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第4話
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夜明け前、ミストン村の空気はまだ硬かった。納屋の戸を押すと霜の匂いが立ち、牛の鼻息が白く広がる。ライアンは桶の縄を肩に掛け、井戸へ歩いた。
水を引き、干し草を束ね、床板の霜を踏む。仕事は同じだが、体の動きは前より静かだった。膝で重さを受けると腰が落ち着く。麻ひもを引く指の腹はもう裂けない。
女主人は桶を受け取り、短く言った。
「よくやった」
その一言で、胸の奥がわずかに温かくなる。ライアンは頭を下げ、桶の縁を布で拭いた。
昼前、広場で井戸の滑車が悲鳴を上げた。
縄が弾け、桶が傾く。縁で子どもの足が空を切った。母親の手は届かない。
ライアンは走った。
残った縄をつかみ、体を落とす。腕を引き、腰帯をつかみ、石の縁へ戻す。滑車が柱へ当たり、重い音が一度だけ響いた。
泣き声が上がる。
母親が駆け寄り、子どもを抱き寄せる。
ライアンは縄を見た。擦り切れた部分を二重に巻き、結びを内側へ寄せる。柱のささくれを刃で削り、縁を布で拭いた。
掌の火傷は浅い。指の震えはすぐに収まった。
その夜、裏庭で木刀を振る。
焦げた柄を手のひらに置く。
――兄は、この柄で何を守ろうとしたのか。
答えはまだない。だが体は構えを覚えている。足幅、腰の向き、止めの角度。十、二十、三十と振る。
三日が過ぎた。
村の朝は穏やかだ。桶の触れ合う音、家畜の鼻息、子どもの声。柱の傷に背を合わせる子どもを見て、ライアンの足が一度だけ止まる。
それからまた歩き出した。
広場では旅商人が荷を下ろし、北の巡回の噂を落とした。騎士団が野盗を掃討しているという。紋章旗の数が増えたとも。
その夜、素振りの音が変わった。
だがまだ足りない。肩は遅れ、止めは浅い。焦げた柄の滑りを基準に握りを戻す。息を整え、もう一度振る。
夕方、納屋で道具を直していると女主人が言った。
「急ぐことはない。急ぐ時は向こうから来る」
ライアンはうなずいた。桶を運びながら背の筋を伸ばす。
何日かが過ぎた。
井戸の鎖が軽く鳴る朝が増え、村人の顔は柔らいでいく。踏み込みの音は揃い、戻りの一歩は静かになる。体が覚えていく。
夜更け、屋根の上で風向きが変わった。遠くで角笛が短く鳴る。誰も口にしない。納屋には獣の息だけが残る。
翌朝、広場の掲示板の枠が新しく磨かれていた。役人が羊皮紙を整え、木槌を持つ。糸の端が揺れ、ろうの匂いがわずかに漂う。
ライアンは立ち止まった。
胸の奥で何かが静かに動く。
しばらく掲示板を見てから、踵を返した。
――まだ、ではない。
裏庭の円に立つ。足を開き、木刀を握る。
焦げた柄が掌に収まる。
十。
二十。
止めの角度を確かめる。息を整え、もう一度振る。
納屋の戸が軋まずに閉まる音が背後で鳴った。
女主人は何も言わない。
そのまま扉を閉め、灯りを落とす。
夜がゆっくり降りてくる。
ライアンは木刀を下げ、空を見上げた。
翌朝、まだ霜の残る庭で荷をまとめた。袋の口を結び、焦げた柄の位置を確かめる。
戸を開けると、女主人が井戸のそばに立っていた。
何も言わず、桶を一つ差し出す。
ライアンはそれを受け取り、水を満たした。桶を戻すと、女主人はうなずいた。
「春になったら、道はいくらでもある」
それだけだった。
ライアンは頭を下げた。
言葉は出なかった。
村の外れまで歩き、振り返る。納屋の屋根が朝の光に薄く浮かぶ。女主人の姿はもう見えない。
鐘が三度鳴った。
掲示板に木槌の音が響く。
ライアンは広場へ歩き出した。
水を引き、干し草を束ね、床板の霜を踏む。仕事は同じだが、体の動きは前より静かだった。膝で重さを受けると腰が落ち着く。麻ひもを引く指の腹はもう裂けない。
女主人は桶を受け取り、短く言った。
「よくやった」
その一言で、胸の奥がわずかに温かくなる。ライアンは頭を下げ、桶の縁を布で拭いた。
昼前、広場で井戸の滑車が悲鳴を上げた。
縄が弾け、桶が傾く。縁で子どもの足が空を切った。母親の手は届かない。
ライアンは走った。
残った縄をつかみ、体を落とす。腕を引き、腰帯をつかみ、石の縁へ戻す。滑車が柱へ当たり、重い音が一度だけ響いた。
泣き声が上がる。
母親が駆け寄り、子どもを抱き寄せる。
ライアンは縄を見た。擦り切れた部分を二重に巻き、結びを内側へ寄せる。柱のささくれを刃で削り、縁を布で拭いた。
掌の火傷は浅い。指の震えはすぐに収まった。
その夜、裏庭で木刀を振る。
焦げた柄を手のひらに置く。
――兄は、この柄で何を守ろうとしたのか。
答えはまだない。だが体は構えを覚えている。足幅、腰の向き、止めの角度。十、二十、三十と振る。
三日が過ぎた。
村の朝は穏やかだ。桶の触れ合う音、家畜の鼻息、子どもの声。柱の傷に背を合わせる子どもを見て、ライアンの足が一度だけ止まる。
それからまた歩き出した。
広場では旅商人が荷を下ろし、北の巡回の噂を落とした。騎士団が野盗を掃討しているという。紋章旗の数が増えたとも。
その夜、素振りの音が変わった。
だがまだ足りない。肩は遅れ、止めは浅い。焦げた柄の滑りを基準に握りを戻す。息を整え、もう一度振る。
夕方、納屋で道具を直していると女主人が言った。
「急ぐことはない。急ぐ時は向こうから来る」
ライアンはうなずいた。桶を運びながら背の筋を伸ばす。
何日かが過ぎた。
井戸の鎖が軽く鳴る朝が増え、村人の顔は柔らいでいく。踏み込みの音は揃い、戻りの一歩は静かになる。体が覚えていく。
夜更け、屋根の上で風向きが変わった。遠くで角笛が短く鳴る。誰も口にしない。納屋には獣の息だけが残る。
翌朝、広場の掲示板の枠が新しく磨かれていた。役人が羊皮紙を整え、木槌を持つ。糸の端が揺れ、ろうの匂いがわずかに漂う。
ライアンは立ち止まった。
胸の奥で何かが静かに動く。
しばらく掲示板を見てから、踵を返した。
――まだ、ではない。
裏庭の円に立つ。足を開き、木刀を握る。
焦げた柄が掌に収まる。
十。
二十。
止めの角度を確かめる。息を整え、もう一度振る。
納屋の戸が軋まずに閉まる音が背後で鳴った。
女主人は何も言わない。
そのまま扉を閉め、灯りを落とす。
夜がゆっくり降りてくる。
ライアンは木刀を下げ、空を見上げた。
翌朝、まだ霜の残る庭で荷をまとめた。袋の口を結び、焦げた柄の位置を確かめる。
戸を開けると、女主人が井戸のそばに立っていた。
何も言わず、桶を一つ差し出す。
ライアンはそれを受け取り、水を満たした。桶を戻すと、女主人はうなずいた。
「春になったら、道はいくらでもある」
それだけだった。
ライアンは頭を下げた。
言葉は出なかった。
村の外れまで歩き、振り返る。納屋の屋根が朝の光に薄く浮かぶ。女主人の姿はもう見えない。
鐘が三度鳴った。
掲示板に木槌の音が響く。
ライアンは広場へ歩き出した。
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