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第三章
昇格
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部屋の中は暗かった。窓の外からは、ほのかに街灯の光が差し込んでいた。天井の灯りは壊れたままで、冷蔵庫も止まって久しい。
彼は、椅子に座っていた。何時間も、何日も、ずっとそのままの姿勢でいたように思えた。
テーブルの上には、使い古されたナイフが一本。
刃こぼれして、光沢はない。けれど、皮膚を裂くには十分だった。
視線は、壁に貼られた鏡に向いていた。
そこに映るのは、自分の顔。疲れ果て、ひどく痩せ、表情を失った顔。
額には、くっきりと「1」が刻まれている。
その数字が、すべてを壊した。
彼女の死。
誰も助けなかったこと。
何も変わらなかったこと。
そして、何一つ変える力が自分にはなかったという現実。
「でも、もしも――」
ぽつりと漏れた声が、自分のものに思えなかった。
「数字が変わったら、すべて変わるのか?」
誰に問うでもなく、何に応えるでもなく。
彼はナイフを手に取った。
手は震えていた。恐怖ではない。何かを越える瞬間の、あの異様な興奮に似た震え。
鏡の中の「1」を見つめながら、彼は刃を額に当てた。
「1」をなぞるように、力を込める。
血がじわりと滲み出す。
痛みはある。だが、それ以上に、熱がある。
「3」になる。
そう、たったそれだけのことだ。
刻むだけでいい。
形だけでいい。
そうすれば、世界は自分を見る目を変える。
変えてみせる。
変わらなければ――その時こそ、終わらせればいい。
刃を動かす。
額に、曲線を描く。
にじむ血が目の端に垂れていく。
視界が赤く染まる。
それでも止めない。
ぐしゃ、と皮膚を裂く音がした。
息を吐いた。
それは、産声に似ていた。
鏡の中には、「3」があった。
偽物でも、仮面でも、偽装でもいい。
今の彼にはそれがすべてだった。
彼はふらつきながらドアを開けた。
外の空気が、少し違って感じた。
通りを歩く2の男が、彼の額に目をやり、ピタリと足を止めた。
「……っ、失礼しました!」
男は頭を下げ、慌てて道を譲った。
主人公は何も言わなかった。ただ、歩いた。
後ろから聞こえるざわめきが、耳に心地よかった。
広場に入ると、見知らぬ1の女が、驚いたように立ち止まり、深く頭を下げた。
誰もが彼の額を見た。
誰もが、目を逸らした。
誰もが、膝を折った。
その夜、彼は初めて名前を呼ばれた。
豪奢なレストランのような施設に案内され、ワインのような酒を差し出され、肉が焼ける音を聞いた。
「本日は、お疲れ様でした。」
赤い肉が、皿の上で蒸気を上げていた。
柔らかく、脂が乗っている。
――いつか食べたあの味に、どこか似ていた。
彼は何も言わず、それを口に運んだ。
味が分からなかった。
けれど、確かに、今までと違う世界にいた。
彼は、椅子に座っていた。何時間も、何日も、ずっとそのままの姿勢でいたように思えた。
テーブルの上には、使い古されたナイフが一本。
刃こぼれして、光沢はない。けれど、皮膚を裂くには十分だった。
視線は、壁に貼られた鏡に向いていた。
そこに映るのは、自分の顔。疲れ果て、ひどく痩せ、表情を失った顔。
額には、くっきりと「1」が刻まれている。
その数字が、すべてを壊した。
彼女の死。
誰も助けなかったこと。
何も変わらなかったこと。
そして、何一つ変える力が自分にはなかったという現実。
「でも、もしも――」
ぽつりと漏れた声が、自分のものに思えなかった。
「数字が変わったら、すべて変わるのか?」
誰に問うでもなく、何に応えるでもなく。
彼はナイフを手に取った。
手は震えていた。恐怖ではない。何かを越える瞬間の、あの異様な興奮に似た震え。
鏡の中の「1」を見つめながら、彼は刃を額に当てた。
「1」をなぞるように、力を込める。
血がじわりと滲み出す。
痛みはある。だが、それ以上に、熱がある。
「3」になる。
そう、たったそれだけのことだ。
刻むだけでいい。
形だけでいい。
そうすれば、世界は自分を見る目を変える。
変えてみせる。
変わらなければ――その時こそ、終わらせればいい。
刃を動かす。
額に、曲線を描く。
にじむ血が目の端に垂れていく。
視界が赤く染まる。
それでも止めない。
ぐしゃ、と皮膚を裂く音がした。
息を吐いた。
それは、産声に似ていた。
鏡の中には、「3」があった。
偽物でも、仮面でも、偽装でもいい。
今の彼にはそれがすべてだった。
彼はふらつきながらドアを開けた。
外の空気が、少し違って感じた。
通りを歩く2の男が、彼の額に目をやり、ピタリと足を止めた。
「……っ、失礼しました!」
男は頭を下げ、慌てて道を譲った。
主人公は何も言わなかった。ただ、歩いた。
後ろから聞こえるざわめきが、耳に心地よかった。
広場に入ると、見知らぬ1の女が、驚いたように立ち止まり、深く頭を下げた。
誰もが彼の額を見た。
誰もが、目を逸らした。
誰もが、膝を折った。
その夜、彼は初めて名前を呼ばれた。
豪奢なレストランのような施設に案内され、ワインのような酒を差し出され、肉が焼ける音を聞いた。
「本日は、お疲れ様でした。」
赤い肉が、皿の上で蒸気を上げていた。
柔らかく、脂が乗っている。
――いつか食べたあの味に、どこか似ていた。
彼は何も言わず、それを口に運んだ。
味が分からなかった。
けれど、確かに、今までと違う世界にいた。
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