ」
アルドは左半身の状態から左手を上方に掲げ、肘を起点として前腕部を独楽のように回転させる。この受け技は腕のみで可能なので、相手の連続攻撃を受ける際などに使えるだろう。
「螺旋受けは瞬間的な回転力が重要になる。相手の攻撃を捌く一瞬の間にどれだけ高速で回転できるかが鍵になるぞ。
さて、次は本日教える最後の技だ。
その技を牙受けという」
アルドは左半身の状態になるとエルに突きを放つように促す。
エルは言われるままアルドに中段突きを行う。
突きがアルドの胸に迫る。
だが、前方に掲げられたアルドの左手を通過した瞬間、突きを左側に逸らされると同時に手首に激しい痛みを覚える。アルドが手の甲でエルの手首を打ち据えたのだ。
「もう受けてみてわかったろうが、相手の攻撃を受けて逸らす際に脆い部分、例えば今のように手首だったり、魔物が噛み付きを行った際に首などに攻撃を与える、つまり受けと攻撃を同時に行う技だ」
未だ腕に残る鈍い痛みに顔を顰めながらもアルドの言葉に頷く。痛みで動きが鈍れば、相手の隙を付ける機会も増える。実に実践的な技だ。
「今は手の甲でエルの手首を打ったが、手刀や貫手で行う場合もある。
迷宮の魔物相手に実際に使ってみて研鑚を積むのが上達の早道だろう。
ただし、この技はあくまで受け技だということを忘れないように。
攻撃に意識が行き過ぎると失敗することがあるぞ。
今日はここまでだ。
後は修行に励むがいい」
「ありがとうございました。
アルド神官、明日もよろしくお願いします」
頭を下げてアルドを見送りながら、エルは武神流の多彩で芳醇な技に感動を覚えていた。この技が自分のものになることを考えると興奮が治まらない。
ただ、実戦での使用に耐えるようになるには大分先のことだろう。まずは型をなぞり、意識せずとも技を出せるように体に覚え込ませる必要がある。
しかし、エルは修行好きである。故郷では迷宮都市に旅立つまでの10年近くを中段突きの鍛錬に費やしたほどだ。今迄の人生の大半を修行に使ってきた人間である。新な技の研鑚に取り組むのに否があるはずもない。
エルは新たな技を覚える喜びを噛み締めながら、食事をするのも忘れて修行に没頭するのだった。
エルは翌日も朝早くから修練場に訪れていた。本日も興奮し過ぎてあまり寝ていなかったのである。ほとんど寝ていないのにもかかわらず疲れはなく、エルの体は気力が漲っていた。
受け技や武人拳の練習をしていると、ほどなくしてアルドが現れた。
「アルド神官、おはようございます」
「ああ、おはよう。
今日も朝早くから励んでいるようだな。
さて、今日は基礎訓練の最終日だ。
今日はいくつかの攻撃術を伝授する。
肘打ちや膝蹴り、それと剄についてだ」
「肘や膝はわかりますが剄とはなんですか?」
「うむ、剄とは特殊な身体操作法のことだ。
実際には防御や歩法にも使えるのだが、今日は分かり易い攻撃の技を教える」
「はい、よろしくお願いします。」
「では、まずは膝蹴りについてだ。
これは前蹴りや回し蹴りを膝で行うだけだ」
アルドは下から突き上げるような右の膝蹴りを放ち、右足が地に着くと腰を捻り左の上段回し蹴りの軌道で肘蹴りを放った。膝が空を切り裂く。
鉄槌が振り回されたかと錯覚するような一撃にエルは身震いする。アルドの優れた身体能力に称賛を覚えると同時に、膝蹴りの威力の凄まじさに戦慄がはしったのだ。胸や頭に決まれば骨が砕け、一撃で勝負が決することも想像に難くない。
エルも膝蹴りを放ってみる。前蹴りや回し蹴りの経験があるので問題なく使えるようだ。アルドもエルの膝蹴りに問題ないというかのように頷いた。
「飛び膝蹴りを相手に顔面に叩き込むこともあるので覚えておくように。
次に肘打ちだが、こちらはいくつかの打ち方がある。
突きを拳ではなく肘で行ったり、下からかち上げたり上から叩き付けたり、そして斜め上から切り裂いたりなど様々だ。」
アルドは右半身になると猛烈な踏み込みから中段突きを右肘で行った。突きの場合は腰の回転力を生かすが、肘打ちの場合は腰をほとんど回転させず体当たりを肘から行うように見受けられる。自分の突進する力を肘に集約するような技だ。
右肘での突きが終わると、腰を縦方向に回転させ下から左肘を突き上げる。その後息つく間もなく右肘を上方から叩き付け、腰や肩の回転と上腕の振りを生かして左右上下と連続で肘打ちをみまう。
アルドの強靭な腰の回転力により隙のない連続攻撃になっている。
しかも一撃一撃が強固な肘によって行われているので、顎や頭などに当てられたら昏倒は免れないような凶悪な破壊力を秘めている。
エルは目を閉じ、今しがた目撃したアルドの動きを再現しようと試みる。初めはゆっくりとアルドの動きをなぞるように肘を振るう。想像との齟齬が減りだしたら目を開け徐々に速度を上げ始める。
振るう、振るう、我武者羅に振るう。予想通りこの肘打ちは連打性能に優れているようだ。
難点を上げるとすれば、攻撃範囲の短さだけだ。
「肘や膝は人体の中でも最も固い部位だ。
これを攻撃に用いるのは当然の帰結というものだ。
ただし、これらの技は至近距離での使用になるので、突きや蹴りに比べて使用頻度は下がるだろう。
だが、見て分かる通り一撃の威力は凄まじいので覚えておいて損はないぞ」
「はい、自分のものにできるように努力します」
「うむ、期待しているぞ。
さて、次は剄についてだ。
先ほど剄は特殊の身体操作法だと説明したが、力を貯める段階を蓄剄といい、力を放つ段階を発剄という。
ようするに攻撃の準備をするのが畜剄、実際の攻撃が発剄だ。
よく見ておきなさい」
アルドは右半身になると右掌を肩の高さと平行に突き出した格好になる。その状態から右前足で踏み込み、轟音を立てながら地を砕き全身を回転させて右掌をさらに突き出した。
今のが発剄だろうかとエルは疑問を浮かべる。強烈な踏込だったが、相手への打撃部位である右掌は突き出した状態から少し動いただけにしか見えなかったからだ。
アルドもエルの疑念がわかるのかエルに構えるように促す。エルが左半身になり構えると、アルドが先ほどと同様に右半身になり右掌をエルの腹に密着させる。
「今から軽く発剄を放つから、思い切り腹筋を締めなさい」
「わかりました」
エルはアルドの言葉に頷くと全力で腹筋を締めた。
エルの準備が整ったとみると、アルドが軽く発声しながらエルの腹に密着した右掌を突き込んだ。
アルドの右掌が押し込まれた瞬間、エルは強烈な痛みを感じる。
腹を突き込まれた衝撃も然ることながら、内部を熱い何かが駆け抜けたような痛みを感じる。あまりの痛みに膝が落ち、倒れ込むように座り込んだしまう。
座り込んで休んでもまだ内部の熱が消えない。
密着状態から軽く掌を押し込まれただけなのに、立てなくなるような衝撃を打ち込まれたのだ。エルが今まで体験したことのない異質な痛みであった。
なんと摩訶不思議で絶大な力であろうかと、苦痛に苛まれながらも獣のような笑みを浮かべアルドに感想を述べる。
「アルド神官、この発剄は素晴らしい技です。
是非教えてください」
「まだ痛みが引かないだろうに……。
エルは見た目は大人しそうに見えるが、その内に熱い闘志を秘めているようだな。
武人とはそうでなくてはいかん」
アルドはエルの闘志の剥き出しになった様に称賛の言葉を送り何度も頷く。新たな修行者の胆気溢れる振舞いによほど感じ入ったのだろうか、エルの問いに返答せずしばらくの間自己の内面に入り込んでしまう。
やがてはたと気づくと、顔を赤面させ咳払いをすると発剄の説明を始める。
「失礼した。
えー、発剄についてだが一度受けてみて理解したと思うが通常の攻撃と同じように表面への打撃を加えると共に、内部に衝撃を浸透させることができる」
「ええ、凄い威力でした。
お腹の中がまだ熱いですよ」
「うむ、それが剄の力だ。
掌などで相手を打つことにより、振動が伝わるように内部に衝撃を与えることができる。
断っておくが、発剄は拳や肘、肩や背中など様々な部位で行うことが可能だ。
まず掌で行って見せたのは、その中でも特に内部に衝撃を徹し易いからだ。
本日エルに伝授するのは、掌打に剄を籠めた技で猛武掌という」
「猛武掌……、それが僕が習う技の名前なんですね」
「そうだ。掌で突きを行うので間合いも広く、多種多様な場面で使える非常に汎用性の高い技だ。
括目して見よ」
アルドは右半身に構える。両手はやや曲げているが、弛緩しており下に垂れ下がっている。
その状態から右前足で強烈な踏込を行う。大地を割る強烈な音を轟かせながら右足が地面についた刹那、下半身の回転そして上半身の回転をへて右掌が突き出される。それは完成された芸術に等しい一個の技であった。
見かけは普通の右の掌打に見えるが、その外見以上に恐ろしい力を宿していることをエルの未だ痛む腹が教えてくれる。手加減された発剄でこの威力である。今しがた虚空に放たれた猛武掌はどれほどの威力であろうかと、エルは我知らず笑みを深めた。早く自分のものにしたいという内なる欲求が肥大してくる。
エルは息せき切って猛武掌についてアルドに質問することにした。
「アルド神官、剄とは身体操作法だということですが、強烈な踏み込みと下半身の回転のことでしょうか?」
「ほうっ、良い着眼点だ。
あの踏み込みを震脚と言う。大地を割るほどの力で踏み込み己の体重のを何倍にも倍加させ、その力を損なうことなく膝、腰、肩、肘を回転させて掌まで伝え、相手に与えるのだ。
もちろん、支えとなる後足も忘れてはならない。
前足の踏み込みによる垂直方向の力を回転運動によって水平方向に変換する際に、後足で前方に押し出す力を加えてやることで力の損失を抑えるのだ」
アルドの説明が分からずエルは首を傾げてしまう。前足で踏み込み、その力を掌に伝えるために回転するまでは理解が及ぶが、後足で前方に押し出す力を加えるとはどういうことだろうと疑問を抱く。
早速質問しようとしたが、アルドもエルの顔を見て理解できていないことが分かったのか、説明の補足をする。
「後足で前方に押し出す力を加えるとは、前進の回転運動の際に後足、特に爪先で突っ張って上半身を前方に進ませることだ。
いずれにしても、震脚からの回転運動と後足の突っ張りは一瞬の間に完遂させなければならない。
何故なら人体は体のあちこちに衝撃を吸収する部位があるので、時間をおけばおくほど震脚で生み出した垂直方向の力は緩和されてしまうのだ」
「だから短い時間で掌に力を伝えなければならないんですね」
「その通りだ。
だが、この極短時間の間に掌に力を伝えるのは非常に難しいから、一朝一夕ではできないだろう」
「望む所です。
修行は大好きですから」
エルの答えに満足そうに微笑むとエルについて来るように促した。
言われるままアルドの後に付き従っていると、修練場の塀に向っていることが見て取れる。高い塀の傍に一点だけ背の低い紺碧の壁のようなものがある。
アルドはその壁の前に止まるとエルに説明し始めた。
「この壁は10階層付近で採れる空色の青鉱石という魔鉱でできている。今のエルの力で掌打を放っても傷一つつかないだろう。
試しにやってみたまえ」
「はい、わかりました」
エルはそう言うと、魔鉱の壁の前に立つと中腰になり右の掌打を放った。
エルの掌打では言われた通り傷一つつかない。大分固い金属で出来ているのだろう。
「凄く固いですね」
「ああ、ただの掌打では無理だろう。
だが、剄力を備えた猛武掌ならこの空色の青鉱石の壁も壊せるだろう」
「つまりこの壁が発剄の練習台というこですね?」
「うむ、その通りだ。
発剄の要訣の部分は説明し終えたが、実際に畜剄で貯めた剄力を発剄できるようになるのは感覚的な部分に依存するのだ。
目に見える成果がある方が修行のしがいがあるだろう?」
「ええ、アルド神官の仰る通りです。
この壁を壊せれば、発剄できるようになったということですからね。
燃えますね」
「その意気や良し。
私は戻るが、エルは修行に励みなさい。
汗を流して体で覚えるのだ」
「はい、頑張ります。
アルド神官、ありがとうございました」
アルドが去ると、エルは猛然と魔鉱製の壁に挑みかかった。
地を割れよと前足で強烈に踏み込み、全身を回転させながら後足を突っ張り掌打を放つ。
しかし、魔鉱はどこにも損傷は見られない。
剄の力を発剄できるようになるにはやはり簡単な道程ではないようだ。見えない力だけに、気のように目に見える力の方がまだ理解し易い。もし己が身で体験していなかったら、絵空事と一笑に付したかもしれない。
だが、既に体に味わった力である。後は信じて研鑚を積むだけだ。
苦難の道ほど達成したときの喜びも格別だろうと、エルはただ只管に鍛錬を重ねるのだった。
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