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第3章

第51話

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 湿り気のある風が草の臭いを運びエルの鼻腔を擽った。若草特有の生命力に溢れた自然の香りを胸一杯に吸い込んだエルは大きく息を吐き気合いを入れると、己独りで36階層の攻略を開始するのだった。
 つい昨日までエルはライネル達との親睦を目的とした楽しい迷宮探索を行い、お互いの仲を深め充実した実りの多い時間を過ごした。探索は27階層での希少な魔物レアモンスター探しを目的としており、出現する魔物は相手にならない程実力差が開いており、命の危険性のほとんどない気楽な冒険であった。尊敬する兄貴分や姉貴分との親交を深めたエルは気が高揚しており、かつ安全な迷宮探索という事もあってか通常なら心身が疲労する所を逆にリフレッシュしたので、ライネル達との探索から帰って来た翌日だというのに早朝から新たな階層に転移し冒険を行っているというわけである。

 36~40階層は、今まで探索していた階層とは一風変わった特殊な階層である。1つの高山の周囲が各階層に区切られており、最終的に山の頂にある41階層への転移陣を目指す迷宮なのである。36~37階層は湿地帯であり、泥濘不安定な足場の中で魔物に対処しながら進まねばならない。38~39階層は森林になるが、豊富な植生に育まれた豊かな地には数多の動物達と魔物達の楽園である。動物といってもこの階層の魔物達に襲われても生き延びられるよう、過酷な生存競争を生き抜いてきたもの達である。単純に魔物との戦闘に引けを取らない強力なものもいれば、逃走や隠密性に特化したもの等々一概には言い表す事も出来ないが、どの動物も一癖も二癖もある捕まえるのも難しいもの達である。加えて冒険者を待ち受ける魔物達は今まで以上に強力で陰湿な攻撃手段を有している。下層に行けば行く程、魔物達は強靭で凶悪になっていくのである。これらの階層で魔物達と相対すれば、エルといえど今までの様に簡単に討伐する事はできないだろう。
 そして40階層は、剣峰アンガナルバの麓の転移陣から険しい山道を登り、登頂の転移陣にまで到達しなければならない。もちろん、登山の途中でも容赦なく魔物達は襲い掛かってくる。加えて、40階層のみに出現する魔物もいるらしい。アンガナルバ、大地から剣が突き出した様な傾斜の激しく雄大な姿から剣峰と名付けられた高山は、今までも多くの冒険者達の行く手を阻み、その命を散らしてきた危険な難所であるのだ。

 早速、エルも36階層でその洗礼を受ける事と相成った。
 湿地帯のぬかるんだ地面に足が沈み、思うように進めないのだ。湿原はエルの膝くらいしかない低い草花ばかりで視界も良好であるが、水が溢れあちこちに小さな池を作っている。乾いた地面など一切存在せず泥か自生している植物を足場変わりに踏みしめて移動するしか術はないのだ。
 もちろん冒険者とて馬鹿ではない、迷宮の情報を入手し対策を取るのが常である。
 例えば、一番シンプルな方法として靴の下に泥靴マッドブーツを履くことである。この泥靴は薄く丈夫な木の板に水を弾く加工をしてつるや縄を取り付けただけである。原理は単純で、自分の足に掛かる体重を大きめに設えた板で分散してやる事で泥に沈むのを防いでいるのである。これによって泥、あるいは雪の上などの不安定な場所であろうと、楽に歩けるようになるのだ。
 その他の方法として泥に沈まないように装備者に浮力を与える魔具、あるいは魔法を用いて対策する事が挙げられる。特に人気なのが風の被膜ウィンドコーティングという魔法でほとんど重さを感じる事のない空気の膜で足を覆う、あるいは浮揚フロテーションによって地面より僅かに浮かび上がる事である。これらの魔法の助けによって硬い地面にいる時と些かも変わらない行動が可能になるのである。

 ではエルは前述した何らかの対策をしたかというと、実はどの案も取らなかった。36階層に転移すると直ぐ様試しにとばかりに湿原に足を踏み入れ、見事に靴が泥の中に埋没してしまったというわけである。
 エルは中肉中背の体型であり体重も重くなく、防具も武道着と籠手ぐらいだ。ひょっとしたら何も対策をしなくとも沈まないのではないかと推測し実行してみたが、実際は安易な試みは失敗に終わったというわけである。
 慌てて埋まった左足を気合いを入れて引っこ抜くと、近くの比較的大きな草の上に避難した。靴にはびっしりと泥が付着しており茶色くなっている。浅千恵の結果であるが自分が不甲斐なく盛大に溜息を付くと、魔法の小袋マジックポーチから水管を取り出し水を掛け泥を払った。靴を綺麗に洗い終えると一度首を振り気分を入れ替えると、両足の裏に気で靴よりやや大きい薄く平べったい板の様なものを形成した。
 エルはただ無鉄砲に36階層に突撃したわけではない。階層全てが湿地である事が事前に分かっていたので、自分の思惑が外れていた場合の第2案も考えていたのだ。それがこの足の裏に気の板を作る事であった。
 これは武神流の歩術、滑歩を応用した技である。滑歩は足の裏を形態変化させた気で覆う地面との摩擦を少なくし滑る様に進む技であるが、今回は足の裏より広めに気の板を作成したのだ。いうなれば、マッドブーツを己の気で作ったというだけの事である。
 しかも、これはエルが思い付いたというわけではない。エルの師であるアルド神官から滑歩の応用として指南を受け、熟達すれば水の上にも立つ事ができると教えられていたのである。つまりは武神流の先人達の叡智によって編み出された技なのだ。
 エルは期待を込めて一歩踏み出すと、先程とは打って変わった結果になった。泥の上だというのに全く沈まないのだ。それどころか数歩歩いて感触を確かめてみても、ほとんど地面と変わらず動けるのだ。足の動きが阻害される事無く実にスムーズに、淀みなく進む。本来なら一歩ごとに泥に足を捕られ、進むだけでも難儀する湿地帯であるにも拘らずだ。エルは技を伝授してくれたアルドに感謝すると共に、優れた有用な技を編み出した武神流への畏敬の念を益々深めるのであった。
 ただし、注意点として少量ずつであるが気力を常時消耗していくので、魔物との戦闘や戦闘後の事を勘案して気力の配分を熟慮する必要がある。戦闘中気力が足りなくなってしまえば、忽ち足の裏に纏った気は消失し泥に嵌る事請け合いである。そんな絶体絶命の状況に陥るのはエルとしてもご免被るので失態を犯さないよう自分に強く言い聞かせると、慎重に歩を進めるのだった。






 
 湿地帯は背の低い草花ばかりなので非常に見晴らしが良い。陽も昇り出したばかりの早朝なので他の冒険者はいないかと思われたが、幾人かのパーティが先を争うように湿原を走り回っていた。
 エルには知る由もなかったが、実は36~37階層の湿地では金稼ぎができるのだ。その方法は一定時間毎に現れる宝箱を開けるという簡単なものである。視界が良好で宝箱の方が自生している植物より大きいので、遠くからでも発見でき取り零しもまずないのだ。宝箱からは金貨やこの階層付近の魔物から得られる落し物ドロップ、運が良ければ近層で採掘される魔鉱製の武器や防具なんてものさえ手に入る。魔鉱製の装備なら捨て値で売っても金貨数十枚、良質な物や依頼された品が入手できれば百枚以上で売れるケースもあり得るのだ。泥土と出現する魔物の対処ができるなら、此処は絶好の稼ぎ場でもあるのだ。
 ただし、似た様な事を考える冒険者は多い。簡単に稼げる方法があるなら真似するのは当然の理である。早朝から元気に走り回っている冒険者達は、人の少ない時間帯に少しでも多くの宝箱を開けようとしている者達であったのだ。
 そんな事情を知らないエルは、朝から努力している者達がこんなにもいる事にのんきに感心すると、自分ももっと精進せねばならないなと気を引き締めたのであった。

 さて、この階層から新たなに出現する魔物は3種類である。
 1匹目は今将にエルに狙いを定め襲い来る衝角蜻蛉ラムデンスフライである。半透明の細い糸の様な体に薄く透き通った翅を持ち、大きな復眼の真ん中に体と同様に透明に近い鋭利な角を有している。体長はエルの腕ほどで角もナイフ程度の大きさであるが、人体の急所に突き込まれれば致命傷を受ける可能性もある。何より羽音がほとんどせず、半透明な見た目のせいで発見し辛いのだ。偶々早期に発見できたから良かったが、気付かずに接近を許していた事を想像するとぞっとする。
 エル目掛けてまっしぐらに宙を飛んで来る衝角蜻蛉に対し、エルは無造作に手を振り武神流の気刃で迎撃を行った。左手を横一文字に振ると弧状の気の刃が発生し猛スピードで蜻蛉に迫ったのだ。気刃が蜻蛉の透き通った角に衝突するとそのまま魔物の身体を両断できるかと思われたが、角の強度は予想以上であり折れる事無く気刃の勢いに負けて吹き飛ばされただけであった。
 その後はエルの追撃の気刃で身体を斬り裂かれあっけなく倒せたが、死んだ魔物に近寄って観察してみると、角は気の刃との衝突を持ってしてもほとんど損傷がなく一部が欠けているだけであった。エルの気刃と遜色ない程度の斬れ味を持っていると判断せざるを得ない。そんな透明に近い刃がほぼ無音で飛んでくるのだ。後頭部や首などの急所を一突きされれば甚大な被害を被るに違いない。嫌な想像にエルの首筋に冷たい汗が流れのだった。
 周囲への警戒を強めると共に更に蜻蛉対策として人体の急所だけでも気を纏い、不意打ちを受けたとしても致命傷を受けない様にすると、エルは戦利品を回収し再び探索を開始するのだった。

 次にエルを襲ったのは毒鶉ポイズンクウェイルの群れであった。大きいものでもエルの膝ぐらいまでしかない小ささで羽根が退化し走る事しかできない鳥の魔物であるが、水気を大量に含んだ地面だろうと関係なく高速で動ける。加えて嘴や足の爪に毒を持っており、1匹なら造作もない相手だが必ず群れを形成し、時には何十羽もの集団となり冒険者を襲うのである。
 エルも近くの草叢から突如、10羽もの毒鶉に襲撃を掛けられ防戦を強いられた。瞬間的に全身を硬質化させた気の鎧、纏鎧で防ぐ事で被害は最小限に抑えられたが、いくつかの攻撃は気の展開が間に合わず顔を守るために前面にクロスした腕や手に負傷をおってしまった。ちらりと見ると既に変色が始まっている。嘴の毒が回ったのだろう。腕から不快な痛みが広がる。さっさと小憎らしい敵を狩り尽くし手当をする必要がある。
 といっても鶉達は俊敏だ。泥土をものともせず草に身を隠しつつ動き回り、散逸的に攻撃を仕掛けてきた。不幸中の幸いはこの鳥が遠距離攻撃手段を持っていない事ぐらいだろう。
 四方八方から飛び掛かってくる魔物に対し、エルはその場を動かず待ち構え武人拳で打ち落としていく。敵の数は多いのでエルも嘴は爪の被害を受けたが、心を落ち着かせ1羽1羽拳の餌食にしていったのだ。飛礫や矢で狙われた時の対策にちょうど良いと考えたのである。
 10羽倒しきったころには魔物の毒で所々浅黒く変わっており、エルの息を荒げ痛みに歯を食いしばる羽目になった。急ぎ魔法の小袋マジックポーチから毒消し薬を取り出すと一気にがぶ飲みした。少しずつ和らいでいく痛みにほっと息を吐きながら、エルは満足そうな笑みを浮かべた。
 これは良い訓練になると喜んだのだ。全方位からの攻撃に対処できない場面も何度かあったが、この波状攻撃を無傷で切り抜けれるようになればまた自分は1つ上にいけると考えたのだ。
 新たな目標を定めやる気を漲らせたエルは次の敵に探しに行きたい気持ちを抑えながら、戦利品を拾い集めた。黄色い魔石に毒のある嘴、そして羽を毟った状態の魔物の身ほぼ全体があった。この魔物は小さいので肉としてドロップした場合は、頭や羽根や足を除いた部位が一度に手に入るようだ。ただし希少な落とし物レアドロップであり出現率はあまり高くないようだが……。
 しかし、手に入り辛い分この鳥の肉は頗る美味しいらしい。情報誌にもその事が記載されており、エルもあわよくば食べてみたいと考えていたのだ。帰ったら早速シェーバに料理してもらおうと考えていると、つい涎が垂れそうになった。慌てて首を振り気を持ち直すと食事の事は一端頭の隅に置くと、まだ見ぬ魔物達との闘いに向けて歩き出すのだった。
 








 それからしばらくの間は、ラムデンスフライやポイズンクウェイルといった先程闘った魔物達との戦闘を繰り広げる事しばし、エルは順調に戦果を上げていった。
 そしてついにこの階層での最も警戒すべき敵と邂逅を果たした。
 それは突然のことであった。湿地を周囲を警戒しながら進むエルの傍らで急激に泥が盛り上がると、1対の大きさの異なる大鋏がエル目掛けて襲い掛かったのだ!!
 左右からの不意の急襲、警戒していたといっても地面からの待ち伏せの一撃である。エルをもってしても片方の大きな鋏を回避するのが精いっぱいで、合えなくもう一方の鋏に捕まってしまった。
 泥から現れたのは強大な蟹のモンスター、大鋏泥蟹ビッグシザーズマッドクラブであった。
 泥とほとんど変わらぬ土気色の甲殻に左の鋏だけ不釣り合いな程大きい。エルを捕らえている小さい鋏でも、人間を挟むことのできるほどの大きさを備えていたが……。
 掴めたエルを放さずに複雑怪奇な構造の口に持っていく。エルを食べるつもりのようだ。エルとしても鋏から逃れようともがくが、両腕ごと腰を掴まれていて自由に動くのが足くらいである。体を締め付けてくる鋏の力は強烈で、気で強化していなければ胴体を裂かれる危険性があるほどであった。
 次第に大きな口が迫ってくる。エルなど簡単に丸呑みにできそうであり、大きな顎は人間など一噛みで砕きそうである。
 迫り来る恐怖の中でエルは起死回生の機会を虎視眈々と狙っていた。
 口に放り込まれる寸前、口や目の近くにある蟹の頭部らしき部分に掴まれた腰を支点に気で覆った足を振り叩き付けたのだ!!
 しかもただの蹴りではない。気を相手の内部に浸透させ破壊を起こさせる荒技、徹気拳を足で行ったのである。 
 蟹の脳にあたる頭部神経節はとても脆弱で、人類などのように脳と呼べるほどはっきりとした形を取っていない。そんな部位に気の破壊が行われればどうなるか?
 あっけなく糸の切れた人形のように蟹は沈み、2度と動かなくなったのである。
 窮地を脱したエルはというと、挟まれ圧迫された腰を擦りつつ苦しげに呼吸を繰り返していた。全身に怖気が走り体が小刻みに震えた。一歩間違えれば死んでいたのは自分だったという恐ろしい事実が、エルの心胆を寒からしめたのである。
 何度も呼吸を繰り返しようやく落ち着きを取り直した時には大分時間が経っていた。その頃になるとどうにか自分の失敗を振り返れるようになった。
 まず、なんといっても一番の失態は周囲、特に下方への注意を怠っていた事が挙げられる。事前に泥蟹の情報を得ており、エルよりも遥かに大きな存在が泥に潜っていても簡単に見つけられるだろうと、安易な考えで多寡を括っていたのが間違いの元であった。実際は直ぐ傍を通り過ぎても全く分からず、襲われる瞬間までその存在を見つけられなかったのである。しかも、蟹は狡猾なことに植物の比較的密集している下に潜っていたのだ。草が風に揺れるので、わずかな動きによる接近や奇襲の初動が見抜けなかったのである。自分の愚かさにも呆れ返るが、敵の素晴らしい奇襲も褒めるべきである。
 エルは情報から安直な憶測を立てる愚と省みると共に強さを増した敵に敬意を示し、
死は身近なものであると再確認したのだった。
 
 そこからのエルの集中力は脅威的であった。侮りはすっかり消え、奇襲や不意打ちを得意とする魔物達を察知する事に全霊を傾けたのだ。ただし、泥蟹のカモフラージュは周到で幾度か先手を打たれた事もあった。
 だが既に一度その鋏を経験している事、そして何より襲われる事を念頭に置いていたので、対応に迷いはなくむしろ苛烈を究めたのだ。左右から迫り来る鋏に対し逆に蟹との間合いを高速で詰める事で回避し、自慢の武人拳で蟹の巨体を地面から叩き出したのである。奇襲さえ防げれば後はどうという事はない。エルの五体を凶器と化し蟹の命を刈取ったのであった。
 その他に特に衝角蜻蛉の接近を発見する事も良い修行になった。無音に近い透明な物体を見つけるのである。視覚や聴覚に頼っているだけでは自ずと限界がある。人間に元来備わっている第六感を磨く事で、魔物の接近を見つけるように努力したのである。ただ、始めたばかりでそこまで成果は出ていない。何となく見つけられる事もあるが、魔物を感知できず手痛い角の一撃を貰う事もしばしばであった。
今後もしばらく続ける事で徐々に成果が出てくるであろう。 
 結局その日は、日が暮れるまで思う存分魔物達との激しい闘争の時を過ごすと、反省と成果を胸にエルは意気揚々と宿に引き返すのだった。 

 金の雄羊亭に戻ってみると、何やらリリが切羽詰まった声を出していた。常ならぬ緊迫した様子にエルは即座に宿に飛び込むと声を張り上げた。

「リリ!! いったいどうしたんだ?」
「エル!? ねえ、エルからも言ってくれない? お母さんが体調が悪いのに休んでくれないの」

 心配そうに眉を顰めたリリの言葉に従いマリナの方に顔向けると、冒険者達に食事を配膳している所だった。だが、その顔はお世辞にも良いとは言えない。おそらく相当辛いのを顔を出すまいと無理やり我慢しているのだろう。体も小さく震えている。
 歩く速度も遅くこれは危ないと危惧していると、案の定倒れそうになり持っていたお盆ごと料理を床にぶち撒けそうになった。
 エルは一瞬の内にマリナの側面に移動すると左手で腰を横抱きにするようにして転倒を防ぎ、空いた右手でお盆を掴むと器用に操り料理を零さずにキャッチした。

「マリナさん、大丈夫ですか?」
「エルくん!? ありがとう。助かったわ」
「お母さん!! だから休んでいてって言ったじゃない!!」
「でも今は書入れ時だし、お客さんもいっぱいじゃない。いつも休ませてもらってばっかりだけど、こんな時ぐらいは働かないと……」

 顔を心配そうに歪めエルとマリナの元に息せき切って走ってきたリリに、気丈にもマリナは自分も働くと返したのだ。だがその顔は既に青褪めており働ける状態ではない。このまま無理して給仕を続けても、マリナの体調も悪化の一途を辿るだけである。
 瞳に涙を湛えたリリがマリナを翻意させようと説得を試みた。

「そんな状態で仕事なんて無理よ。ねっ、お母さん。私がお母さんの分までちゃんとお客さんに満足して貰えるように頑張るから。だから今は休んで。無理すると本当に倒れちゃうよ。私はそんなお母さんの姿なんて見たくないのっ。お願い、お母さん」
「リリ……」

 リリの尋常でない必死の言葉に、マリナも自分の症状を薄々自覚しているのか反論の言葉が出なかった。エルもマリナが無理して倒れる所は見たくなかった。そして何よりリリの悲しむ顏などこれ以上見続けるのは我慢ならなかった。
 だから少々強引であるが口を挟ませてもらうことにした。

「マリナさん、働くのは元気になってからでも遅くありませんよ。安心してください。店が忙しいのは分かりますので僕も手伝います。だから今はゆっくり休んでください」
「そんなっ。エルくんはお客様なのにそんな事させられないわ」
「大丈夫。日頃リリやシェーバさんにはお世話になってますから、恩返しの一環ですよ」
「でも……」

 未だに難色を示すマリナに対し、珍しい事にエルは強行手段に出た。苦しみを我慢できず顔に出し始めたマリナは、一刻も早く静養する必要があると判断したのだ。
 右手に抱えていたお盆を目配せしながらリリに渡すと、エルは行き成りマリナを横抱きにして担ぎ上げたのだ。

「きゃっ!? エルくん!?」
「見ての通り力が有り余っているので働かせてください。それに、暴れて抵抗できないほど今のマリナさんは弱っているんです。今日の所は無理せず休んでください。嫌だと言ってもこのままベットに運びますからね」
「エルくん……」

 エルに抱き抱えられたマリナは羞恥に顔を赤らめ当初は弱弱しく抵抗しようとしたが、それさえも上手く行かずどうやら観念したようだ。
 リリもエルの突然の強行に驚いたが、少々強引でも今は必要だと判断すると頷いてみせた。

「エル、ありがとう。このまま母さんを寝室に運んでくれない?」
「うん、マリナさんを寝かせてくるよ。戻ったら手伝うからそれまでの間任せたよ」
「私はこの宿の看板娘よ。任せといて。母さんはゆっくり休んでね」
「リリごめんね。心配ばかり掛けて」
「ううん、いいの。母さんが元気になったら、また一緒に頑張ろう」
「そうね、早く元気になってまた頑張るわ。エルくんもごめんなさいね」
「いいんですよ。さあ寝室に行きましょう」

 苦しそうに息を吐くマリナににこやかな笑顔を向けると、エルはリリ達の居住区に向かった。途中、シェーバに声を掛けことわりを入れると場所を教えてもらい、マリナが普段使っているベットに静かに降ろした。
 苦しみ悶えながら礼を言うマリナはやはり無理をしていたのか、ベッドに寝かせると間もなく眠りに入ったようだ。荒い息も段々穏やかになっていくのを確認すると、エルは辞去しリリの手伝いを行うのだった。


「今日はすまなかったな。家内が迷惑を掛けた」
「いいえ、いいんですよ。僕が好きでやったことなんですから」

 仕事が一段落し休んでいるエルにシャーバが声を掛けたのだ。シェーバの顔は少し疲れている様に見える。やはり妻の事が心労の種なのだろう。エルはこの際だとばかりに、踏み込んだ質問をしてみる事にした。

「マリナさんの病気を治すには高価な薬が必要だと聞きましたが、本当ですか?」
「ああそうだ。金額も恐ろしいほどの値段だが、問題は希少性が非常に高く市場にほとんど出回らないことだ。庶民がおいそれと手に入れられるものではないんだ。薬の元となるものが何だか知っているか?」
「たしか67階層のレアモンスターからしか得られないんですよね?」
「そうだ。だがそいつは出現するのもまちまちで、出ない時は1ヶ月に1回も出ないなんてこともよくあるそうだ。それに加えて非常に強く、6つ星の上位冒険者でも不覚を取ることもあるらしい……」
   
 淡々と事実を述べようと努めているが、シェーバの顔は苦渋で満ちていた。薬さえ手に入れば妻を苦しみから解放してやれるのに、それができない情けなさ。そして、世の不条理に何ら抗する事も出来ない不甲斐ない己に歯噛みせずにはいられないのだ。
 エルにもシェーバの心情は痛い程伝わってきた。自分の家族や仲の良い友人がそんな境遇に陥ったらとしたら嘆かずにはいられないに違いない。

「懇意の医者に八方手を尽くしてもらっているが、どうしても入手できていないらしい。こうしている間に妻の病状は悪化しているというのにな……」
「シェーバさん。僕もできる事はしますから。知人は少ないですがあたってみますよ」
「エル。客であるお前に愚痴ってすまないな。何時もリリを構ってもらってるだけでもありがたいんだ。あまり無理をするなよ」
「シェーバさんこそ無理しないでくださいね」

 友達のリリの家族がここまで苦しんでいるのだ。マリナには早く元気になってもらいたい。何時も世話を焼き忠告してくれたリリに報いるためにも、何かできる事はないかと自問し始めた。初めて友と呼べるリリのために、そして何時も美味しい食事を提供してくれるシェーバや今も病魔と闘っているマリナのために、エルの助けで解決できる事なら労苦を厭わず必ずやり遂げてみせようと秘かに心に誓うのであった。




 
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