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プロローグ
しおりを挟む風が、声を失っていた。
夕暮れ、タイムズ・ゼロの外縁にある記録院の廃墟で、少女はたったひとり、瓦礫の影に座っていた。
ユノ・リュエル――言葉を記憶する少女。
彼女の指は、一片の黒焦げた羊皮紙をなぞっている。文字は消え、書かれていた内容はもう、誰にも読めない。
だが、ユノにはそこにあった“言葉”が見えていた。
「……記録者は、“声なき死”を恐れよ」
それが、母の遺した最後の言葉だった。
死に際のそのささやきを、ユノはまだ胸の奥に“燃える種”のように抱えていた。
記録院の大火——
あの火は、空すらも焼いた。
黒き炎は言葉を喰らい、書の塔を崩し、歌う者の舌を奪った。
それはただの戦争ではない。
“記録という存在そのもの”を消し去ろうとした意志だった。
タイムズ・ゼロを襲った〈記録戦争〉──
それは、「歴史は罪である」と唱える者たちによって引き起こされた、記録者たちとそうでない者たちの間との戦争だった。
彼らは“忘却派(リライナント)”と呼ばれた。
人は「死を記すから、死を恐れる」。
ならば、すべてを忘れれば苦しまずに済む。
そう信じる者たちは、記録院を“時間の檻”と断じ、破壊した。
その戦火の中、少女だけが生き延びた。
ユノ・リュエル。
まだ十一歳だった彼女は、母とともに“最終記録の間”にいた。
炎に包まれた最奥の書室で、彼女は母の“声”を記憶した。
「ユノ。いい? “記録”とは、“死を消さないための祈り”よ。忘れないこと、それは、戦いと同じ」
母の身体は崩れたが、言葉は残った。
ユノの中にだけ。
そして今――再び、風が吹く。
「ユノ。お前の記録は、呪いかもしれない」
朽ちた廊下の奥から、老いた声が響く。
それは、“死を記す者”の予言を語る、封印された詩僧の言葉だった。
「だが、——記録とは、誰かが“忘れてしまう未来”のためにある。お前の目が真実を捉える限り、死者は眠れぬ。ならば歩め。眠れぬ者のために、記せ」
ユノは、かつて母が使っていた古詠筆を取り出す。
それはもう言葉を書くためのものではない。
「死」を“聴く”ための、触媒。
彼女の最初の旅は、“ひとつの死”から始まる。
タイムズ・ゼロの外、風の大地《ヴェントゥス》へと届いた一冊の無記録書。
中には、“死者の名”とともに、何も書かれていなかった。
だが、ページの隙間からは、風のような声が微かに囁いていた。
「私は、ここにいると。誰か、覚えているかと」
—
ユノの旅路とは、「記されなかった死」の声に耳を傾けること。
それは死者を慰める行為ではない。
忘れ去られたものたちが、二度目の死を迎えぬように――その魂の残響を、未来へ残すための旅。
その筆が記すのは、名もなき兵士の最後の息遣い、夢半ばで倒れた少女の幻影、
そして、かつて自らの母が「書き残せなかった最後の記録」そのものへと、続いていく物語である。
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