めぐりの数

立志源

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第二章

境界

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工場を出た夜、彼女は静かにそこにいた。壁にもたれ、足元に紙袋を置いている。古びたコートの襟を立て、寒さをやり過ごすように小さく丸まっていた。

「お疲れ」

その一言だけが、今日を肯定してくれたように響いた。
この世界で「お疲れ」という言葉を交わせるのは、同じ“1”の人間同士だけだ。上から下への言葉は命令であり、下から上への言葉は許されていない。だからこそ、その一言が胸にしみた。

「寒いな」と彼が言うと、彼女はかすかに笑った。

「もう春らしいよ。上ではね」

季節すら、数字で変わる。
3の世界には春が訪れても、1には冬のまま。
彼らが見る桜は、ここには咲かない。

帰り道、彼女は紙袋からパンを取り出し、ちぎって半分を差し出した。中には少しだけ肉が挟まっていた。
「これ、今日の余り。ちゃんと焼けてるよ」
彼は何も言わず、ただ受け取ってかじった。味はなかった。でも、彼女と分け合った温度だけは、口の中に残った。

彼女の名は呼ばれたことがない。
名前を持つことは許されていないからだ。
彼女はただ「もう一人の1」として、毎日を同じように耐えてきた。

けれど、その日を境に、彼女は来なくなった。

朝の工場で、2の男たちが笑っていた。
「昨日のやつ、見たか?声すら出なくなってたな」
「使いすぎたんじゃねえの?」
「壊れるのも早いってことよ」

笑い声が廊下に反響する。
主人公は気づいていた。彼らの言う“やつ”が誰のことかを。
だけど、背中は動かし続けた。止まったら、殴られるから。
心臓が重くなっても、工具を握る手を止めることは許されない。

三日後、彼女は路地裏のゴミの山の中にいた。
膝を折り、顔をうつむけたまま、力なく倒れていた。
目は開いていた。だけど、もう何も映していなかった。


彼は声を出せなかった。
喉が締めつけられるように詰まり、息が吸えなかった。

彼はその場に跪いた。
泣くことも、叫ぶこともできなかった。
ただ、息ができなかった。

そのとき――

ザッ、と足音が一つ。
目の前を、ひとりの「3」が通りかかった。

光沢のあるコート。無表情な横顔。
取り巻く2の人間たちが、ぞろりと従っている。
その一行の中で、3はほんの一瞬だけ足を止めた。

倒れた彼女、膝をつく彼、路地裏の空気。
その全てを、3は無表情に見下ろした。まるで石像のように。

そして、何も言わず、何もしなかった。

そのまま3は通り過ぎた。
彼は顔を上げられなかった。ただ、俯いたまま、石のようにそこにいた。

風が吹いていた。
どこからか肉の匂いが漂ってきた。
嗚咽を漏らし、全身で吐き気を感じた。
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