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あの夏

第243話

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 お前の口癖だったよな?


 「海に行くで!」


 無駄にテンションが高くて、天気予報なんて見もしないで。


 クソ暑いのに海?

 海になにがあるんだよ…

 心の中ではそう思ってた。

 まじでめんどくさかったから。


 あの頃、何かを見つけたいと思うことはなかった。

 外に何かがあるとは思えなかったし、おまけに、傘はぶっ壊れるしで。


 なんなんだろうな?

 ほんとに。

 あんだけ嫌がってたのに、いつのまにかインターホンが鳴るのを待ってた。

 朝起きると何かが始まる予感がして、窓を開けてた。

 背伸びしながら。


 やかましい目覚ましの音。

 むさ苦しいほどの蝉の声。


 
 「1球だけやで?」


 一体何年ぶりだろうか?

 こうしてグローブをはめ、18m先の距離にいる彼女の姿を、目の当たりにするのは。

 いつも感じてた。

 ロジンバックの粉がついた指が帽子のツバに触れ、白い煙が、マウンドの上に立つ。

 何かが始まるような予感と、プレイボールの合図。

 ずっとドキドキしてた。

 目を離す暇もなくて、しきりに加速する心臓の音が、耳鳴りのように響いてた。


 そうだ。

 この感じ。


 投げる前の一呼吸。

 狙い澄ましたような鋭い瞳。

 時間が止まるようなゆったりとした構えから、ワインドアップのモーション。

 記憶の奥底から蘇ってくる彼女の姿を、思うように見つめることができなかった。

 視点がグラついた。

 目の前で起こってることが、あまりに懐かしかったから。



 ザッ………!



 スカートの下の短パンが見えるくらいに大きく上げた左足が、地面の中心へとダイブする。

 垂れたシューズの紐が風の抵抗に揺れ、加速する一瞬。

 踵にはもう体重は乗っていない。

 地面を掴んだ右足が、コンマ1の内側へと突入しようとして、動く。

 つま先の内側へと潜り込むように膝が傾き始めた。

 人差し指にかかったボールが、体の反対側へと捻れていく。


 ボールは今、いちばん遠いところにある。

 体重を乗せた1秒にも満たない距離。

 それと、——接点。

 スライドしていく左足のステップが、地面のいちばん低いところを飛行していく。

 ダイブするその矢尻の先端から、軸足は、遠ざかるように後ろへ。


 体の中心は地面の懐を捉えたままだった。

 動き始めたモーションの中間で、時間は波打つように交錯していた。

 沈んでいく重心が、重力の先端へ加速しきる最小単位への臨界線を、——残したまま。
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