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Chapter2

04 常識と非常識

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 タブレットのようなものが、再び空中に浮かび上がる。二、三回、羽ばたくような仕草をしたけれど、鳥の動きとは明らかに違う。空中に停止して、一定間隔で羽を動かす。羽は飾りのようなものらしい。

 もう一度、スパナで羽先をつついてみる。ばさばさと羽を動かすだけで、私に襲い掛かってくる気配はない。

 私はゆっくりと一歩下がった。私が下がった分だけ、タブレットが近づいてくる。思い切って背を向けてみる。タブレットは私の右側前方に回りこんで、ちょうど私の胸ぐらいの高さで動きを止めた。
 まるで「さあ、私を操作なさい」とでも言いたげな位置。私が店内を移動すると、タブレットも手の届く距離を保ってついてくる。

 私は空を飛ぶタブレットを引き連れて、フロアからバックヤードに移動した。
 通用口の扉に耳を当てる。物音はしない。私が扉を開けて外に出ると、タブレットも外に出た。私はタブレットを外に残したまま、中に戻って扉を閉めた。

 さっきまで座っていた客席に戻る。二十三秒数えた所で、お店の入り口から羽音が聞こえてきた。バン、バンと何度かガラスにぶつかって、再び店内にタブレットが入り込んでくる。
 タブレットは私のいる席まで一目散に飛んできて、締め出しに抗議するように私の目の前をぐるぐると飛び回った。

 ――私を追尾する、翼の生えたタブレット。

「はあ……」

 私は深々と溜息をついてテーブルに突っ伏した。

 記憶もない、情報もない、命の保証もない。そんな中で唯一、行動の指針にできそうなのが「常識」だったのに。こんな常識と非常識のどちらに分類していいのかわからないモノが出てきてしまった以上、私の感覚も当てにできない。

 考え方を一から改めないと。常識が通用しないなら、何を判断基準にしたらいい?

 タブレットはテーブルの上に着地して、私の頭のすぐ近くでわさわさと羽を動かしている。危険ではなさそうだけれど、正体がわからない以上、ガムテープでぐるぐる巻きにして倉庫に閉じ込めておいた方がいいのだろうか。

 もしくは。私についてくるのだから、これは私のタブレットなのかも。
 顔を上げて、改めてタブレットを見てみる。液晶画面には、女性キャラクターが微笑んでいるイラストが使われたアイコンが一つだけ表示されている。その下に書いてある文字は。

「……トリファン」

 ゲームアプリ、なのかな。
 他のアプリは入ってないのだろうか。警察か消防に連絡を取る手段があるといいのだけれど。もし持ち主が私なのだとしたら、私についての情報も入っているかもしれない。

 思い切ってタブレットに触れて、画面をスワイプしてみる。左右上下、画面は切り替わらない。二本指、三本指でも試す。強く押し込む、ピンチする、などの動きにも反応しない。

 思わず腕組みしてしまう。これがタブレットだとして、アプリを一つだけインストールする意味って?
 この「トリファン」はゲームではなく、もっと重要な何かなのだろうか。

 これをタップしてみれば、何かわかるかもしれない。

「おぉぉ――……えぇ――……」

 悲鳴が聞こえて、アイコンをタップする寸前で手を引っ込める。
 今の声は、外から。多分、私が目覚めた時に聞いた悲鳴と同じ声。
 きっとまた怪物に襲われている。私がどの程度力になれるか分からないけれど、助けなければ。

 店から飛び出そうとして、ふと手に握り締めたスパナに目を落とす。タブレットを壊せなかった。これでは戦力にならない。私はスパナをテーブルに置いて、厨房に置いてあった消火器を掴んだ。

 重たい消火器を抱えて、正面入り口の脇にしゃがみ込む。近くに怪物の気配はなさそうだ。
 姿勢を低くしたまま外に出て、植栽の陰に移動して隠れる。タブレットも私についてきてしまうけれど、害はないから今のところ放っておくことにする。

 さっきの悲鳴はどっちから聞こえた? なんとなくだけれど、上の方から響いてきたような感じだった。高いビルの屋上付近に目をやると、何かが空を飛んでいた。

 一瞬、遊園地の遊具かと思ったけれど、違う。
 光を放つ、白い一角獣。蹄で空気を打ち、力強く空を駆けていく。その姿は、切迫した状況を忘れてしまうぐらい、幻想的だった。

 つい見とれてしまったけれど、白い一角獣に誰かが乗っているのに気付いて我に返る。
 二人いる。遠いからはっきりと見えないけど、髪の長い、角の生えた、騎士のような格好をした人と……黒髪の少年。あれが、あの少年が悲鳴の主なのだろうか。角は生えていないように見える。それに、あの服装は、学生服。きっと私と同じ立場の、普通の人間だ。

 彼は、襲われている? 攫われている? 違う、あの表情は――笑っている。

 きっとあの人たちは危険な怪物じゃない。ただの希望的観測で、根拠のない直感だけれど。賭けてみるべきだ。

 私は開けた場所に駆け出して、空に向かって手を伸ばした。

「――――……っ!」

 助けて。

 そう叫ぼうとしたのに、声が出ない。
 何故――――なんでもいい、パニックになっている場合じゃない。焦りを押し殺して、消火器のピンを抜く。煙を出せば気付いてもらえるかもしれない。
 そう思うのに、私は動けなかった。

 喉の奥に氷を詰め込まれたような気持ちで、呆然と空を見上げる。
 やがて二人を乗せた白い一角獣の姿は建物の陰に隠れ、見えなくなってしまった。

「……あ、あ、あー……」

 空気を打つ蹄の音が完全に聞こえなくなってから、私は恐るおそる声を出してみた。声は、普通に出た。発声に問題はない。それなのに、どうして。どうして声が出なかった? どうして動けなかった?

 ただ「助けて」と叫ぶだけのことが、どうしてできなかった?

 新たな問題に直面してうろたえていたら、タブレットから派手な音楽が鳴り響いた。
 タブレットは焦るみたいに私の周りを飛び回り、羽をばさばさと動かしている。
 これは、なんだろう。メールの通知音にしては派手な音だけど。

「ぴう」

 タブレットに気をとられていたら、足元から音がして、私は咄嗟に飛びのいた。
 そこにいたのは、白い、枕のような形状の生き物だった。
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