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第二章
ゆらぎ
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翌日、彼女はいつもより早く目を覚ました。
寝起きの頭に最初に浮かんだのは、昨夜、百貨店から持ち帰った黒いバッグのことだった。
確かに、それは今も部屋の隅にある。
光沢のある革、手をかざせば映り込むほど艶やかで、滑らかな手触りは、爪の先から心まで痺れるようだった。
——何度見ても、現実感がない。
気のせいではなかった。夢でもない。
むしろ夢よりも無遠慮に、あっさりとそれは叶ってしまった。
不思議な男に「あなたは、今日からすべてが無料になります」と言われたのは、つい昨日のことだった。
彼は立ち去り、何の証拠も、書類も、仕掛けも残さなかった。けれど——世界は、確かに変わっていた。
朝食を買うために立ち寄ったカフェで、クロワッサンとラテを注文した。
レジの表示が一瞬だけ点滅し、すぐに「0」になった。
店員は驚くどころか、ごく自然に彼女に品を差し出した。
次に、駅前の薬局で、以前から気になっていた高級スキンケア用品を手に取った。
手が震える。レジに差し出し、恐る恐る様子を伺う——
「0円ですね」
それだけ言って、店員は淡々と袋に詰めた。
誰も騒がない。誰も止めない。
彼女だけが、すべて“無料”になっていた。
その日、仕事を終えた帰り道。
彼女はふと立ち止まり、ふらりと入ったブティックでコートを買った。
次の店では香水。次の店では高級靴。
その次の、さらに次の——
気づけば、両手いっぱいの紙袋を抱えて、夜の街を歩いていた。
鮮やかなショップバッグが、両腕にリボンのように垂れている。
「……笑っちゃう」
自嘲の声が、思いのほか明るかった。
贅沢なんて縁のなかったはずの自分が、たった二日でそれに慣れ始めていた。
翌週には、会社も辞めた。
資産を持つ意味がない世界で、働く理由もまた消えてしまったからだった。
彼女の生活は、急速に変化した。
服を買い、食を極め、エステに通い、ホテルのスイートに泊まった。
都心の高層ビルにある、夜景の見えるバー。全身トリートメントと、オーガニック素材の特注ディナー。
ベッドの柔らかさすら、以前のそれとは比べものにならなかった。
だが、それら全てが、彼女の“手元”で完結していた。
誰にも迷惑をかけていない。ただ、自分のために贅を尽くしているだけ。
それでも——
夜、静まり返った部屋で天井を見上げる時間が、少しずつ怖くなっていた。
どれだけ高価な家具に囲まれても、どれだけ滑らかなシーツに包まれても、
心の底に何かが沈殿し続けているのが分かった。
無料で手に入るものに囲まれているのに、空っぽになっていく感覚。
贅沢の中に浮かびながら、孤独の重さだけが深く沈んでいく。
ある日、街を歩いていると、電車の階段下で、物乞いの老婆が座っていた。
寒さに震えるその姿は、あまりにも現実的だった。
目が合ったわけでもないのに、彼女の足は自然と立ち止まった。
ポケットの中に手を入れ、財布を取り出す。
札の中から、一番手前にあった千円札をそっとつまむ。
そして、老婆の前に差し出そうとした——その瞬間。
「それはできません」
彼女のすぐ横に、スーツ姿の男が立っていた。
あの時の男だった。無表情のまま、きっちりとボタンの留まったスーツに身を包み、淡々と立っていた。
いつ現れたのか、まったく分からなかった。
「あなたは、渡すことができない存在です」
その一言を残し、男は歩き去った。
振り返る暇もなく、あっという間に人混みに紛れた。
手の中には、千円札だけが残っていた。
彼女は呆然とその札を見つめた。
そして、ゆっくりとそれを財布に戻した。
老婆の視線が、じっとこちらを見つめていた。彼女はそれに気づかないふりをして、その場を去った。
その日から、彼女は気づくようになった。
——誰かのために何かをしようとすると、あの男が必ず現れる。
電車の中で席を譲ろうとしたとき。
道に迷っている子どもを助けようとしたとき。
友人にご飯を奢ろうとしたとき。
SNSで災害支援の寄付をクリックしようとしたとき。
ほんのささいな“施し”の兆しにすら、彼は現れた。
いつも、まるで影のように。
誰にも気づかれない形で。
そして、決まって同じ言葉を口にする。
「あなたは、渡すことができない存在です」
それ以上、何も言わない。理由も、正当性も、慰めもなく。
彼女は次第に、それが“監視”であることに気づいていった。
どこから見ているのかも分からない。
それでも、自分の行動のすべてが、誰かに見張られている——その感覚だけが、確実に胸の奥に残った。
そして、その感覚に、彼女は静かな嫌悪を覚えはじめていた。
(私は、何のために満たされているの?)
誰にも渡せない豊かさは、果たして豊かさと呼べるのか。
贅沢は、誰とも分かち合えなければ、ただの“空虚”に過ぎないのではないか。
そう思ったとき、彼女は初めて、自分の世界の異常さに気づいたのだった。
——けれど、それでも、何も変えられない。
渡すことは許されず、施すことはできず、分かち合うこともできない。
贅沢の日々は、静かに、確かに、彼女の心を蝕んでいった。
寝起きの頭に最初に浮かんだのは、昨夜、百貨店から持ち帰った黒いバッグのことだった。
確かに、それは今も部屋の隅にある。
光沢のある革、手をかざせば映り込むほど艶やかで、滑らかな手触りは、爪の先から心まで痺れるようだった。
——何度見ても、現実感がない。
気のせいではなかった。夢でもない。
むしろ夢よりも無遠慮に、あっさりとそれは叶ってしまった。
不思議な男に「あなたは、今日からすべてが無料になります」と言われたのは、つい昨日のことだった。
彼は立ち去り、何の証拠も、書類も、仕掛けも残さなかった。けれど——世界は、確かに変わっていた。
朝食を買うために立ち寄ったカフェで、クロワッサンとラテを注文した。
レジの表示が一瞬だけ点滅し、すぐに「0」になった。
店員は驚くどころか、ごく自然に彼女に品を差し出した。
次に、駅前の薬局で、以前から気になっていた高級スキンケア用品を手に取った。
手が震える。レジに差し出し、恐る恐る様子を伺う——
「0円ですね」
それだけ言って、店員は淡々と袋に詰めた。
誰も騒がない。誰も止めない。
彼女だけが、すべて“無料”になっていた。
その日、仕事を終えた帰り道。
彼女はふと立ち止まり、ふらりと入ったブティックでコートを買った。
次の店では香水。次の店では高級靴。
その次の、さらに次の——
気づけば、両手いっぱいの紙袋を抱えて、夜の街を歩いていた。
鮮やかなショップバッグが、両腕にリボンのように垂れている。
「……笑っちゃう」
自嘲の声が、思いのほか明るかった。
贅沢なんて縁のなかったはずの自分が、たった二日でそれに慣れ始めていた。
翌週には、会社も辞めた。
資産を持つ意味がない世界で、働く理由もまた消えてしまったからだった。
彼女の生活は、急速に変化した。
服を買い、食を極め、エステに通い、ホテルのスイートに泊まった。
都心の高層ビルにある、夜景の見えるバー。全身トリートメントと、オーガニック素材の特注ディナー。
ベッドの柔らかさすら、以前のそれとは比べものにならなかった。
だが、それら全てが、彼女の“手元”で完結していた。
誰にも迷惑をかけていない。ただ、自分のために贅を尽くしているだけ。
それでも——
夜、静まり返った部屋で天井を見上げる時間が、少しずつ怖くなっていた。
どれだけ高価な家具に囲まれても、どれだけ滑らかなシーツに包まれても、
心の底に何かが沈殿し続けているのが分かった。
無料で手に入るものに囲まれているのに、空っぽになっていく感覚。
贅沢の中に浮かびながら、孤独の重さだけが深く沈んでいく。
ある日、街を歩いていると、電車の階段下で、物乞いの老婆が座っていた。
寒さに震えるその姿は、あまりにも現実的だった。
目が合ったわけでもないのに、彼女の足は自然と立ち止まった。
ポケットの中に手を入れ、財布を取り出す。
札の中から、一番手前にあった千円札をそっとつまむ。
そして、老婆の前に差し出そうとした——その瞬間。
「それはできません」
彼女のすぐ横に、スーツ姿の男が立っていた。
あの時の男だった。無表情のまま、きっちりとボタンの留まったスーツに身を包み、淡々と立っていた。
いつ現れたのか、まったく分からなかった。
「あなたは、渡すことができない存在です」
その一言を残し、男は歩き去った。
振り返る暇もなく、あっという間に人混みに紛れた。
手の中には、千円札だけが残っていた。
彼女は呆然とその札を見つめた。
そして、ゆっくりとそれを財布に戻した。
老婆の視線が、じっとこちらを見つめていた。彼女はそれに気づかないふりをして、その場を去った。
その日から、彼女は気づくようになった。
——誰かのために何かをしようとすると、あの男が必ず現れる。
電車の中で席を譲ろうとしたとき。
道に迷っている子どもを助けようとしたとき。
友人にご飯を奢ろうとしたとき。
SNSで災害支援の寄付をクリックしようとしたとき。
ほんのささいな“施し”の兆しにすら、彼は現れた。
いつも、まるで影のように。
誰にも気づかれない形で。
そして、決まって同じ言葉を口にする。
「あなたは、渡すことができない存在です」
それ以上、何も言わない。理由も、正当性も、慰めもなく。
彼女は次第に、それが“監視”であることに気づいていった。
どこから見ているのかも分からない。
それでも、自分の行動のすべてが、誰かに見張られている——その感覚だけが、確実に胸の奥に残った。
そして、その感覚に、彼女は静かな嫌悪を覚えはじめていた。
(私は、何のために満たされているの?)
誰にも渡せない豊かさは、果たして豊かさと呼べるのか。
贅沢は、誰とも分かち合えなければ、ただの“空虚”に過ぎないのではないか。
そう思ったとき、彼女は初めて、自分の世界の異常さに気づいたのだった。
——けれど、それでも、何も変えられない。
渡すことは許されず、施すことはできず、分かち合うこともできない。
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