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第6章 身代わり尚侍
5 内裏の侵入者
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翌朝、登華殿で目を覚ました土筆の耳に、女房たちが右往左往に駆け回る騒がしい足音が聞こえた。
土筆が床から出るのと同時に、真っ青な顔をしたタマが部屋に飛び込んできた。どうやら、どこかに出歩いていたらしい。
何かあったのかと、こちらから尋ねるより先に、タマが震える声で告げた。
「昨晩、ふ、不審者が……牡丹さまに……」
「不審者?! 姉さまに何かあったの?」
不審者が身重の牡丹のところにーーー最悪の事態化が頭をよぎる。
「姉さまは無事なの? まさか、お怪我でも……」
タマに駆け寄り、両袖を掴んで揺する。タマがガクンガクンと前後に揺れながら答えた。
「だ、大丈夫です。不審者が牡丹さまの部屋から出て行ったようですが、牡丹さまは、なんともありませんでしたから」
「そう。無事……なのね」
一先ずホッとした土筆は、タマの袖を掴んだ手を離した。
「でも、どうして不審者が姉さまの部屋から?」
「そこが問題なのです」
タマは、土筆に引っ張られたせいで緩んだ着物の襟を直しながら、錯綜する情報をもとに教えてくれた。
タマが聞いてきたところによると、話はこうだ。
昨晩、寝付けずに夜風を浴びようと部屋の外に出たとある女房が、偶然、不審な男を見つけた。男は藤壺の直ぐ側を彷徨い歩いている。しかも、どうやら藤壺の簀子から飛び降りたようにみえた。
女房が慌てて大声をあげると、直ぐに警固の者が数人、駆けつけた。
侵入者は警固の男たちと激しく刀を交え、その結果、腹を切られて息絶えたという。
「息絶えた? 亡くなったの?」
「えぇ、そのようです。私たちが起きたときには、すでに、その……跡形はありませんでしたが」
女たちが起き出す前に、遺体が片付けられたということだろう。
「そんな騒ぎが夜中にあっただなんて、全然気が付かなかったわ。女房の悲鳴も聞こえなかったし」
藤壺が見える位置で大声を上げたというが、土筆のいる登華殿には聞こえなかった。女房は、どの辺りで見ていたのだろうか。
すると、タマが少し困ったような顔をした。
「実際は、悲鳴をあげたわけではないようです」
意味が分からず、土筆が首を傾げると、タマが物分りの悪い教え子に噛み砕いて教えるように説明してくれた。
「その女房のところには、男が忍んできていたのですよ。不審者を見つけた女房は、一緒にいた男に伝えたんです。それで、その男がすぐに不審者を追った。だから実際には、女房は叫んでなんていないんですよ」
しかし、それでは外聞が悪い。だから、見かけて叫んだことにした。そんなことは、皆、薄々気づいているけど、野暮だから指摘しない。
「土筆さま。世の中には、『そういうことにしておいた方が都合が良いこと』というものが、存在するのです」
「……なるほど」
今まで、花房邸の奥に引き籠もっていて、友人の少ない土筆には、こっち方面の機微は圧倒的に足りていない。内裏はある意味、学ぶところが多い。
「まぁ、でも姉さまに怪我がないのなら、良かったわ」
「怪我はないのですが、妙な噂がたってしまって……」
「噂? 噂って?」
「その男が実は、牡丹さまに会いに来たのではないか、と……」
「えっ?!姉さまに?」
土筆は、すぐに「そんなわけないじゃない」と否定した。
牡丹は今、最も御上の寵愛を受けている女御。しかも子まで身籠っている。にも関わらず、この後宮に男を呼ぶだなんて。
「姉さまは、そんなに愚かじゃないわよ」
「それは、私もよく存じております」
長年、花房に仕えてきたタマも、すぐに土筆に同意した。
「ただ女房の目には、その不審者というのが、藤壺の簀子から飛び降りる直前、誰かと親しげに話していたようにみえたそうで。少なくとも、無理やり押し入ったような雰囲気ではなかった……と」
「誰かって…相手は?」
「それは、暗くて見えなかったそうです」
なんだ。まったくもって根拠のない、勝手な噂ではないか。
「では、その男は姉さまの部屋の女房に会いに来たということでしょう? 姉さまではありません」
「普通に考えればそうなのでしょうけど、藤壺の女房に尋ねたところ、全員、殺された男に心当たりがないようで」
そりゃあ、この状況で「相手は自分です」とは名乗り出づらいだろう。
ましてや、その男は死んでいるのだ。どう考えたって、厄介事だ。
「それなら、牡丹姉さまだって心当たりはないでしょう?」
それはその通りですが、と同調するタマの言葉は、歯切れが悪い。
「なにせ牡丹さまは、入内されたら即、御上に気に入られ、それこそ目に入れても痛くないほどの寵愛ぶりでしたから、陰ながらやっかむ者も多いのです」
「やっかむ? 牡丹姉さまを?」
長年、姉妹として側で比べられてきた土筆だが、その気持ちはよく分からなかった。
華やかで皆の目を惹く、あの圧倒的な存在感。優美な所作に、洗練された会話。
一目見れば、並の人間では張り合えないと気づくはずだ。
土筆からすると、牡丹をやっかむなど、身の程知らずのすることだと思えた。
「昨夜の事件、調べは進んでいるのかしら?」
「それは、何とも……」
タマが困り顔で首を横に振る。多分、その情報はタマでは掴めないだろう。
「時峰さまに聞けば、何か分かるかしら……?」
時峰は、近衛中将だ。直接、調べに関わっていなくとも、手を尽くせば正確な情報を手に入れることができるかもしれない。
「いいわ。ちょっと行ってきます」
土筆は立ち上がった。
「行くって……どこに? まさか中将のところに行く気じゃあ」
「姉さまのところよ」
土筆は急ぎ着替えると、タマに留守を頼んで、藤壺に向かった。
◇ ◇ ◇
ひょっとして藤壺は、梅雨空のように暗く沈んでいるのではないかと心配したが、それは杞憂だったようだ。
「あら、いらっしゃい」
小さな鞠のように膨らんだお腹を擦りながら、牡丹が微笑んだ。
「姉さま! 大丈夫なの?」
「大丈夫って………何が?」
牡丹が微笑んで、首を傾げる。
その後ろでは、藤壺の女房たちがのんびりと牡丹の着物を綺麗に畳みなおしたり、片付けたりしている。
拍子抜けするほど、いつもと変わらない。
「変な男が藤壺に忍んできたって……」
「大丈夫よ。私は何ともないわ」
「でも……変な噂が立っているって……」
牡丹は、いつもの揺るぎない華やかさを放ちながら笑った。
「気にしていないわ。どうせ、私のことをアレコレ言いたいだけでしょう」
「でも……」
「私は、昨晩は清涼殿に行っていたの。だから誰が来たって、会いようがないのよ」
清涼殿というと、御上の寝所だ。
それなら確かに、藤壺に不審な男が忍んできたって、関係ない。清涼殿なら、証言する女房も数多いるはず。噂もすぐに沈下するだろう。
「それにしても……それなら、なんでそんな噂が流れたのかしら?」
「別に気にすることないわ。狭い世界だから、真偽不確かな噂が駆け巡るなんて、よくあることだもの。噂はあくまで、噂。そのうち消えるわよ」
牡丹は、本当になんとも思っていないらしい。流石に、肝が据わっている。
こういうところが、彼女の魅力が単に浮ついたものに留まらせず、人を圧倒させるような説得力をもたせるのだろう。
末姫の菫と違って、土筆があれこれ気を揉んで案じる必要はなさそうだ。
安心したら、土筆はふいに、預かりものをしていたことを思い出した。
「あぁ、そうだわ。これ、姉さまに」
弘徽殿のちい姫から受け取った巾着袋を懐から出す。
「……これ、なぁに?」
「牡丹の落としたものではないかしら? 弘徽殿のちい姫が拾ったそうよ」
土筆から巾着袋を受け取った牡丹は、すぐに首を横に振った。
「知らないわね。見覚えもないわ。私のものではないわよ」
「中身は練香なのよ。弘徽殿のちい姫は、袋からも、姉さまの使う香と同じ匂いがすると言っていたのだけれど」
牡丹は袋を鼻に近づけて、スーッと息を吸い込んだが、すぐに離した。
「そうかしら? よく分からないわね」
中を開けて練香も検めたが、「自分で調合したものかは分からない」という。
「以前、調合したものと似ている気もするけど…だとしても、随分前に作ったものよ。子ができてからは匂いが気持ち悪くて、調合などする気にならなかったもの」
「へぇ。そういうものなのね」
「ごめんなさいね。今も匂いには自信がないの。前に比べて鈍感なのよ。焚いてみれば、さすがに分かると思うけど……」
勝手に焚くのはねぇ、と袋に仕舞う。
「その練香、誰かにあげた覚えはない?」
牡丹は困ったように眉を下げて、苦笑いした。
「春先の話よ? 女房たちにせがまれて沢山お裾分けしたけど、いちいち覚えていないわ」
牡丹は「どちらにしろ、この巾着は自分のものではないわね」と、巾着袋の蓋を閉めて、土筆に返した。
土筆が部屋に戻ると、すぐにタマが話を聞きたそうに寄ってきた。
「牡丹さまのご様子は、いかがでしたか?」
「お姉さまは、大丈夫そうよ」
それだけ答えたきり、土筆は黙った。
頭の中に、今まで見聞きしたことがグルグルと回る。
再び牡丹の部屋を訪れたことで、あの違和感が強くなった。
これは何だろう。
たった今、後にした藤壺と、牡丹と、女房たちを些細に思い浮かべる。
そして、時峰が聞き出してくれたこと。ちい姫に聞いたこと。練香の入った巾着袋。
登華殿の中をぐるりと見回した、その時。
「………あ」
土筆は立ち上がって部屋を出た。タマが慌ててついていく。
「どうかされましたか?」
追いかけてくるタマを無視して、土筆は登華殿と弘徽殿を繋ぐ渡殿に出た。
そして、右と左を交互に並べる。
「姫さま……」
部屋を空にできないタマは、登華殿の簀子で立ち止まっていた。
土筆は再び、登華殿に戻るとタマに頼んだ。
「ねぇ、タマ。昨日、淡路から聞いてきた話と、それから今朝の事件に関す話。もう一度、頭から全部教えてくれない?」
同じ話を、時に確認を挟みながら聞き終えた土筆の頭に、一つの閃きが形を作る。
「……あぁ、そうか」
分かったかもしれない。
尚侍の気持ちも、意図も。そして、ずっと抱えていた、あの気持ちの悪い違和感の正体も。
土筆は、すぐに筆を取った。
「手紙を書きます。急いで届けてちょうだい」
「手紙? どなたに?」
「藤原時峰さまです。確認したいことと、お願いしたいことがあるの。それから……書き終えたら、噂を流しましょう」
次々と指示を出す土筆に、タマが「え? え?」と慌てている。
「噂、ですか?」
「えぇ、そうよ。飛び切りの噂を流しましょう。お姉様の侍女の淡路を通じて、ね」
その日、時峰に届けられた手紙は、彼を酷く狼狽させたという。
土筆が床から出るのと同時に、真っ青な顔をしたタマが部屋に飛び込んできた。どうやら、どこかに出歩いていたらしい。
何かあったのかと、こちらから尋ねるより先に、タマが震える声で告げた。
「昨晩、ふ、不審者が……牡丹さまに……」
「不審者?! 姉さまに何かあったの?」
不審者が身重の牡丹のところにーーー最悪の事態化が頭をよぎる。
「姉さまは無事なの? まさか、お怪我でも……」
タマに駆け寄り、両袖を掴んで揺する。タマがガクンガクンと前後に揺れながら答えた。
「だ、大丈夫です。不審者が牡丹さまの部屋から出て行ったようですが、牡丹さまは、なんともありませんでしたから」
「そう。無事……なのね」
一先ずホッとした土筆は、タマの袖を掴んだ手を離した。
「でも、どうして不審者が姉さまの部屋から?」
「そこが問題なのです」
タマは、土筆に引っ張られたせいで緩んだ着物の襟を直しながら、錯綜する情報をもとに教えてくれた。
タマが聞いてきたところによると、話はこうだ。
昨晩、寝付けずに夜風を浴びようと部屋の外に出たとある女房が、偶然、不審な男を見つけた。男は藤壺の直ぐ側を彷徨い歩いている。しかも、どうやら藤壺の簀子から飛び降りたようにみえた。
女房が慌てて大声をあげると、直ぐに警固の者が数人、駆けつけた。
侵入者は警固の男たちと激しく刀を交え、その結果、腹を切られて息絶えたという。
「息絶えた? 亡くなったの?」
「えぇ、そのようです。私たちが起きたときには、すでに、その……跡形はありませんでしたが」
女たちが起き出す前に、遺体が片付けられたということだろう。
「そんな騒ぎが夜中にあっただなんて、全然気が付かなかったわ。女房の悲鳴も聞こえなかったし」
藤壺が見える位置で大声を上げたというが、土筆のいる登華殿には聞こえなかった。女房は、どの辺りで見ていたのだろうか。
すると、タマが少し困ったような顔をした。
「実際は、悲鳴をあげたわけではないようです」
意味が分からず、土筆が首を傾げると、タマが物分りの悪い教え子に噛み砕いて教えるように説明してくれた。
「その女房のところには、男が忍んできていたのですよ。不審者を見つけた女房は、一緒にいた男に伝えたんです。それで、その男がすぐに不審者を追った。だから実際には、女房は叫んでなんていないんですよ」
しかし、それでは外聞が悪い。だから、見かけて叫んだことにした。そんなことは、皆、薄々気づいているけど、野暮だから指摘しない。
「土筆さま。世の中には、『そういうことにしておいた方が都合が良いこと』というものが、存在するのです」
「……なるほど」
今まで、花房邸の奥に引き籠もっていて、友人の少ない土筆には、こっち方面の機微は圧倒的に足りていない。内裏はある意味、学ぶところが多い。
「まぁ、でも姉さまに怪我がないのなら、良かったわ」
「怪我はないのですが、妙な噂がたってしまって……」
「噂? 噂って?」
「その男が実は、牡丹さまに会いに来たのではないか、と……」
「えっ?!姉さまに?」
土筆は、すぐに「そんなわけないじゃない」と否定した。
牡丹は今、最も御上の寵愛を受けている女御。しかも子まで身籠っている。にも関わらず、この後宮に男を呼ぶだなんて。
「姉さまは、そんなに愚かじゃないわよ」
「それは、私もよく存じております」
長年、花房に仕えてきたタマも、すぐに土筆に同意した。
「ただ女房の目には、その不審者というのが、藤壺の簀子から飛び降りる直前、誰かと親しげに話していたようにみえたそうで。少なくとも、無理やり押し入ったような雰囲気ではなかった……と」
「誰かって…相手は?」
「それは、暗くて見えなかったそうです」
なんだ。まったくもって根拠のない、勝手な噂ではないか。
「では、その男は姉さまの部屋の女房に会いに来たということでしょう? 姉さまではありません」
「普通に考えればそうなのでしょうけど、藤壺の女房に尋ねたところ、全員、殺された男に心当たりがないようで」
そりゃあ、この状況で「相手は自分です」とは名乗り出づらいだろう。
ましてや、その男は死んでいるのだ。どう考えたって、厄介事だ。
「それなら、牡丹姉さまだって心当たりはないでしょう?」
それはその通りですが、と同調するタマの言葉は、歯切れが悪い。
「なにせ牡丹さまは、入内されたら即、御上に気に入られ、それこそ目に入れても痛くないほどの寵愛ぶりでしたから、陰ながらやっかむ者も多いのです」
「やっかむ? 牡丹姉さまを?」
長年、姉妹として側で比べられてきた土筆だが、その気持ちはよく分からなかった。
華やかで皆の目を惹く、あの圧倒的な存在感。優美な所作に、洗練された会話。
一目見れば、並の人間では張り合えないと気づくはずだ。
土筆からすると、牡丹をやっかむなど、身の程知らずのすることだと思えた。
「昨夜の事件、調べは進んでいるのかしら?」
「それは、何とも……」
タマが困り顔で首を横に振る。多分、その情報はタマでは掴めないだろう。
「時峰さまに聞けば、何か分かるかしら……?」
時峰は、近衛中将だ。直接、調べに関わっていなくとも、手を尽くせば正確な情報を手に入れることができるかもしれない。
「いいわ。ちょっと行ってきます」
土筆は立ち上がった。
「行くって……どこに? まさか中将のところに行く気じゃあ」
「姉さまのところよ」
土筆は急ぎ着替えると、タマに留守を頼んで、藤壺に向かった。
◇ ◇ ◇
ひょっとして藤壺は、梅雨空のように暗く沈んでいるのではないかと心配したが、それは杞憂だったようだ。
「あら、いらっしゃい」
小さな鞠のように膨らんだお腹を擦りながら、牡丹が微笑んだ。
「姉さま! 大丈夫なの?」
「大丈夫って………何が?」
牡丹が微笑んで、首を傾げる。
その後ろでは、藤壺の女房たちがのんびりと牡丹の着物を綺麗に畳みなおしたり、片付けたりしている。
拍子抜けするほど、いつもと変わらない。
「変な男が藤壺に忍んできたって……」
「大丈夫よ。私は何ともないわ」
「でも……変な噂が立っているって……」
牡丹は、いつもの揺るぎない華やかさを放ちながら笑った。
「気にしていないわ。どうせ、私のことをアレコレ言いたいだけでしょう」
「でも……」
「私は、昨晩は清涼殿に行っていたの。だから誰が来たって、会いようがないのよ」
清涼殿というと、御上の寝所だ。
それなら確かに、藤壺に不審な男が忍んできたって、関係ない。清涼殿なら、証言する女房も数多いるはず。噂もすぐに沈下するだろう。
「それにしても……それなら、なんでそんな噂が流れたのかしら?」
「別に気にすることないわ。狭い世界だから、真偽不確かな噂が駆け巡るなんて、よくあることだもの。噂はあくまで、噂。そのうち消えるわよ」
牡丹は、本当になんとも思っていないらしい。流石に、肝が据わっている。
こういうところが、彼女の魅力が単に浮ついたものに留まらせず、人を圧倒させるような説得力をもたせるのだろう。
末姫の菫と違って、土筆があれこれ気を揉んで案じる必要はなさそうだ。
安心したら、土筆はふいに、預かりものをしていたことを思い出した。
「あぁ、そうだわ。これ、姉さまに」
弘徽殿のちい姫から受け取った巾着袋を懐から出す。
「……これ、なぁに?」
「牡丹の落としたものではないかしら? 弘徽殿のちい姫が拾ったそうよ」
土筆から巾着袋を受け取った牡丹は、すぐに首を横に振った。
「知らないわね。見覚えもないわ。私のものではないわよ」
「中身は練香なのよ。弘徽殿のちい姫は、袋からも、姉さまの使う香と同じ匂いがすると言っていたのだけれど」
牡丹は袋を鼻に近づけて、スーッと息を吸い込んだが、すぐに離した。
「そうかしら? よく分からないわね」
中を開けて練香も検めたが、「自分で調合したものかは分からない」という。
「以前、調合したものと似ている気もするけど…だとしても、随分前に作ったものよ。子ができてからは匂いが気持ち悪くて、調合などする気にならなかったもの」
「へぇ。そういうものなのね」
「ごめんなさいね。今も匂いには自信がないの。前に比べて鈍感なのよ。焚いてみれば、さすがに分かると思うけど……」
勝手に焚くのはねぇ、と袋に仕舞う。
「その練香、誰かにあげた覚えはない?」
牡丹は困ったように眉を下げて、苦笑いした。
「春先の話よ? 女房たちにせがまれて沢山お裾分けしたけど、いちいち覚えていないわ」
牡丹は「どちらにしろ、この巾着は自分のものではないわね」と、巾着袋の蓋を閉めて、土筆に返した。
土筆が部屋に戻ると、すぐにタマが話を聞きたそうに寄ってきた。
「牡丹さまのご様子は、いかがでしたか?」
「お姉さまは、大丈夫そうよ」
それだけ答えたきり、土筆は黙った。
頭の中に、今まで見聞きしたことがグルグルと回る。
再び牡丹の部屋を訪れたことで、あの違和感が強くなった。
これは何だろう。
たった今、後にした藤壺と、牡丹と、女房たちを些細に思い浮かべる。
そして、時峰が聞き出してくれたこと。ちい姫に聞いたこと。練香の入った巾着袋。
登華殿の中をぐるりと見回した、その時。
「………あ」
土筆は立ち上がって部屋を出た。タマが慌ててついていく。
「どうかされましたか?」
追いかけてくるタマを無視して、土筆は登華殿と弘徽殿を繋ぐ渡殿に出た。
そして、右と左を交互に並べる。
「姫さま……」
部屋を空にできないタマは、登華殿の簀子で立ち止まっていた。
土筆は再び、登華殿に戻るとタマに頼んだ。
「ねぇ、タマ。昨日、淡路から聞いてきた話と、それから今朝の事件に関す話。もう一度、頭から全部教えてくれない?」
同じ話を、時に確認を挟みながら聞き終えた土筆の頭に、一つの閃きが形を作る。
「……あぁ、そうか」
分かったかもしれない。
尚侍の気持ちも、意図も。そして、ずっと抱えていた、あの気持ちの悪い違和感の正体も。
土筆は、すぐに筆を取った。
「手紙を書きます。急いで届けてちょうだい」
「手紙? どなたに?」
「藤原時峰さまです。確認したいことと、お願いしたいことがあるの。それから……書き終えたら、噂を流しましょう」
次々と指示を出す土筆に、タマが「え? え?」と慌てている。
「噂、ですか?」
「えぇ、そうよ。飛び切りの噂を流しましょう。お姉様の侍女の淡路を通じて、ね」
その日、時峰に届けられた手紙は、彼を酷く狼狽させたという。
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