「二度とこんな危ないことはしないでくれ。心臓が止まるかと思った」

るーしあ

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 「お姫様抱っこ」という屈辱的な(と本人は思っている)事件から数日。


 メルティは自室に引きこもり、次なる作戦を練っていた。


「……認めたくないけれど、殿下の勘違いスキルはもはや神の領域に達しているわ。何をしても『愛ゆえの行動』に変換されるなんて、この世界のバグに違いないわ!」


 メルティは枕をポカポカと叩きながら、悔しげに唇を噛んだ。


 このままでは、ゼノ王子との結婚という「破滅への特急券」を握らされたままだ。


 そんな時、彼女の耳に有力な情報が入ってきた。


 それは、侍女たちが小声で話していた噂話だった。


『ねえ、聞いた? 最近、ゼノ殿下が夜な夜な、お一人で西の離宮へ向かわれているそうよ』
『まあ、あそこは今は使われていないはずなのに。もしかして、どなたかと密会でも……?』
『シッ! メルティ様に聞かれたら大変よ。あんなに殿下を愛していらっしゃるのに、浮気だなんて知ったら……』


(これだわ……!!)


 メルティはガタッと椅子を蹴立てて立ち上がった。


「間違いないわ、これは浮気の証拠を掴む絶好のチャンスよ! きっとあのピンク頭のキララさんと、秘密の逢瀬を楽しんでいるに決まっているわ。それをこの目で見届けて、現行犯で『この浮気者! 婚約破棄よ!』と突きつけてやるんだから!」


 名案。これこそが、彼女が待ち望んでいた「正当な理由による婚約解消」への道だ。


 メルティはさっそく、夜の潜入工作のために「隠密用の衣装」を用意した。


 といっても、彼女が選んだのは、深い黒色の最高級ベルベットで作られた、裾の長いフード付きのマントだった。


「ふふん、これで闇に紛れれば、わたくしの姿など誰にも見えませんわ。見てなさい、ゼノ殿下。あなたの化けの皮を剥いでやるんだから!」


 月が雲に隠れた深夜。


 メルティは足音を忍ばせ……ようとしたが、やはりドレスの裾がカサカサと鳴り、重いマントが床をこする音が静かな廊下に響き渡る。


 しかし、運良く夜回りの兵士たちには見つからず(実際には兵士たちは『メルティ様がまた何かやってるぞ……』と見逃してくれていたのだが)、彼女は西の離宮へと辿り着いた。


 西の離宮は、古くからある建物で、複雑な回廊と数多くの小部屋が入り組んでいる。


「……暗いわね。少し不気味だわ」


 メルティは、マントをきゅっと握りしめた。


 遠くでフクロウの鳴き声が聞こえる。風が窓を叩く音が、誰かの囁き声のように聞こえてくる。


 だが、ここで引き下がるわけにはいかない。


 彼女は廊下の先に見えた、人影のようなものを見つけた。


(いたわ! あの銀髪の輝き、ゼノ殿下に違いないわ!)


 メルティは興奮を抑え、影を追って回廊の奥へと踏み込んだ。


 殿下は角を曲がり、さらにその先の扉の中へと消えていく。


「逃がしませんわよ、不実な殿下!」


 メルティは小走りで後を追った。


 右へ、左へ、さらに螺旋階段を上り、また下り……。


 気づけば、彼女は見たこともないほど古びた、埃っぽい廊下に立っていた。


「……あら? ここ、どこかしら?」


 メルティは足を止めた。


 先ほどまで追っていた影は、完全に見失ってしまった。


 周りを見渡すと、どの扉も同じように見え、窓の外には真っ暗な森が広がっているだけだ。


「おかしいわね。わたくし、さっきあそこの角を曲がったはずなのに……」


 戻ろうとして、逆方向に歩き出す。


 しかし、歩けども歩けども、知っている景色には出ない。


 それどころか、廊下のランプはどんどん暗くなり、ついには完全な闇が彼女を包み込んだ。


「ちょ、ちょっと、冗談はやめてくださいまし……。誰かいませんの? わたくし、翡翠メルティ・ルナリアよ!」


 返ってくるのは、自分の声の残響だけだ。


 メルティの心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。


 彼女は実は、壊滅的に「方向音痴」だった。そして、それ以上に「暗闇と幽霊」が苦手だったのである。


 ガタッ! と、背後で何かが倒れる音がした。


「ひゃあああああ!? 出たわ! 幽霊だわ! 悪女のわたくしを連れ去りに来たのね!?」


 メルティはなりふり構わず、近くにあった扉の中に飛び込んだ。


 そこは小さな、窓もない倉庫のような部屋だった。


 扉を閉め、背中で押さえる。


 真っ暗闇。何も見えない。


 狭い空間の中で、メルティはガタガタと震えながら座り込んだ。


「うう、うう……。なんでこんなことに……。わたくしはただ、浮気の証拠を掴みたかっただけなのに。こんなところで一人寂しく、埃にまみれて死ぬなんて嫌よぉ……」


 ついには、堪えていた涙が溢れ出してきた。


 情けない。悪役令嬢として、あまりにも情けない。


「殿下のバカ……。わたくしをこんなに不安にさせて……。キララさんと楽しくやってればいいわよ、もう知らないんだから……。うえぇぇん……」


 メルティは膝を抱え、子供のように泣きじゃくった。


 どれくらいの時間が経っただろうか。


 カチャリ、と。


 部屋の扉が、外から静かに開けられた。


「……メルティ? そこにいるのか?」


 聞き間違えるはずのない、あの低くて甘い声。


 メルティが顔を上げると、そこには手燭を持ったゼノ王子が立っていた。


 光の中に浮かび上がる彼の顔は、心底心配そうで、それでいてどこか安堵したような表情をしていた。


「で、でんか……?」


「ああ、やっぱり君だったか。城の警備の者が、君が西の離宮へ向かったと報告してきたから、慌てて追ってきたんだが……。まさか、こんな古い倉庫に迷い込んでいるとは」


 ゼノはメルティの元に歩み寄り、床に膝をついた。


 メルティの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったが、彼はそれを気にする様子もなく、優しく彼女の肩を抱き寄せた。


「怖かっただろう。すまない、もっと早く見つけてあげればよかった」


「うう、ううう……! 殿下ぁ……!」


 メルティは、条件反射でゼノの胸に飛び込んだ。


 彼の温もりと、いつもの冷香の香りが、凍りついたメルティの心を一気に溶かしていく。


 ゼノは彼女の背中を、まるで幼子をあやすように優しくトントンと叩いた。


「……ところで、メルティ。君は、どうしてこんなところに来たんだ? ここは古びた書物や備品を置いているだけの場所だぞ」


 メルティはハッとした。


 そうだ、自分は浮気の証拠を掴みに来たのだ。


 彼女はゼノの胸から顔を離し、赤くなった目で彼を睨みつけた。


「……殿下こそ、何をしに来ていたのですか!? 夜な夜な一人で、こんな寂しいところへ……。だ、誰かと待ち合わせをしていたのではありませんの!?」


「待ち合わせ? 私が誰かと?」


 ゼノは一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに何かを察したようにクスリと笑った。


「ああ、なるほど。君は、私が他の女性と密会していると疑っていたのか」


「そ、そうですわよ! そうでなければ、こんな怪しい行動をするはずがありませんわ!」


「ふふ、可愛いな。君は私に、そこまで強い独占欲を抱いてくれていたのか」


 ゼノは手燭を床に置き、空いた手でメルティの腰を強く引き寄せた。


「残念だが、君の期待するようなスキャンダルはないよ。私がここに来ていたのは、君へのプレゼントを探していたからだ」


「……プレゼント?」


「ああ。この離宮の地下室に、歴代の王妃が愛用したという美しい宝石が眠っているという記録を見つけてね。君の誕生日に贈ろうと思って、最近、夜な夜な場所を特定するために通っていたんだよ」


 ゼノはポケットから、小さな、けれど眩いばかりの輝きを放つエメラルドの耳飾りを取り出した。


「今日、やっと見つけたんだ。君の瞳と同じ色の、美しい石をね」


 メルティは絶句した。


 浮気。密会。裏切り。


 そんな泥臭い妄想をしていた自分が、あまりにも恥ずかしい。


 彼は、自分のために、埃だらけの古い離宮を一人で探索していたのだ。


「……君は、私に会えない寂しさに耐えかねて、夜の闇も厭わず追いかけてきてくれた。そして、道に迷って泣きながらも、私の名を呼んで待っていてくれた。……これ以上の贈り物があるだろうか」


「い、いや、わたくし、別に殿下の名前は呼んでませんし……!」


「いいや、聞こえたよ。『ゼノのバカ、早く迎えに来てよ』ってね」


「言ってませんわあああ!」


 真っ赤になって否定するメルティ。


 しかし、ゼノの耳には、彼女の言葉はすべて「甘い愛の告白」に変換されて届いていた。


 ゼノはメルティの額に、慈しむようなキスを落とした。


「愛しているよ、メルティ。君を不安にさせたお詫びに、今夜は君が眠りにつくまで、ずっとそばにいてあげよう」


「け、結構ですわ! わたくし、一人で眠れます!」


「ダメだ。こんなに震えているじゃないか。さあ、私の腕の中で安心するがいい」


 ゼノは再びメルティをお姫様抱っこすると、今度は確かな足取りで、光の差す出口へと歩き出した。


 メルティは、彼の腕の中で小さく丸まりながら、遠のく意識の中で思った。


(……やっぱりダメだわ。わたくしが『悪女』をしようとすればするほど、この王子の『溺愛フィルター』が分厚くなっていく気がする……!)


 潜入工作の失敗。


 そして、手に入れたのは浮気の証拠ではなく、一生モノの宝石と、さらに重くなった王子の愛だった。
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