二度と敷居を跨ぐな。二度と私の前に姿を見せるな!

るーしあ

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叩きつけるような雨が、フィラルナの細い肩を容赦なく打つ。
 
 屋敷の重厚な鉄門が背後で閉まる音は、彼女のこれまでの人生が断絶された合図のようにも聞こえた。
 
 手元にあるのは、小さな鞄一つ。
 
 中には亡き母の形見である古い調香道具と、最低限の着替えしか入っていない。
 
 贅沢なドレスも、夫から贈られたはずの宝石も、すべてあの冷たい館に置いてきた。
 
「……お嬢様、大丈夫ですか? 顔色が真っ青ですわ」
 
 隣を歩くキシャラが、自分の上着を広げてフィラルナを雨から守ろうとする。
 
 キシャラだってずぶ濡れなのに、彼女は自分のことなど二の次だった。
 
「大丈夫よ、キシャラ。不思議ね……雨に打たれているのに、心はあの中にいた時よりずっと温かい気がするの」
 
 フィラルナは、震える唇で微かに微笑んだ。
 
 それは強がりではなかった。
 
 あの館に漂っていた、澱んだ傲慢さと愛欲の混じった「悪臭」から解放されただけで、肺の奥まで清々しい空気が届くような感覚があった。
 
「それにしても、ヴォルティグ様のあのお態度は……! あんな毒々しい女を連れ込んで、お嬢様を雨の中に放り出すなんて、神罰が下りますわ!」
 
「神罰なんて、待つ必要はないわよ、キシャラ」
 
 フィラルナは、遠ざかっていくヴォルティグの館を一度だけ振り返った。
 
 雨の帳に隠れてぼんやりとしか見えないが、館を包んでいた透明な輝きが、急速にすすけ、濁っていくのが見えた。
 
 フィラルナには、普通の人間には見えない「香りの粒子」が視える。
 
 彼女が無意識に放っていた調和の香りが消えたことで、あの館はこれから自らの不浄さに飲み込まれていくはずだ。
 
「あの方はおっしゃったわ。『二度と私の前に姿を見せるな』と」
 
 ヴォルティグの冷酷な瞳を思い出し、フィラルナは目を細めた。
 
「ええ、ええ! 言いましたとも! 信じられませんわ!」
 
「だから、私はそれを守るだけ。……二度と、帰らない。何があっても」
 
 フィラルナの決意に呼応するように、彼女の周囲を漂う雨粒が、ほんの一瞬だけすみれの花のような淡い紫色の光を帯びた。
 
 彼女自身の体からは、やはり目立った香りはしない。
 
 しかし、彼女が歩く足跡の先では、雨に濡れた土の臭いが消え、どこまでも澄んだ瑞々みずみずしい大気の香りが広がっていく。
 
 二人は夜の街を抜け、ゼフェルナ王国の国境を目指して歩き続けた。
 
 街の灯りは遠のき、周囲は深い森の闇に包まれていく。
 
「お嬢様、足元にお気をつけて。この先は馬車も通らないような古道ですわ」
 
「ええ、分かっているわ。この国を出て、お母様の故郷があるアスティル帝国へ向かいましょう」
 
「アスティル……。あそこは一年中寒くて、氷の国なんて呼ばれている場所ですよね?」
 
「そうね。でも、あそこの空気はとても澄んでいるって、お母様が言っていたわ。私の『無能な鼻』も、あそこなら静かに休めるかもしれない」
 
 フィラルナが自嘲気味に笑うと、キシャラがぶんぶんと首を振った。
 
「お嬢様は無能なんかじゃありません! あんな香水臭い女の鼻より、お嬢様の鼻の方がずっと……!」
 
「ありがとう、キシャラ。でも、いいのよ。私はもう、誰かのために香りを作ることに疲れてしまったのかも」
 
 結婚生活の三年間、ヴォルティグのために最高の安眠を、最高の食欲を、最高の活力をと、フィラルナは己の魂を削るようにして空気を整えてきた。
 
 それなのに、彼はその恩恵を「当たり前のもの」として享受し、あまつさえ「不快だ」と切り捨てたのだ。
 
 報われない努力は、もう十分だった。
 
 やがて、雨はみぞれへと変わり、空気の冷たさが一段と厳しさを増していく。
 
 フィラルナの薄い靴は泥にまみれ、足の感覚はとうに失われていた。
 
 体力も限界に近づいていたが、彼女の瞳には強い光が宿っていた。
 
「ねえ、キシャラ。あの館の庭に植えていたハーブ、覚えている?」
 
「はい。お嬢様が毎日欠かさず手入れをしていた、カモミールとラベンダーですね」
 
「明日には、全部枯れてしまうわ。私がいない場所では、あの花たちは呼吸ができないから」
 
 それは残酷な予言ではなく、冷徹な事実だった。
 
 フィラルナという「調和の核」を失った場所に、美しいものは止まれない。
 
 一方、その頃のヴォルティグの館。
 
 ヴォルティグは、寝室でメリシアを抱き寄せようとして、不意に顔をしかめた。
 
「……メリシア。お前、何か変なものをこぼしたか?」
 
「ええ? そんなことありませんわ、ヴォルティグ様。お気に入りの香水を少し多めにつけただけですもの」
 
 メリシアは甘えるように首筋を寄せるが、ヴォルティグはその香りを「ひどく下品で、鼻をつく悪臭」だと感じ始めていた。
 
 つい数時間前までは、あんなに魅惑的だと思っていた香りが、今はただの腐った果実のように感じられる。
 
 さらに、寝室の隅から、じわじわと嫌な湿り気を帯びた「淀み」が這い上がってくる。
 
「なんだ、この部屋は……。急に空気が重くなった気がするぞ」
 
「気のせいですわぁ。それより、あんな地味な女がいなくなって、ようやく清々しましたね」
 
 ヴォルティグは頷こうとしたが、なぜか喉の奥に不快な塊が詰まったような感覚を覚え、激しく咳き込んだ。
 
 彼はまだ気づいていなかった。
 
 自分が追い出したのは、単なる「無能な妻」ではなく、自らの命を繋ぎ止めていた至高の守護者であったことを。
 
 雨の中、フィラルナはついに国境の古い石橋に辿り着いた。
 
 そこを渡れば、もう二度とゼフェルナ王国へは戻れない。
 
「キシャラ、行きましょう。新しい私に会いに」
 
「はい、お嬢様!」
 
 フィラルナが石橋に一歩を踏み出した瞬間、彼女を縛っていた見えない鎖が霧散した。
 
 その体から、無意識のうちに抑え込まれていた「浄化」の力が溢れ出す。
 
 彼女の歩く道筋に沿って、降りしきる雪が、まるで宝石の粉のようにキラキラと輝き始めた。
 
 しかし、過酷な逃避行は彼女の体力を確実に奪っていた。
 
 橋を渡りきり、アスティル帝国の領土に入った瞬間、フィラルナの視界がぐにゃりと歪んだ。
 
「あ……」
 
「お嬢様!? フィラルナお嬢様!」
 
 キシャラの悲鳴のような声を遠くに聞きながら、フィラルナの意識は深い闇へと沈んでいく。
 
 倒れ込む彼女の頬に触れたのは、冷たい雪ではなく、誰かの温かい、そして驚くほど「無臭で清廉な」コートの感触だった。
 
 かすかに漂うのは、針葉樹の森のような、ひんやりとした孤独の香り。
 
 それは、フィラルナが生まれて初めて出会う、自分と似た「透明な香り」を持つ主のものだった。
 
「……こんな場所で、何をしている」
 
 低く、深みのある男の声。
 
 フィラルナは重い瞼をわずかに持ち上げた。
 
 そこには、吹雪の中でさえ際立つような、鋭くも美しい漆黒の瞳があった。
 
 ああ、綺麗な人……。
 
 そう思ったのを最後に、フィラルナは深い眠りへと落ちていった。
 
 それは、彼女の絶望が終わった瞬間のことだった。

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