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あの夏

第242話

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 「投げてどうすんねん」

 「え?…いや、せやから」


 …どうするか、って?

 別にどうもしないよ。

 千冬もよく言うだろ?

 “グラウンドに寄って帰るで“って。

 毎度お前に付き合わされて、ユニフォームは泥だらけだった。

 あれとおんなじだ。

 だから——


 「俺の好きな人、教えたるから」


 彼女の返事を待つ前に、手を掴んだ。

 一緒に遊歩道の階段を降りる。

 苔の生えたコンクリート。

 乾いた音。

 
 大したことじゃないんだ。

 本当に。

 糸を引くようなストレート。
 
 ただ、それを見たい。

 そう思った。

 お前にとっちゃなんでもないものでも、俺にとっては違う。

 初めて千冬の球を見た時、どうやったらそんなに速く投げれるのか、不思議でしょうがなかった。

 俺もあんな風に投げてみたい。

 そう思ったんだ。

 野球のルールすら、まだ知らなかったのに。


 砂浜の近くの広間まで降りて、無理矢理グローブを借りた。

 すごい睨まれてる。

 …というか、怒ってる?

 渋々貸してくれたのはいいが、お前が投げてくれなきゃ始まらないんだよ。

 俺の方は準備オーケーだ。

 いつでも来いって感じ。

 自転車で街中走り回ったから、体がだるい。

 2人乗りなんてするもんじゃねーな

 最近つくづく思うよ。

 とくに、この1週間は。


 「ほんとに怖いんやけど」

 「…怖い?」

 「あんたのことや」

 「ああ、はいはい」

 「気づいとる?相当変やであんた」

 「…わかってるって」


 そりゃあ怖くもなるだろう。

 でもそれはこっちも同じだ。

 “怖く”はない。

 別に。

 むしろ、目を疑ってる。

 昨日から、ずっと。


 それにしても、“ライバル”…か。

 一ノ瀬さんは言ってた。

 俺が、いっつも野球のことばっかり考えてるって。

 俺にはわからない。

 千冬に負けたくない。

 そんな感情が、どっから湧いてきたのか。

 俺はずっと千冬みたいになりたかった。

 千冬みたいなピッチャーになりたかった。

 水平線と、——雲。

 全てを融かしたような青の先に、確かに感じた「夢」があった。

 それがなんなのかを、未だに掴めずにいる。

 甲子園なのか。

 160キロなのか。

 それとも、千冬の投げる姿そのものなのか。

 でも多分、そのどれも違うんだろうとも思う。

 うまくは言えない。

 考えようとすれば、するほど。


 子供の頃に感じたんだ。

 空に浮かんだ雲の行方を気にして、どこまで世界が続いているのかを、砂浜に寝転びながら考えてた。

 屈託のない表情。

 無邪気な仕草。

 彼女はいつも、先のことなんて考えてなかった。

 そりゃもちろん、どでかい「夢」を持ってたけれど。


 これから世界がどうなっていくのかを、気にも留めてなかった。

 どんなふうになりたいかとか、どんな未来を作っていくかとか、そんなのは二の次でさ?

 千冬のことをなんでかっこいいと思えたのか、正直よくわからないんだ。

 無茶ばっかり言うし、外は嫌いだって言ってんのに、インターホンは鳴らしまくるし。

 よくよく考えたら、すげー迷惑な話だ。

 不登校でヒヨってる俺を、強制連行していったんだから。


 ありゃ間違いなく「連行」だった。

 だって許可してねーもん。

 俺の返事なんか待たずに、すごい勢いで手を引っ張ってきた。

 抵抗もできなかった。

 気がついたら、街の丘を下ってた。
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