無感の街

立志源

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第四章

皮膚の境界

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朝。
目が覚めたかどうかの判断が、難しくなっていた。

まぶたを開けたつもりだった。
だが、光の強弱はもはや区別できず、部屋の明暗すらあいまいだ。
寝具の感触も、はっきりとは感じられなかった。

自分の腕を持ち上げる。
だが、その重みがわからない。
どこまでが自分の体で、どこからが空間なのか、認識が不確かだった。

床に足をつける。
冷たさも、硬さも、伝わらない。
ただ、そこに「何かあるらしい」ことだけが、動作の記憶として残っている。

シャワーを浴びる。
水が流れている。
音はない。
温度もない。
濡れたはずの皮膚に、それを実感するものは何もなかった。

髪を洗う。
泡が立っているのか、ぬめりがあるのか、指先ではわからなかった。
鏡に顔を近づけても、自分の姿はただの形でしかなく、
それが「誰」であるかの情報は、感覚からは得られなかった。

出社するために靴を履いて、玄関のドアを開けた。
冷たい空気が頬に触れる気がした。けれど、それすら確証はなかった。
足を踏み出す。
一歩、二歩。
その瞬間、目の前が揺れた。

何も見えない——のではない。
“あるはずのもの”が、そこに存在しているかどうかの判断がつかないのだ。

地面があるはずの方向に足を伸ばす。
何かに乗った感触がない。
次に、軸足をずらす。バランスを崩しかけ、壁に手をついた。

……はずだった。
壁が、あったのか?
そこに触れたのか?
手のひらに残るはずの圧も、冷たさも、なかった。

もう一歩踏み出そうとする。
だが、自分が“どこに向かっているのか”がわからない。
前後左右、全方向が等しく不明で、足を動かすたびに空中を歩いているような感覚。

一瞬、地面がぐにゃりと歪んだような錯覚が走った。
めまいではない。
視界のない世界で、重力と空間の基準が狂っている。

怖くなった。
このまま歩けば、どこかに落ちてしまう気がした。
現実に穴などないとわかっていても、そう思わずにいられなかった。

慌てて、足を引いた。
玄関の縁を探る。
手を伸ばし、壁をなぞる。
ようやく、玄関の内側に戻った。

ドアを閉める。
鍵をかける。
その「音」はもう聞こえない。
けれど、その行為だけが自分を世界に引き戻したような気がした。

床に座り込む。
手の甲を見つめる。
形はある。でも、それが「手」かどうか、すら確信が持てない。

「見えないということは、恐怖の種ではない。“見えないまま動く”ということが、恐怖なのだ。世界の中で迷子になる。空間に、放り出される。」
その日、出社は諦めた。
ただ、静かに部屋の中に戻り、
誰にも知られないまま、もう一度ベッドに横たわった。
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