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3.盲目の旅人の決意
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マーティンの家で大切な話をした。その後で、明日からラボを休むと告げ、後ろ髪を引かれる思いを隠して、別れた。
ルゥがいない家に帰る気にならず、喧騒と酒しかないクラブのカウンターの奥で酒を煽り飲んだ。
今日くらい自暴自棄になっても許されるはずだ。どこかにいる見張りの者が、変わり者・エリアス・ドゥに告げ口をして、もしも彼が文句を言ってきたら言い返してやる。
この世はバカげている、と。
「なぁ、カノジョ。ひとりで飲むよりおれたちと飲みながらイイコトしない?」
こうして声を掛けられるのも何人目か。それでも護身用拳銃をチラリと見せると、立ち去っていく。
この男たちにも護身用拳銃を向けると、彼らはニヤニヤしたまま、コンバットナイフを見せてきた。この距離と今の深酔いなら、こいつらのナイフの方が早い。
「イイコトってなに?」
「ドラッグとセックスに決まってるだろ?」
バカバカしいかぎりだ。不自由なく家族を愛せる国の人間が、違法ドラッグだと。笑わせる。
「そんなフラフラした手つきじゃ、板切れすら狙えねぇだろ。痛い目に遭う前に従えよ」
彼らのリーダー──兵卒風の大男が汚らしいヒゲヅラを近づけてきた。鼻をつまみたくなるほどテキーラ臭い。
唾でも吐いてやろうとして、やめた。
「そうね。バカバカしいわ」
そう、バカだわ。どうせ死んでしまうのだから。いいや、ルゥがいない今、わたしは死んだも同然なのだから、クソッタレ共と遊んでやるのもいい。
ドラッグをキメたら、苦しまずに死ねるかもしれない。──それもいい。
わたしは拳銃をしまい、リーダー格の男に手を差し出した。
「そんな薄汚い手を取るくらいなら、僕の手を取ってください」
脳を揺さぶるクラブミュージックのなか、クリアな声が耳に届いた。場末のクラブが似合わない上等なスーツを着ている男がわたしの手をとる。
「僕と飲み直しませんか? ベル」
「……リチャード・スミス」
彼はにっこり微笑んだ。上品な笑顔は、こんな掃き溜めのようなクラブには似合わない。
どうしてここにいるんだ? だけど、それも酔いが回りすぎて考えるのが億劫だ。
「痛い目見る……──っ!」
リーダー格の男がスミス氏の肩に手を置こうとした──瞬時、氏は素早く拳を男の人中に当て、足払いした──のち、肩を組み床に伏し押さえた。
テーブルがガシャンと音を立てたが、クラブミュージックが大きくて気にならないし、誰も気にしない。
それよりも気になるのはスミス氏だ。
──接近格闘技を!? まさか!? 高度な軍人の教育を受けていた? そのナヨナヨとした学者のナリで?
「失礼。彼女は僕の連れなんです。それで、痛い目ってなんですか?」
いたずら者を諭すように白い歯を見せて、コンバットナイフを速やかに奪い取り、男の首筋に当てた。笑顔を見せるこの男は何者なんだ?わ
・ ❆ ・
それからはわたしは、スミス氏の腕に抱きかかえられてクラブを後にした。
まだ夜中の繁華街は人が多い。スミス氏はすいすいと人の隙間を泳ぐように歩く。わたしの重さを感じさせない歩調は、わたしを無駄に揺らさないでいる。
だが、人目が気になるし、スミス氏に抱きかかえられているのはプライドが許さない。
「降ろしてください。わたしは歩けます」
「ベル、あなたは歩けないでしょう? だめですよ、降ろしません」
意外に力があると言うべきか、わたしが深酔いしすぎて身体の自由がないせいか、じたばたもがくこともせず、スミス氏に抱えられている。非常に不服で、そして情けなくて不甲斐ない。
繁華街の歩道を行き交う人々の目が、こちらに向いている錯覚がする。
「人通りが多い場所なので、恥ずかしいんです」
「あんな場所でクソッタレどもとつるもうとしていたのですから、お仕置だと思ってくださいね。なにがあったか知りませんが、自分を大切にするよう反省してください」
「スミスさんとは仕置をされる仲ではありません」
「変だな。ベルは僕の好意を知っているでしょう?」
「……一方的な……ん」
キスをされた瞬間、酒で麻痺したわたしの嗅覚を清涼な香水の香りが支配した。
「これを機に仲良しになりませんか? 深い、男女の」
いつもなら、即断だ。他人と深い関わりなど持ちたくない。
だけど今のわたしは何もかもが鈍くなっている。それに今日はひとりぼっちになりたくない。
なにかに縋りたい。刹那的だろうと一瞬でも孤独と追われる身なのを忘れたい。
今の痛みを消せるなら、自暴自棄になっていたい。今日くらいは。
だから、スミス氏のキスを受け止め、それでいてなお、嘘つきのわたしは彼の舌に応えた。
彼はまだホテル住まいだった。
酔っ払いのわたしの荒い息も、いやらしい粘着質な水音も、淫らな肌を打つ音も、上等なホテルの壁や床、ベッドが吸収してくれた。
スミス氏は意外にも引き締まった身体をしていた。アメフト部の人や軍人のように分厚すぎず、ガリ勉のように弱々しくない。全身を使うスポーツをしている、そんな体型。
理工系の男には似合わないが、ジムに通ったり、クライミングをしたりしているかもしれない。
わたしは彼のことをなにも知らないから、すべて憶測だ。
なにも知らないから、抱かれても恥じることなく本能をさらけ出した。次はない。だからいい。知らないままでいい。
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