灰より起ち、守りに立つ

篝火

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第3話

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夜明け、灰に白む村を背にしてライアンは歩き出した。小さな袋を肩に掛け、布に包んだ火口と火打ち金、それから兄の焦げた柄が袋の底で揺れる。

道はすぐ体から熱を奪った。霜が草の縁で刃のように立ち、足取りは重くなる。靴ずれは半日で裂け、血がにじんだ。水は谷川のにごりで、布でこしても泥の匂いが残る。三日目にはパンが尽き、酸っぱい草と硬い木の実を噛んだ。夜は倒木の根元で火を小さく囲み、五拍で吸い、五拍で吐いて寒さをやり過ごした。

四日目の夕暮れ、踏みしめられた土に変わった。家畜のひづめの跡は新しく、人の気配は近い。王国北辺の谷間、その外れにミストン村が寄り合っている。畑の畝が低く続き、柵には乾いた草束が吊るされていた。

入口で足が止まった。膝が折れ、冷たい砂利が頬に触れる。影が落ち、女の声が降りた。

「……ひとりかい」

肩に手が乗る。硬い手の温度で目が熱くなった。言葉は出ない。女は問わなかった。腕を貸され、敷地の内へ通された。

湯気の立つ台所へ通される。黒パンに、塩の少ない豆と根菜の煮込みがよそわれる。最初の一口で喉が閉じ、二口目で腹が驚き、三口目で指が震えた。皿の縁に指跡が残るほど力が入る。女は何も言わず、少し水を足した。

女主人の視線は外套の泥で止まり、次に顔で止まる。短くうなずいて言う。

「宿賃の心配はいらないよ。明日から納屋と牛の世話を手伝いな。この季節は人手が足りない。働いた分で返せばいい。今夜は寝なさい」

ライアンは静かにうなずいた。礼を言おうとして声にならず、頭を下げた。

寝台の藁は新しく、匂いが強い。体に刺さるが地面よりはましだ。目を閉じると痛みがまとまり、父の掌の重さと火の音が胸の奥で揺れる。布の端を握り、呼吸だけを数えた。短い眠りが途切れ途切れに来る。

翌朝から働き始めた。桶を運び、干し草を切り、糞をかき出し、道具を洗う。手のひらの皮は割れ、布を裂いて巻き、麻ひもで締めた。朝の井戸水は冷たく、昼の日差しは乾いている。牛の体温は冬の朝を支えた。

働き始めて三日目の朝、納屋掃除の最中に裏の物置で灰色の棒に気づく。片端がわずかに広く削られ、握りの位置に古い麻ひもが巻かれている。手に取ると、先に重さが寄っていた。木刀だ。

「それかい?」

女主人がのぞき込み、巻きひもを指で押さえた。

「昔の忘れ物さ。壊さなきゃ使っていいよ」

その夜から、仕事の後に裏庭の隅で静かに振る。足元は凍り、息は白い。焦げた柄を稽古の前に手のひらへ載せ、目を閉じる。

――兄はこの柄で何を守ろうとしたのか。

ライアンにはまだわからない。それでも手は、構えの形を覚えていた。

足幅、腰の向き、止めの角度。二十本、三十本、五十本と数える。失敗の跡を残さないよう、切っ先を地に触れさせず止めた。

半月が過ぎた。

村の朝は静かだ。合図は鐘ではなく、桶の触れ合う音や家畜の鼻息で始まる。子どもが柱の傷に背を合わせ、年かさの女が笑いながら頭の位置に爪を当てる。

ライアンの足は一度だけ止まった。

井戸端で旅商人が噂を語った。北の巡回路でアークライトの騎士が野盗を掃討しているという。前線の荷馬が紋章旗を見たとも言う。

その夜、素振りの音は前より鋭くなった。

だがまだ足りない。肩の動きは重く、止めは浅い。握りが固いと音がこもる。ライアンは息を五拍で整え、指の腹へ力を戻した。焦げの滑りを基準にして位置を固定する。

翌朝、井戸で水桶がぐらついた。

細い腕の子どもが、縁から落ちかけた桶を引き上げようとしていた。足元の石は濡れている。桶が傾き、水がこぼれ、子どもの踵が滑った。

ライアンは先に動いていた。

肩をぶつけるようにして井戸縁の前へ入り、片手で子どもの胴を引き寄せ、もう片手で桶の縄をつかむ。濡れた麻縄が掌を焼いた。水面が大きく揺れ、黒い輪が広がって、やがて静まる。

子どもは息を呑み、何も言えずにライアンを見上げた。

「……気をつけろ」

それだけ言って桶を渡す。声は思ったより低く、短かった。

子どもが去ったあと、掌に残った縄の跡を見た。

――盾になれただろうか。

問いはすぐには消えなかった。だが、前より少しだけ遠くまで届く気がした。

昼には畑の畝を整え、鍬の重さを腰で受けた。肩で持つと背が固まり、息が荒れる。腰に落とせば手が軽くなる。夕方には木刀の布を乾かし、夜は火口を新しく作る。やることは多いが、手順は少しずつ体に入っていった。

井戸端では村の男たちが車軸の軋みを直し、女たちは布を叩く。誰も過去を聞かない。それでよかった。だが、女主人の背を見ていると、ふと父とは違う種類の強さを思った。家族ではない相手が、何も聞かずに屋根と飯をくれた。そのことを、ライアンはまだうまく言葉にできない。

ある夕方、女主人は井戸のそばで言った。

「冬が抜けるまで、ここで働けばいい。春になったら、道はいくらでもある」

ライアンはうなずき、木刀を肩に掛け直した。焦げた柄の重さは、前より少しだけ近く感じられた。

翌朝、女主人に頼まれ、道具小屋の棚を組み直した。板の反りを見て、釘の位置をずらす。足場が悪いときは踵を半歩切り、体の向きを保つ。棚が水平に落ち着くと、女主人は短くうなずき、古い手袋を一組くれた。掌に布が当たり、割れの痛みが少し引いた。

村は静かだ。日が沈むと通りはすぐに暗くなり、家畜の息が白く戻る。裏庭で木刀を構えると、凍った土の硬さが足の裏から上がってくる。ライアンは止めの角度を確かめ、数だけを心で数えた。

夜、素振りを終えると、袋の底の焦げた柄をもう一度握る。

春になったら、道はいくらでもある。

ライアンは木刀を担ぎ直し、もう一度だけ構えた。
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