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3.盲目の旅人の決意

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  ・ ❆ ・ ❅ ・ ❆ ・



 マーティンの家でをした。その後で、明日からラボを休むと告げ、後ろ髪を引かれる思いを隠して、別れた。

 ルゥがいない家に帰る気にならず、喧騒と酒しかないクラブのカウンターの奥で酒を煽り飲んだ。
 今日くらい自暴自棄になっても許されるはずだ。どこかにいる見張りの者が、変わり者あしながおじさん・エリアス・ドゥに告げ口をして、もしも彼が文句を言ってきたら言い返してやる。
 この世はバカげている、と。

「なぁ、カノジョ。ひとりで飲むよりおれたちと飲みながらイイコトしない?」

 こうして声を掛けられるのも何人目か。それでも護身用拳銃をチラリと見せると、立ち去っていく。
 この男たちにも護身用拳銃を向けると、彼らはニヤニヤしたまま、コンバットナイフを見せてきた。この距離と今の深酔いなら、こいつらのナイフの方が早い。

「イイコトってなに?」

「ドラッグとセックスに決まってるだろ?」

 バカバカしいかぎりだ。不自由なく家族を愛せる国の人間が、違法ドラッグだと。笑わせる。

「そんなフラフラした手つきじゃ、板切れタゲすら狙えねぇだろ。痛い目に遭う前に従えよ」

 彼らのリーダー──兵卒風の大男が汚らしいヒゲヅラを近づけてきた。鼻をつまみたくなるほどテキーラ臭い。
 唾でも吐いてやろうとして、やめた。

「そうね。バカバカしいわ」

 そう、バカだわ。どうせ死んでしまうのだから。いいや、ルゥがいない今、わたしは死んだも同然なのだから、クソッタレ共と遊んでやるのもいい。
 ドラッグをキメたら、苦しまずに死ねるかもしれない。──それもいい。

 わたしは拳銃をしまい、リーダー格の男に手を差し出した。

「そんな薄汚い手を取るくらいなら、僕の手を取ってください」

 脳を揺さぶるクラブミュージックのなか、クリアな声が耳に届いた。場末のクラブが似合わない上等なスーツを着ている男がわたしの手をとる。

「僕と飲み直しませんか? ベル」

「……リチャード・スミス」

 彼はにっこり微笑んだ。上品な笑顔は、こんな掃き溜めのようなクラブには似合わない。
 どうしてここにいるんだ? だけど、それも酔いが回りすぎて考えるのが億劫だ。

「痛い目見る……──っ!」

 リーダー格の男がスミス氏の肩に手を置こうとした──瞬時、氏は素早く拳を男の人中に当て、足払いした──のち、肩を組み床に伏し押さえた。
 テーブルがガシャンと音を立てたが、クラブミュージックが大きくて気にならないし、誰も気にしない。

 それよりも気になるのはスミス氏だ。
 ──接近格闘技CQCを!? まさか!? 高度な軍人の教育を受けていた? そのナヨナヨとした学者のナリで?

「失礼。彼女は僕の連れなんです。それで、痛い目ってなんですか?」

 いたずら者を諭すように白い歯を見せて、コンバットナイフを速やかに奪い取り、男の首筋に当てた。笑顔を見せるこの男は何者なんだ?わ


 ・ ❆ ・



 それからはわたしは、スミス氏の腕に抱きかかえられてクラブを後にした。
 まだ夜中の繁華街は人が多い。スミス氏はすいすいと人の隙間を泳ぐように歩く。わたしの重さを感じさせない歩調は、わたしを無駄に揺らさないでいる。
 だが、人目が気になるし、スミス氏に抱きかかえられているのはプライドが許さない。

「降ろしてください。わたしは歩けます」

「ベル、あなたは歩けないでしょう? だめですよ、降ろしません」

 意外に力があると言うべきか、わたしが深酔いしすぎて身体の自由がないせいか、じたばたもがくこともせず、スミス氏に抱えられている。非常に不服で、そして情けなくて不甲斐ない。
 繁華街の歩道を行き交う人々の目が、こちらに向いている錯覚がする。

「人通りが多い場所なので、恥ずかしいんです」

「あんな場所でクソッタレどもとつるもうとしていたのですから、お仕置だと思ってくださいね。なにがあったか知りませんが、自分を大切にするよう反省してください」

「スミスさんとは仕置をされる仲ではありません」

「変だな。ベルは僕の好意を知っているでしょう?」

「……一方的な……ん」

 キスをされた瞬間、酒で麻痺したわたしの嗅覚を清涼な香水の香りが支配した。

「これを機に仲良しになりませんか? 深い、男女の」

 いつもなら、即断だ。他人と深い関わりなど持ちたくない。
 だけど今のわたしは何もかもが鈍くなっている。それに今日はひとりぼっちになりたくない。

 なにかに縋りたい。刹那的だろうと一瞬でも孤独と追われる身なのを忘れたい。
 今の痛みを消せるなら、自暴自棄になっていたい。今日くらいは。

 だから、スミス氏のキスを受け止め、それでいてなお、嘘つきのわたしは彼の舌に応えた。



 彼はまだホテル住まいだった。
 酔っ払いのわたしの荒い息も、いやらしい粘着質な水音も、淫らな肌を打つ音も、上等なホテルの壁や床、ベッドが吸収してくれた。

 スミス氏は意外にも引き締まった身体をしていた。アメフト部の人や軍人のように分厚すぎず、ガリ勉のように弱々しくない。全身を使うスポーツをしている、そんな体型。
 理工系の男には似合わないが、ジムに通ったり、クライミングをしたりしているかもしれない。
 わたしは彼のことをなにも知らないから、すべて憶測だ。

 なにも知らないから、抱かれても恥じることなく本能をさらけ出した。次はない。だからいい。知らないままでいい。


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