悦に入り、ほぞを

立志源

文字の大きさ
6 / 7
第六章

末路

しおりを挟む
母の死は、あまりにも静かだった。

郊外の小さな病院の個室。
消毒液の匂いと、酸素の機械音だけが淡々と響いていた。
モニターに映る波形が、徐々に細く、ゆっくりと平坦になっていく。

看護師が機械に手を伸ばす頃には、彼女は既にその変化に気づいていた。
ただ手を握り、呼吸の数を数え、心の中で「もう一回」と祈るように繰り返した。
しかし、その「一回」は二度と来なかった。

看護師は何も言わず、静かに酸素の装置を止めた。
音が消え、室内に静寂だけが残る。

母の顔は穏やかだった。
口元には微かに微笑みの形が残っていて、それが余計に胸を締めつけた。

何もできなかった。
金も、願いも、命の重さに届かなかった。

彼女は呆然としながら、遺体の手を離した。
ぬくもりが消えていくのを感じながら、指先が冷たくなっていくのを見つめていた。

その後の手続きは、すべて彼女が整えた。
式場の手配、棺の選定、祭壇の花、生前の写真の用意、香典返しの品。
あらゆるサービスは、当然のように「無料」だった。

通された式場は、都心の高級ホテルをそのまま移設したような豪奢さで、天井にはシャンデリアが輝いていた。
母の棺を囲む花は、季節外れの白百合。どれも生花で揃えられていた。

けれど、その美しさは誰の心も慰めなかった。

参列者たちの視線は、明らかに冷たかった。

「あのお金持ちの娘さんでしょ?ほら、テレビでも紹介されてた」

「ブランド物、あんなに着て……母親が入院中でも買い物してたって」

「助けられたんじゃないの? できたはずよね、あの人なら」

彼女は何も言わなかった。
言えば言うほど、自分が何か異常な存在のように見られるとわかっていたから。

「渡すことができない」なんて、誰も信じない。
聞いた瞬間に、胡散臭い嘘、もしくは精神の崩壊と受け取られる。

現に、SNSではすぐに炎上が始まった。

過去の贅沢三昧の写真。
高級ディナー、海外旅行、限定バッグの購入記録。
それらが母の死と照らし合わされ、「金に溺れた娘」「冷血な親不孝者」というレッテルが貼られた。

“自己愛の塊”
“金に魂を売った女”
“施す心を失った怪物”
“親を殺したのと同じ”

誰かが投稿したらしい自宅前の写真には、知らない人物が中指を立てて写っていた。
通夜の帰り道、後をつけられているような気配さえあった。

知り合いもいない都会で、彼女は完全に孤立していた。

真っ白なホテルのベッドに身を沈めながら、彼女は天井を見上げた。
母のいない世界が、こんなにも寒々しいものだと、初めて知った。

いつもなら食べきれないほど運ばれてくる朝食も、手をつけずに冷めていく。
室内の冷房は、彼女の心に合わせるように、冷えすぎていた。

その晩、彼女は窓辺に座って街を見下ろしていた。
眼下には、ネオンが川のように流れていた。

煌びやかな街。
高層ビルの光。
無数の人々の暮らし。
けれど、どれだけの光に包まれていても、彼女の心は暗かった。

この世界のすべては、彼女に微笑みかけているようで、ひとつも寄り添ってはくれなかった。

食べ物も、服も、ホテルも、体験も。
金銭の枠を超えた贅沢が、無限に与えられる日々。
それがどれほど無意味であったかを、彼女は母の死によって思い知らされた。

——ひとつだけ、買えないものがあった。

命だった。

彼女は静かに立ち上がり、窓を開けた。

春の夜風が部屋に流れ込む。
冷たくて、でも少し懐かしい風だった。
子どもの頃、母と一緒に歩いた夜の田舎道の風に似ていた。

外の音が遠くに聞こえる。
車のクラクション、誰かの笑い声、ビルの工事の音。
それらすべてが、今は別の世界の音に思えた。

彼女は手すりを超え、身を乗り出した。

足元には、きらめく街。
自分が今、どれほど高い場所にいるかを、ふと実感する。

「ごめんね、お母さん」

誰にも届かない謝罪だった。
それでも、言わずにはいられなかった。

風が吹いた。
髪が揺れ、頬を撫でた。

まるで、誰かが引き止めているような——
そんな気が、した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

職場のパートのおばさん

Rollman
恋愛
職場のパートのおばさんと…

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

お父さんのお嫁さんに私はなる

色部耀
恋愛
お父さんのお嫁さんになるという約束……。私は今夜それを叶える――。

処理中です...