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1.冬と追憶
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仕事用のデイパックを背負い、ペットキャリーを手に提げ、狭いアパートを出る。
大きなパークを横目で見ながら停留所まで歩き、路面電車でしばらく揺られて州立大学前の停留所で降車。そこから数分も歩けば、勤め先の製薬会社研究施設に到着する。
今日は早く来すぎているので、ラボの近くのダイナーに寄ることにした。
「おはよう、ベル」
入ってすぐのテーブル席に、赤毛のくせっ毛がトレードマークのマーティンがいた。わたしは彼の存在に目を丸くしてしまった。彼はいつも遅刻ギリギリでやって来るから、寝坊しているのだと思っていた。
「おはようございます。マーティンさん」
「きみがここに来るなんてどんな風の吹き回し? 今日は雪でも降るのかな?」
「たまたま早起きしただけですよ」
「そう。なら、ここによく来る先輩からの忠告だよ。ベーコンエッグマフィンには気をつけるんだ。僕はヤツのせいで5キロも太って、嫁に文句を言われている。うまいものにはカロリーがあるのが悪いだけだよね」
肥満気味のマーティンは、ベーコンエッグマフィンを手に取り、幸せそうにかぶりつく。どうやら悪魔の食べ物らしい。
先輩の忠告を胸に、わたしはカウンター席に腰を下ろす。ルゥがいるペットキャリーは隣のイスに。
鼻歌交じりでコーヒーを注いでいる店員に、シュリンプたっぷりのバゲットサンドを注文した。もちろん、サルサソースもたっぷりで。
ふと見上げた壁掛けテレビモニターから、ニュースが流れている。
この国では、世界のあらゆる出来事や情報を誰もが気軽に得られる。S国のデモ、東洋の島嶼N国の水害、熱帯雨林の火災やU国の内戦。北西の小国の政権交代による国内の混乱。中東I国の油田火災に南洋のタンカー事故。
そして捨てた祖国のニュース。
オーバーフローしているニュースのなかから、無意識的に祖国を抽出しているから、夢を見せたのだろうか。
──わたしの祖国。短い夏と長い厳冬の国。山に囲まれた小さな国。
冷戦の時代に東側と呼ばれていた重たい灰色の国から逃げ出し、西側と呼ばれていたA国に辿り着いたのは、もう十数年も前だ。
人が人を管理し、隣人たちは密告し合う灰色の国。家族が一緒に暮らせない最低の国。
すべての子供は五歳になると養育施設で育てられ、十六歳になると能力にあった職場に出荷される。夢も希望もない暗い国だ。
五歳で別れるから、養親との思い出はないに等しい。その代わり、養育施設で教育を叩き込む教官たちと、先輩同輩後輩という血の繋がらない大勢と共に暮らした思い出がある。
──ああ。嫌な記憶だ。
学習施設に併設された長方形の宿舎がわたしたち子供の巣だ。
食事は薄暗い食堂で朝晩二回、決まった量を与えられる。メニューはほとんど固定で、国の祝賀、祭日だけほんの少し豪華になる。
平等に分けられたしみったれた食事は、時間内で片付けるように教育される。好き嫌いを言っていれば、教官たちが無理やり口に食事をねじ込んでくる。だが、だいたいは空腹に耐えかねてなんでも食べれらるようになる。ぬるくてまずい食事と私語を慎む殺伐とした食事風景は、ブロイラーの鳥の方がまだマシだ。
夕食後でも宿舎で学習を強要されるから、自由時間はほとんどない。午後11時の消灯のあとで、わたしたちは静かに語り合う。
大部屋には十六人分の小さな机と硬いベッド。これが割り当てられた個人のスペース。暖房が役に立たない真冬になれば、部屋の中央にベッドをくっつけて男女先輩後輩関係なく、服を着込んで身を寄せあって眠りにつく。
大部屋に収容された十六人。とくに気が合ったのは、クルト、ヨハン、カティリナ、ニコラス……。ヴァレリーとはいつだって寄り添っていた。
可愛らしい顔をしていたヴァレリーは、高い知能と身体能力を持っていた。少し気が弱かったのも含めて、わたしは彼が大好きで自慢だった。
けれども十歳になる前に──約束のクリスマスを過ごす前に彼はいなくなった。
ヴァレリーは能力が高い者だけ集められた施設に行った。とんでもないヘマをやらかして収容所に送られた。顔がいいから男娼に選ばれた──さまざまな無責任な噂が立った。
噂は自然消滅せず、教官たちが「最初から彼などいなかった」と揉み消した。
ヴァレリーがいなくなった理由。どうしているのか。誰も真実を教えてくれない。
寄り添っていたぬくもりは、時が経つにつれ薄くなっていく。わたしはこの感覚が嫌だったし、恐ろしく思え、そして悲しかった。
ヴァレリーのいない場所に未練がなかった。いいや、わたしは施設から飛び出して希望の光を探したかった。
わたしたち子供は出荷のその時まで、施設を囲う高い塀の向こうには行けない。
教官や規則に逆らえば矯正プログラムが待っている。子供たちは圧倒的な暴力に恐怖し怯えて、従順で卑屈なネズミのように丸くなるだけ。
誰もヴァレリーの名前を口にしなくなっていたのに、わたしは、彼の名を呼び探した。
教官たちに注意をされ警告を受けたが、わたしはそれでもヴァレリーを探した。再三の警告を拒絶したわたしは、反抗的にならぬよう矯正プログラムを受けた。
四方から光が注ぐ独房に入れられ、疲れてくたくたになるまで勉強と運動を強制させられた。猛烈な吐き気と眠気で気絶する寸前、理想郷への忠誠を誓えと教官たちが叱咤して、殴り蹴りをしてくる。
朦朧とした頭では、なにが正しく間違っているのかわからない。涙とよだれを垂らして、暴力から解放されたいとひたすら願う。
こんなにも酷いマインドコントロールを受けてなお、翌年わたしは施設の壁を越えようとした。有刺鉄線に高圧ボルトの電流が流れていて、焼け死んでしまいかねないと躊躇した時、呆気なく捕まった。
一度目の強制プログラムよりもハードな暴力を受けたが、わたしは屈しなかった。
わたしの心の中にはヴァレリーがいたからタフでいられた。
いつだって彼を想った。わたしのぬくもり、わたしの希望の光。愛しい男の子。
だけど、ここにはヴァレリーがいない。
ヴァレリーに会いたい。彼を返して。希望の光と温もりをわたしに返して!
大好きな人がいない、光なき国にどうして忠誠が誓えようか。
応援ありがとうございます!
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