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第一章 家庭教師と怪力貴公子

その『力』は隠せない

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「う、嘘……」

 虎が一歩、こちらへ前脚を踏み出した。
 ふさふさの体毛に覆われた脚は、巨木の幹のように太い。僕の腰のほうがまだ細い気がする。

 頭の奥が痺れたみたいに、真っ白になった。
 よろめくように一歩退がれば、虎は引いた分だけ僕のほうへ歩を詰めた。
 心臓が痛いほど胸を打つ。

 王家所有の森林地帯に、虎──。

 虎という獣は、人を陥れる幻術を使うと言われている。マヨイガという結界をつくり、そこへ人を誘い込んで喰らうのだと。
 つまり僕は今、この虎の皿の上に乗せられた生き餌に他ならない。目の前にいるのは、純粋で絶対的な捕食者だった。

「く、喰われるんですかね……?」

 射すくめられたようになって、体を動かせない。
 しかし、目の前の脅威以上に心配なのは、フォルテさまのことだ。
 フォルテさまは……この虎から逃げられるだろうか?

 守らなくちゃ。
 体の奥に、小さな火がついた。

 どうせもう食べられるしか道がないのなら、なんとか虎を足止めしたい。フォルテさまが逃げる時間を稼ぐためにも──。

 視線を逸らさないよう、がちがちと震える顎を固く噛みしめる。

「ぼ、僕は……美味しくないと思うけど、だけど……どうしても僕を食べるなら、ゆっくり味わって食べてもらわないと、困りますよ……!」

 虎の目が爛々と光り、体の輪郭は黒い煙のようにゆらりゆらりと揺らいでいる。それは今まで喰らってきた人たちの囚われた魂に思えた。

 虎は完全に、僕に狙いを定めた。
 鋭い牙を見せつけるように、咆哮をあげる。
 目を逸らしてしまえば、自分の弱さを獣に証明するだけだ。けれど、恐ろしげな吼え声に足はすくみ、すぐにでも腰が抜けそうだった。

 ああやっぱり今日が僕の命日なんだ。観念して、目を閉じかけた。

「──サフィッ!」

 耳を疑った。……どうして?
 
 今、いちばん聞こえてはならないお方の声がする。
 ここにいてはいけない人の声だ。

 虎が耳をぴんと立たせた。注意が僕から逸れる。

「来てはなりませんっ!」

 フォルテさまに向かって怒鳴った。
 だが、虎の敵意は明らかにフォルテさまに向かっている。

 僕なんて放っておいて、逃げるべきだ。
 あなたはこんなところで終わるお方じゃない。
 あなたこそ、フォルテさまこそ──僕の王さま。僕が命を賭けて守りたいお方なのだから。

「逃げなさいフォルテ! こっちへ来るなっ!!」

 走りなさい、はやく馬車のところまで行きなさい。
 何度もフォルテさまに向かって叫んだ。
 声は掠れて震えて、裏返る。それでも来るなと言い続けた。

 けれどフォルテさまは、石を拾って虎に投げつけ、獣に喧嘩を売った。
 肩で大きく息をしながら、金の瞳を凄ませる。逃げる気はないのだ。

 こんな時なのに、どうして言うことをきいてくれないんだ。悲しくて腹立たしい。無力な自分が悔しい。喉が引きつれたように痛んだ。

「……言うことを聞きなさい……っ、フォルテ坊っちゃまっ!!」

 新たな標的へ突進した虎が、鋭い爪を振り下ろした。
 僕は悲鳴をあげて、両手で目を覆った。

「ああっ、フォルテ坊ちゃまっ……」

 なにも聞こえない。恐る恐るまぶたを開ける。
 フォルテさまは尖った爪の攻撃を間一髪で避け、虎の前脚を片手で受け止めていた。

 虎と、人の子。体格差があるにも関わらず、体術の対戦でもするように、がっちりと組み合っている。
 だが、吼えた虎が巨大な口をぱかりと開けて、フォルテさまの体を飲み込もうと迫った。僕は言葉にならない声で叫んだ。

「ぼっちゃま……ああ、フォルテさま……!」

 フォルテさまの手に幾重もの筋が浮き立ち、さらに力がこもる。力んだフォルテさまの腕がはち切れそうなほど膨らむと、虎がうおおおんと叫んだ。

「──俺を、」

 ボキッ。鈍い音がして、虎の前足が折れる。虎の体表が骨折の衝撃に波打つ。

「坊っちゃまって、」

 もう片方の前足もぐにゃりとひしゃげ、虎が口から泡を飛ばして吼える。

「呼ぶな──っ!!」

 叫び狂う虎の鼻面に、フォルテさまは勢いよく頭突きを見舞った。
 さらに続けて、頭突きを一発、二発、三発。
 虎の鼻面から血があふれだし、顎ががくんと落ちた。

「うおおおおおおおおおお────っ!!!」

 フォルテさまの雄叫び。
 その後、まるで雷でも落ちたように、バリバリと虎の体がふたつに裂け、視界が真っ赤に染まった。




 そこからの僕の記憶は途切れ途切れで自信がない。

 異変を感じた近衛騎士が駆けつけてきたとき、虎は真っ二つになっていた。
 フォルテさまは体から湯気をあげ、頭から獣の血を浴びた状態で突っ立っていた。お召し物はビリビリに破れている。

「……サフィ」と、フォルテさまが掠れた声で僕を呼んだ。

「怪我、しなかったか?」
「いいえ……フォルテさまこそ……」
「離れて悪かった。俺……俺、もう、サフィの傍を離れないから!」

 それからフォルテさまは泣きそうな顔をして、「帰るぞ」と言った。
 歩こうとしても足がふわふわと頼りなく、言葉もうまく出てこなかった。まだ虎に襲われたショックから立ち直れていないのだ。
 気刻みに震える体をフォルテさまに引っ張ってもらって、ようやく馬車へ乗り込んだ。



 ……今回の件は騎士から王宮へ、詳細に報告されるはずだ。
 虎を引き裂いたフォルテさまの怪力。もはやフォルテさまの力は隠せない。悪く考えるなら、その力のせいで、フォルテさまの身に危険が及ぶかもしれない。
 僕は、虎と遭遇した恐怖からではなく、これから先の不安に震えていた。


 数日後。王家直轄の森林に虎が出たことは国王も知るところとなり、調査が行われた。
 その結果、どうやら神樹の葉の生え変わる時期と重なったため、守護の力が薄くなっていたのでは、と結論づけられた。

 フォルテさまが引き裂いた虎の皮は、国王陛下が暮らす王宮の敷物として召し上げられた。
 しかしフォルテさまの暮らしは、これまでと変わらぬままだった。


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