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第4章 消失す
3 花房家の転機
しおりを挟む須美姫と過ごす時間は、順調に過ぎていった。
2日か3日に一度、須美姫が花房邸にやってくる。それで、土筆の部屋で、あれこれ話をするのだ。
須美姫は、仮名文字のほとんどを難なく読めた。書く方も、上手くはないが、ある程度はできる。
式部の大輔が母親につけてくれた女房が時々、須美姫や近所の子らを集めて、教えてくれたのだという。
それで土筆は須美姫に、流行りの絵物語や日記を使って、都の生活や文化を教えた。
節会や、その行事の意味。物忌や穢れ。あるいは、日常生活、慣習。物の手順。
他にも、例えば、夫となる人以外に、むやみに本当の名を教えたりせぬこと。
また、牛車の乗り方、降り方について。牛車は後ろから乗り、前から降りる。人と乗り合わせる時には、上座下座で、座る位置が決まっている。都人たちは、そういう小さなことを、知らないことを馬鹿にする。
須美姫は、従順で優秀な生徒だった。年は18だというけれど、2つ下の土筆の話を素直に聞くし、覚えも悪くない。
時間が空けば、時には、全く関係のない話をすることもあった。
ある日のこと。
花房邸での予定の時間を終えたものの、突然の雨に、牛車が出せず、思いがけず須美姫が逗留することになった。
「夕立でしょう。しばらく、うちで待っていればいいわ。」
空が暗いからと、タマが気を使って、燭台に火を灯してくれた。
須美姫は、明かりの前に静かに鎮座し、じっと揺らめく光を見ている。
土筆は、空を覗き込みながら、
「雷が鳴らないといいけど……。」
暗い空には、今にも稲光が走りそうだが、須美姫は、あまり気のない様子で、「そうですね。」と答えた。
「雷が怖くないのですか?」
都の者たちは皆、雷が苦手だ。
音と光に怯え、身を寄せ合って、過ぎるのを待つ。
「好きではありませんが……」
須美姫は土筆の言葉に、軽く首を傾げた。
「須美姫には、怖いものはないのですか?」
「怖いもの……ですか?」
長考するかのような沈黙のあと、やがて「……思いつきません。」と、首を軽く振った。
それで、また、二人の間が静かになった。
雨粒が家屋を叩く音だけが、部屋に響く。
ふと、須美姫が言った。
「何か、お話をしてくださいませんか?」
「お話? えぇっと……どんなのがいいかしら? 何か巻物を……」
タマに命じようとしたが、須美姫が、「いえ、」とそれを止めた。
「物語ではなく、土筆さまのお話が聞きたいわ。」
「私の話……ですか?」
うーん、何か面白い話題があったかしら、と頭を捻って考えていると、
「例えば、物の怪の話などはいかがでしょう? 都は物の怪が多いと言うし、土筆さまも、そういった類のものと出会したことはあるのですか?」
須美姫に尋ねられ、土筆はまた、「そうね……」と考え込んだ。
正直、物の怪なんて出会ったことはない。
けれど………
土筆は、空を見上げた。
大粒の雨が次から次へと降ってくる。
「物の怪じゃなくても、怖いものはあります。」
こんなことを思い出したのは、きっと雨のせいだろう。
「生きている人間だって、時には、物の怪以上に怖いものなのよ。」
「生きている人間……ですか?」
須美姫は興味を持ったらしく、「それは、どういうことですか?」と先を促した。
それで土筆は、あの長雨が続いたあとの、怨霊屋敷で起こった出来事を須美姫した。
時峰と小野明衡の活躍、そして怨霊屋敷に閉じ込められた可哀想な姫のことを。
ひょっとしたら、怖がるかもしれない。嫌がるようなら、すぐに話すのをやめよう。
そう思っていたが、心配は無用だった。須美姫は土筆の話を、驚きながらも興味深げに、最後まで聞いていた。
話し終えたあと、須美姫は、胸をなでおろし、
「その姫さま、助かって良かったですね。」
「えぇ、本当に。」
流石に、床下から、もう3人分の身元不明の亡骸が出たことは、話さずにおいた。
「無理やり連れて来られるなんて、きっと辛かったでしょうね……」
ひょっとしたら須美姫は、囚われた不幸な吉野大松の姫に、自分を重ねながら聞いていたのかもしれない。
「きっと、とても淋しくて……家族に会いたかったに違いないわ。」
その日の須美姫は、今まで土筆と過ごしてきた時間の中で、最も感情豊かだった。
あれこれと思いついたことを、次から次へと口にする。
「それにしても、床下に隠したり、行李に入れて運ぼうとしたり……世の中には、思いもつかないようなことを考える方がいるのもですね。」
呆れるように言ったかと思えば、「そんな奇想天外な策を見破るなんて、土筆さまも凄いです。」と、素直に感激しているようにもみえる。
暗い雨に閉じ込められたのような部屋での出来事は、いつもとは違い、思い返すと、どこか浮世離れしたような不思議な時間だったように感じる。
* * *
「何にせよ、上手くいっているようで安心しました。」
定期的に、様子を伺いに……という名目で部屋にやってきていた土筆に、時峰が言った。
預けた手前、責任を感じていたのだろう。土筆の話を聞いた時峰は、ホッと胸を撫で下ろした。
「それで、須美姫のことは、何かわかりましたか? その……犬丸のことなど……」
「………いいえ。」
土筆は、申し訳ないと謝った。
「須美姫は、あまり自分の話をしたがらないのです。」
須磨のこと、自分のことに話が及ぶと、やはり口数少なになる。
和やかな雰囲気の中で、土筆も無理強いして聞きたくはなかった。
「そうでしたか。それでは、狐笛丸のことも……?」
「それは聞いたわ。」
会話の中で『狐笛丸』という陰陽師の話題を出した。狐面を被った、横笛の得意な男で、薬草の知識が豊富。
土筆が毒を盛られたことには触れず、ただ、昨今、噂の陰陽師だということと、どうやら、その正体が須磨出身の橘貴匁という男らしいということ。
だが須美姫は、その男の話題には、特別、強い関心を示さなかった。
他の話題と同じように、土筆がよく話す、勉強の間の閑話休題くらいにしか捉えていないようだった。
貴匁の出身が須磨らしいという下りにも、ほとんど反応しなかったが、貴匁のいた寺の名前は聞いたことがあると言っていた。
「親をなくした孤児たちが暮らしいているそうです。」
でも須美姫は、そこを訪れたこともないし、それ以上のことは何も知らないと言っていた。
その言葉に、嘘はないように思えた。
そう時峰に告げると、「そうでしたか……」と、また、安堵したように言った。
「狐笛丸の情報が得られなかったのは、残念かもしれませんが、私は逆に、貴女への危険がないと知り、安心しました。」
均整の取れた美しい顔が、優しく笑う。
いつものように。
こういうときに、ふと、土筆は錯覚しそうになる。
こんなにも、私を案じ、気にかけてくれる人が、他にいるだろうか。
真面目で正直なこの人が口にするのは、本当の気持ちなのか。私への想いも、もしかして、誂いや気まぐれではなく……
もしかしてーーー
時峰の顔を見ていたら、何かが溢れてきた。
「………ッあの………!」
その感情が流れ出すように、土筆が口を開きかけた、そのとき。
部屋に向かって、ドスドスと駆けてくる足音がした。
「大変だッ!!」
足音とともに現れたのは、父の花房資親だった。
「お父様?!」
「一大事だ。我が花房家にも、いよいも転機が……」
話しながらドスドスと近づいてくるから、
「お父様、お待ち下さい。お客様が……」
「客人?」
土筆に言われ、資親は初めて、気づいたらしい。足を止めて、御簾の前に座る時峰を認めると、
「あぁッ!! すまない。いらっしゃっていたのか。」
慌てて謝った。父にしては、珍しい失態だった。
「そんなに慌てて、何かあったのですか……?」
余程のことだろうと尋ねた土筆に、父は、コホンと一つ咳払いをした。
「いや、悪い話ではない。悪い話ではない……のだが……」
時峰のほうを意味ありげにチラリと見た。察した時峰が、
「私は、お暇しましょうか?」
資親が、「………うむ」と頷く。
「悪いが、そうしてもらえるか?」
「……分かりました。」
時峰が洗練された所作で、腰をあげる。
「すまない。君を信頼していないわけではないのだが……」
「構いません。」
時峰は、軽く首を振って、頭をかくと、土筆の部屋を出ていった。
時峰が去ると、土筆は御簾をあげ、父の近くに寄った。資親はタマに、周辺の人払いをするように命じた。
人払いと言っても、ここは屋敷の奥。土筆の部屋と、その先に菫の部屋があるのみで、行き交う女房たちも少ない。
念の為ーーーということだろうが、やけに厳重だ。
「私も退席しますか?」
戻ってきたタマが尋ねると、
「いや、お前はいい。ここにいなさい。」
資親が言った。
「ただし、これから話すことは、くれぐれも内密にするように。まだハッキリしたわけではないが、事は、花房家の今後に関わる。」
タマは土筆の絶対的女房として、高い信頼を得ている。本人も、その扱いが満更でもないようで、どこか誇らしげに、「はい。」と頭を下げた。
しかし、それほどまでの事とは、一体なんだろう……?
すると資親が、土筆に向き直り、背筋を正して座り直した。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……牡丹が………女御として入内しているお前の姉が………懐妊したようだ……」
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