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第2話
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灯りが消えた瞬間、戸がはねた。
父が飛び込み、荒れた掌でライアンの腕をつかむ。ひび割れが皮膚に食い込み、母は包みを胸に寄せ、姉は散る火の粉を払って走る。
「ライアン、こっちだ!」
父はライアンを引き、二人で裏手の小道へ身を滑らせる。外は昼のように明るい。だが煙のせいで数歩先しか見えない。土壁が熱で鳴り、屋根の藁がぱちぱちと弾ける。
煙の向こうで笑い声が混じり、運び出された家具が崩れる音が続く。祈りの像が地に落ちて砕け、助けを求める声は途中で手でふさがれて消えた。踏まれた麦束が潰れた匂いと、焦げた脂の匂いが鼻にまとわりつく。
森へ続く道は一本しかない。そこへ向かうしかない。
兄が立ち止まり、背の木刀を握り直す。
――釘を数えていた指が、今は木刀を握っている。
燃える屋根の向こうで助けを呼ぶ声が上がる。足音は増え、金具が路地で擦れた。
「父さん、ライアンたちを頼む」
父は首を振る。
「何を言う。お前も来い」
「俺は行く。みんなを守る」
兄は炎の方へ駆けた。影と光の間で一度だけ振り向き、木刀を振り下ろす。金属音が弾み、木の裂ける音が重なる。短い叫びが途切れ、影が崩れる。
煙がすべてを飲み込み、兄の姿は消えた。
背後で金具が鳴り、追っ手の足音が路地の角を迷いなく曲がって近づく。
「行くぞ!」
父は一家を押し立てる。
「ライアン。お前だけでも生きろ」
父はライアンの背を強く突き、茂みに押し込む。枝葉が顔に当たり、湿った土の匂いが鼻を満たす。父は畑道具を構え、炎が影を大きく伸ばす中を歩みを進めた。鈍い衝突音が響き、うめきが途切れる。
茂みに伏したまま、家族の声が遠くばらばらの方角から届く。立ち上がろうとしても脚は動かない。寒さと恐怖が体の芯を固めている。指先は土の冷たさを覚え、息は浅くなる。虫の羽音が耳のそばで止まり、すぐに遠のいた。
夜が長く伸び、鳥の声が戻るころ、ライアンはようやく息を深く吸う。朝もやの中で茂みから体を起こし、森の縁を抜けて村へ戻った。
焼け落ちた家屋が並び、黒くなった梁が傾いている。井戸の覆いは片方が外れ、桶は灰をかぶって転がっていた。昨日までの笑い声の場所は、冷たい灰と静けさに覆われている。
涙はもう出ない。枯れた。喉だけが焼けつくように乾いている。舌に灰がざらつき、水の味を思い出せない。
庭先で父が横たわっていた。
息はもうない。
手には畑道具の柄を握っている。指の関節は白く、爪の隙に黒い粉が詰まっていた。
ライアンはしゃがみ込み、しばらく動けなかった。
父の肩はまだ大きく見えた。
家族の前に立っていた背中が、そのまま地面に倒れている。
やがてライアンは父の目を閉じさせ、布をかけた。
裏手の小道で母と姉を見つけた。抱き合うように倒れており、二人とも動かない。指先は冷え切っている。
母の手は、まだ包みを抱えるような形をしていた。
髪に灰が積もり、睫毛の上で白く固まっている。ライアンは衣の端でそっと拭い、二人の手を組ませた。
路地の奥で兄を見つけた。
動かない。
そばに焦げた木刀の柄が転がっていた。掌の削り跡が同じで、兄のものだとすぐ分かる。
ライアンはそれを拾い上げた。
柄の焦げはまだ温かく、指にすすが移った。
数日が過ぎた。
風向きが変わっても、灰と脂の匂いは村から抜けない。井戸の縁には白い粉が指の跡のように残り、家の柱には背比べの刻みがそのまま残っている。
それだけが暮らしの名残だった。
昼には、わずかな生き残りが荷を背に隣村へ列を作って去っていった。親類を頼るということだった。ライアンは手を振れなかった。
彼は残った。
家族を土へ返さねばならない。
がれきから拾えるものは少ない。小さな火打ち金、すり切れた麻ひも、針と糸、乾いた布切れ、硬くなったパンの欠けら。釘を数本と、小さな金具を布袋にまとめる。
水を運ぶ器は割れている。井戸の水は灰でにごる。布で何度もこし、慎重に口を湿らせた。川の岸に寄る泡の速さで上流の雨を知り、濁りの弱い時間を見計らって汲む。
空腹は最初の二日で変わった。鋭く刺していた痛みが、やがて重い石のように腹の底に座り込む。眠りは浅く、物音で目が覚める。夜は火を使わず、月の出ている時間だけ動いた。
墓穴を掘る場所を決める。祈りの像の陰は砕け、木の根の多い道沿いは硬い。風が通る丘の肩は土が柔らかい。
石をどけ、鍬を刺し、足で踏み込む。土の湿りが膝に移り、手の皮が割れる。掘りきるには日がいる。
今日は印だけ置く。
平らな石を四枚と、太い枝を二本。
ライアンはその前に立ち、しばらく動かなかった。
――弱きを抱く盾に、なれただろうか。
父の声が胸の奥にかすかに残っている。焚き火の跡のように弱いが、消えない。
ライアンは深く息を吸い、家族の名を心の中で順に呼ぶ。土の上に手を当てた。
祈りは短かった。
ライアンは荷をまとめ、紐を締め直す。靴の砂を払い、肩紐をもう一度引き寄せる。
路地の端で、ライアンは立ち止まった。
手の中には、焦げた木刀の柄がある。
しばらくそれを見つめてから、静かに腰の紐へ差し込んだ。
森の道は朝もやで白い。鳥の声が少しずつ増える。
ライアンは背を伸ばし、一歩を置いた。足の裏で地面の堅さを確かめ、次の一歩を置く。
息はゆっくりと戻り、目の前の道だけがはっきりと見えてきた。
父が飛び込み、荒れた掌でライアンの腕をつかむ。ひび割れが皮膚に食い込み、母は包みを胸に寄せ、姉は散る火の粉を払って走る。
「ライアン、こっちだ!」
父はライアンを引き、二人で裏手の小道へ身を滑らせる。外は昼のように明るい。だが煙のせいで数歩先しか見えない。土壁が熱で鳴り、屋根の藁がぱちぱちと弾ける。
煙の向こうで笑い声が混じり、運び出された家具が崩れる音が続く。祈りの像が地に落ちて砕け、助けを求める声は途中で手でふさがれて消えた。踏まれた麦束が潰れた匂いと、焦げた脂の匂いが鼻にまとわりつく。
森へ続く道は一本しかない。そこへ向かうしかない。
兄が立ち止まり、背の木刀を握り直す。
――釘を数えていた指が、今は木刀を握っている。
燃える屋根の向こうで助けを呼ぶ声が上がる。足音は増え、金具が路地で擦れた。
「父さん、ライアンたちを頼む」
父は首を振る。
「何を言う。お前も来い」
「俺は行く。みんなを守る」
兄は炎の方へ駆けた。影と光の間で一度だけ振り向き、木刀を振り下ろす。金属音が弾み、木の裂ける音が重なる。短い叫びが途切れ、影が崩れる。
煙がすべてを飲み込み、兄の姿は消えた。
背後で金具が鳴り、追っ手の足音が路地の角を迷いなく曲がって近づく。
「行くぞ!」
父は一家を押し立てる。
「ライアン。お前だけでも生きろ」
父はライアンの背を強く突き、茂みに押し込む。枝葉が顔に当たり、湿った土の匂いが鼻を満たす。父は畑道具を構え、炎が影を大きく伸ばす中を歩みを進めた。鈍い衝突音が響き、うめきが途切れる。
茂みに伏したまま、家族の声が遠くばらばらの方角から届く。立ち上がろうとしても脚は動かない。寒さと恐怖が体の芯を固めている。指先は土の冷たさを覚え、息は浅くなる。虫の羽音が耳のそばで止まり、すぐに遠のいた。
夜が長く伸び、鳥の声が戻るころ、ライアンはようやく息を深く吸う。朝もやの中で茂みから体を起こし、森の縁を抜けて村へ戻った。
焼け落ちた家屋が並び、黒くなった梁が傾いている。井戸の覆いは片方が外れ、桶は灰をかぶって転がっていた。昨日までの笑い声の場所は、冷たい灰と静けさに覆われている。
涙はもう出ない。枯れた。喉だけが焼けつくように乾いている。舌に灰がざらつき、水の味を思い出せない。
庭先で父が横たわっていた。
息はもうない。
手には畑道具の柄を握っている。指の関節は白く、爪の隙に黒い粉が詰まっていた。
ライアンはしゃがみ込み、しばらく動けなかった。
父の肩はまだ大きく見えた。
家族の前に立っていた背中が、そのまま地面に倒れている。
やがてライアンは父の目を閉じさせ、布をかけた。
裏手の小道で母と姉を見つけた。抱き合うように倒れており、二人とも動かない。指先は冷え切っている。
母の手は、まだ包みを抱えるような形をしていた。
髪に灰が積もり、睫毛の上で白く固まっている。ライアンは衣の端でそっと拭い、二人の手を組ませた。
路地の奥で兄を見つけた。
動かない。
そばに焦げた木刀の柄が転がっていた。掌の削り跡が同じで、兄のものだとすぐ分かる。
ライアンはそれを拾い上げた。
柄の焦げはまだ温かく、指にすすが移った。
数日が過ぎた。
風向きが変わっても、灰と脂の匂いは村から抜けない。井戸の縁には白い粉が指の跡のように残り、家の柱には背比べの刻みがそのまま残っている。
それだけが暮らしの名残だった。
昼には、わずかな生き残りが荷を背に隣村へ列を作って去っていった。親類を頼るということだった。ライアンは手を振れなかった。
彼は残った。
家族を土へ返さねばならない。
がれきから拾えるものは少ない。小さな火打ち金、すり切れた麻ひも、針と糸、乾いた布切れ、硬くなったパンの欠けら。釘を数本と、小さな金具を布袋にまとめる。
水を運ぶ器は割れている。井戸の水は灰でにごる。布で何度もこし、慎重に口を湿らせた。川の岸に寄る泡の速さで上流の雨を知り、濁りの弱い時間を見計らって汲む。
空腹は最初の二日で変わった。鋭く刺していた痛みが、やがて重い石のように腹の底に座り込む。眠りは浅く、物音で目が覚める。夜は火を使わず、月の出ている時間だけ動いた。
墓穴を掘る場所を決める。祈りの像の陰は砕け、木の根の多い道沿いは硬い。風が通る丘の肩は土が柔らかい。
石をどけ、鍬を刺し、足で踏み込む。土の湿りが膝に移り、手の皮が割れる。掘りきるには日がいる。
今日は印だけ置く。
平らな石を四枚と、太い枝を二本。
ライアンはその前に立ち、しばらく動かなかった。
――弱きを抱く盾に、なれただろうか。
父の声が胸の奥にかすかに残っている。焚き火の跡のように弱いが、消えない。
ライアンは深く息を吸い、家族の名を心の中で順に呼ぶ。土の上に手を当てた。
祈りは短かった。
ライアンは荷をまとめ、紐を締め直す。靴の砂を払い、肩紐をもう一度引き寄せる。
路地の端で、ライアンは立ち止まった。
手の中には、焦げた木刀の柄がある。
しばらくそれを見つめてから、静かに腰の紐へ差し込んだ。
森の道は朝もやで白い。鳥の声が少しずつ増える。
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