予想屋死神

千三十四六

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死神の教え

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川西貴美子――26歳。関西圏の中堅企業に勤める、ごく普通のOLだ。
服装も言動も落ち着いており、学生時代のあだ名は「地味ちゃん」。特別美人というわけではないが、整った顔立ちで、笑うとえくぼが浮かぶ。口数は少なく、人前で主張することも少ない。いわゆる「控えめなタイプ」である。

ある金曜の昼休み、社内の休憩スペースで同僚の女子から声をかけられた。

「ねえ川西さん、競馬ってやったことある?」
「えっ、競馬……?」
「うん。っていってもネットでちょっと馬券買うだけやけど。今度の阪神、うちの父がめっちゃ推してる馬が出るらしくてさ。お試しで一緒にやってみいひん?」

話のネタになるならと、貴美子はスマホで投票サイトを登録し、1000円だけ賭けてみることにした。
それが、彼女の“沼”の入り口だった。

馬の名前は覚えていない。だが――10倍の配当が当たった。

買ったのは単勝1点だけ。1000円が、1万円になった。
その瞬間、貴美子の中で何かが弾けた。

「……なんか、面白いかも」

数字が動く。騎手や血統、オッズ、展開予想――シンプルで、でも奥が深い。何より、「当たると快感」という感覚が初めて理解できた。
あまり表には出さなかったが、貴美子の内心には徐々に高揚が積もっていった。

だが、競馬の神はそう簡単に微笑み続けない。

・100円だけ買った三連複が、高配当で的中
・これは行けると思って全力勝負したレースは、惨敗
・惨敗の影響が大きく、トータルの収支はじわじわとマイナスへ

「……なんで、こうなるんだろ」

スマホの画面に表示された赤字の数字。消えていく貯金。
貴美子は焦り始めた。

なんとかしようと、貴美子は有料・無料を問わず、ネットの予想サイトを漁り始めた。
YouTube、note、X(旧Twitter)。評価の高い予想家の発言をメモし、指数や血統理論にも手を伸ばした。

だが――どれも決め手に欠けた。

「なんか……全部、“それっぽいだけ”な気がする」

信じれば裏切られ、疑えば当たる。結局、当てた人が偉い世界なのに、誰も責任は取らない。
そんな不信感が募っていった。

貴美子はついに一歩踏み出す。「本物」の勝負師に会って話を聞こう、と。

競馬界隈では名前の知れた男だった。Xではフォロワー3万人。noteの月額購読者も1000人を超えていた。
「会いたい」とDMを送ると、意外にもすんなりOKが出た。

――大阪駅近くの喫茶店。土曜の午後。

男は年上で、気さくな雰囲気だった。競馬の話も面白かった。だが、貴美子はふとした会話で気づいてしまう。

「……あの、トータルの収支って……?」
「え? ああ、実は今年はちょっと負けててなぁ。でもな、大事なんは“どれだけ勝ち方を知ってるか”やで?」

それだけならまだよかった。だが、そのあと男は「授業料がわり」と称して交際を匂わせてきた。

「せやから、貴美子ちゃんみたいな真面目な子やったら、いろいろ教えてあげたいと思うんやけどな? まあ、付き合ってくれたら一番ええけど」

――その瞬間、全身に寒気が走った。

「すみません……急用思い出して……」

そう言って逃げ出した喫茶店の空気は、蒸し暑くて息苦しかった。

この出来事は、貴美子にとってトラウマになった。

数週間後。職場の同僚たちとの女子会。

場所は駅前の居酒屋。焼き鳥とハイボールで盛り上がるなか、誰かがふと口にした。

「なあ、死神って知ってる?」
「え、何それ? こわっ!」
「ちゃうちゃう、競馬のやつ。黒シャツ着て、負ける馬を1頭だけ予想するっていう、謎の男」
「マジで!? 超クール系の予想家とか!? 想像するとイケメンじゃね?」
「声かけたら“……それは死ぬ馬だ”とか言いそう~!」
「それヤバいって~!!」

酒の入った席。話題は、妄想まじりの「死神トーク」で盛り上がった。

貴美子は、その名前に聞き覚えがあった。
ネットの競馬板、まとめ記事、SNSの断片――たしかにその“死神”という人物は存在していた。

負ける馬を予想する。
その予想は、必ず当たる――。

その存在に、不気味さと共に妙な吸引力があった。

ネットには、異性との交際歴などまったく出てこない。
メディア露出もなく、写真もない。
情報がなさすぎて、逆に想像を掻き立てられる。

(男としても、なんか異質……)

(本当に存在するのかな……)

もし存在するなら――

(……一度、会ってみたい)

貴美子の中で、死神への興味が静かに膨らみ始めていた。

翌週末。
貴美子は一人で京都競馬場にいた。はじめてではない。何度か通ってはいたが、今日は少し違う気持ちだった。

この日、貴美子は一日を通して、軽く流す気持ちで馬券を買っていた。100円単位。
大きく張る気にはなれなかった。前回の失敗も、あの「偽物の予想家」の記憶も、まだどこか胸に引っかかっていた。

そして、すでに4レース連続でハズレていた。

(……もう次のレースも外れたら帰ろうかな)

そろそろ気力も尽きかけていたその時、貴美子は次レースのオッズに惹かれた。

そのレース、オッズを見る限り1~3番人気で決まりそうな構成だった。
中でも1番人気の馬は飛び抜けた支持を集めており、単勝オッズは1.1倍。

しかし――貴美子が目を止めたのは、3番人気のラストライド。

(複勝でこのオッズ……おかしくない?)

人気馬3頭で決まる可能性が高いのに、ラストライドの複勝オッズがやや高めだった。

(……これ、複勝で張れば、十分取り返せる)

ラストライドは前回好走しているし、騎手も悪くない。しかも3着以内に入ればいい――勝たなくてもいいのだ。

(行ける……!)

貴美子は久しぶりに勝負を決意した。

マークシートを記入し、あとは券売機に通して3万円を賭けるだけ。

その時だった。

――視線の先に、黒シャツの男がいた。

黒いシャツ。無表情。そして、妙に静かな立ち姿。

軽薄さは感じられない。
だが紳士的というのも違うような気がした。
何か――「人を拒むような影」を纏っているようにも見える。

貴美子に、「あれが死神だ」という直感が走った。

(あの人の予想がラストライドじゃなかったら、私の予想はより確かになる)

逆に、もしラストライドだったら――?

その答えを確かめたくて、貴美子は死神のもとへ足を踏み出した。

「あの…噂で聞いたのですけど……死神さんですか……?」
「……死神と呼ばれています」

低く静かな声だった。感情がこもっていない。まるで音声案内の機械のようだ。

「予想を買いたいのですが……いくらでしょうか……?」
「お気持ちで構いません」

貴美子は、戸惑った。金額も、渡し方も、マナーもわからない。
しばしの沈黙のあと、千円札を一枚差し出した。

死神は無言でそれを受け取ると、1枚の紙を手渡した。

それは競馬新聞を切り抜いたようなもので、馬名が印字されていた。

――ラストライド。

一瞬、時間が止まったように思えた。

(……ラストライド!?)

まさか。まさか。私が予想した馬が、死神の“負け馬”!?
それとも、この男は偽物なのか。噂に乗っただけの、また別の“軽薄な男”なのか。
でも――もし、もしも本物だったら。
それなら、今からでも別の馬に買い直すべきだ。
でも、その「代わりの馬」が思い浮かばない。

冷静さは、すでに失われていた。

混乱する頭の中で、投票締切のアナウンスが流れた。

……間に合わなかった。

貴美子は、マークシートと3万円を握りしめたまま、レースを見始めた。

レースが始まった。貴美子の心臓は異様に早く鼓動していた。

(死神の予想が当たったら、私は3万円を守れたことになる)
(でも、もし外れたら――私は大当たりを逃したことになる)

――ラストライドは、スタート直後こそ中団につけていた。
だが、最終コーナーでは反応が鈍く、ズルズルと後退。

結果――6着。

3着以内には入らなかった。

(……当たってたんだ)

貴美子は、自分の手の中にあった3万円をじっと見つめた。
死神がいなければ、きっと賭けていた。失っていた。
その3万円を、彼女はそのまま死神に差し出した。

「これ……お礼です」

死神は小さく一礼した。

「恐れ入ります」

それだけ言うと、彼は静かに背を向けた。
その背中は、もう「用は済んだ」と言わんばかりだった。

貴美子は手の中に残っていたマークシートを見つめていた。

(のめり込み過ぎるな――そう、言いたかったのかもしれない)

死神の予想も態度も、まるで彼女を諭しているように思えた。
「競馬は楽しむもの。のめり込み過ぎるな」と教えてくれたような。

確かめたい。
もう一度、話したい。
そして、お礼をちゃんと言いたい。

そう思って、死神のいた方を見た――

……そこには、もう誰もいなかった。

まるで煙のように、その男の影は消えていた。


春の日差しが穏やかな午後。
京都競馬場に、貴美子は職場の女子たちと来場していた。

「貴美子ちゃん、なんか買い方変わったよね~」
「昔はもっとガッって行ってたじゃん?」
「今なんか、100円とかでめっちゃ冷静やし!」

「……うん、まあ。教わったから、かな」

そう照れたように笑った貴美子に、同僚たちは一斉に詰め寄った。

「え? 教わった!? 誰に!?」
「さては彼氏やな~!!」
「いや、競馬場で出会って意気投合パターンちゃう!?」

「ちょ、ちょっと、内緒だよ!」

顔を赤くしながら笑う貴美子の姿に、同僚たちはますます盛り上がった。

(あの人が、何者だったのか、今もわからない)

でも、今なら言える。「あの時、あの出会いがあってよかった」と。

貴美子の心には、あの黒シャツの背中が、静かに今も残っていた。
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