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トンネルの向こう

第332話

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 「何を見ても、驚くんやないで?」

 「…お、おう」


 部屋の隅にあるパソコンを起動し、かちゃかちゃとキーボードを動かしていた。

 そういえば、おじさんがここの管理者なんだっけ?

 女が言うには、おじさんが国と提携を組んで、国際的な支援を元手に、この施設を立ち上げたとかなんとか。

 だとすればすごくないか?

 こんなバカでかい施設を、国家予算の中で組み上げた…って


 「税金の無駄遣いやな」

 「日本のお金だけちゃうけどな?」

 「支援があったってこと?」

 「この施設自体は国際的な機関のためのものや。せやから、“日本が建てた“っていうのはちょっと違う」

 「へえ」

 「おじさんはすごい人なんやで?あんたが思っとるよりもずっと」


 ニュースで取り上げられる人だっていうくらいは知ってる。

 近々、ノーベル賞も受賞するんじゃないかって噂だ。

 千冬はあんま興味なかったけどな。

 科学とか、物理とか、諸々。


 「あった!」


 女が見つけたのは、PDF形式で保存された文書だった。

 そこで何が見つかるかなんて、あまり興味がなかった。

 期待してなかったって言った方が正しい。

 どんな資料があるのか知らないが、どうせ理解できないようなことばっかなんだろ?

 そんなことより、昨日の話の続きの方が興味があった。

 一刻も早く、あっちの世界にだな。



 文書には日付が記載されていた。

 所々、文字化けが起こって見えない箇所があった。

 誰かの名前みたいだった。

 


『2008-02-28 21:22:07




 
 物理系の情報量、あるいは系を完全に記述するのに必要な情報量は、空間の大きさやエネルギーが有限であれば、有限でなければいけないことを意味している。

 計算機科学では、このことは有限の大きさとエネルギーを持つ物理系に対して最大の情報量プロセス率[ブレマーマンの境界]が存在し、有限の物理的次元で無限のメモリを持つチューリングマシンは、物理的に不可能であることを意味している。

 桐崎雄一朗氏は、クロノクロスを通じて、

 ”世界の運命を壊す“ことを、

 目標にしていた。

 ブラックホールの中心にそびえ立つ情報量の限界。そして、シュワルツシルト半径。

 事象の地平面の外側にある「時間」の先端に立ち、世界に1つしか無いサイコロの目を変える。それこそが、彼の真の目的であり、人類の「希望」であると、考えていた。

 アインシュタインは、「宇宙の全ての原子の運動および位置が分かる」可能性を模索し、ハイゼンベルクの不確定性原理によって導かれる量子力学は、″不完全な理論″であると批判した。

 彼は決定論的立場[あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする立場]を守り、「神はサイコロを振らない」と言ったが、雄一朗はそれを肯定していた。

 しかしそれには、問題点が“2つ”あった。


 1つは、世界には、逃れられないエントロピーの“壁”があるということ。

 もう1つは、世界が明日晴れるかどうかが、まだ決まっていないということだった。


 この2つの問題点は、互いに反発し合っているように見えた。

 なぜなら、「エントロピーの壁」によって決して縮まることがないアルゴリズムの上界があるというのに、空を見上げれば、全く予測不可能な雲の振る舞いが存在する。

 神はサイコロは振らない。

 しかし、サイコロの目が決まる時、私たちは永遠に、「現在」の外側には出られない。

 そうしてその目の“数”によって、私たちの「時間」は周期的な確率の内側に、収束し、終わることがないループを繰り返す。

 そのことが、長年に渡って雄一朗氏の頭を悩ませることになった。

 『クロノクロス』は、その“ループ”を打ち破るための手段になり得る可能性があると、期待されていた。

 ペンローズが唱えた「宇宙検閲官」を倒す、唯一の“剣”になるかもしれない、と。


 クロノクロスに接続されたセカンドキッドたちは、

 世界のエントロピーの上界を打ち破るために、自らの脳とそのシグナル・パターンを量子化し、4次元ネットワークに於いて「時間」と相関関係にある情報量プロセス率の限界を目指した。

 ITNは、セカンドキッドを通じて、人工的な物理量[人工時間]をネットワーク上に接合し、「永遠の命」の地平面を人間の脳の中に組み込もうと考えたのだ。

 人類の命のデジタル的な資本化、デジタル・フロンティアの構築を。


 『××××』は、こうしたITN側の活動のために、保護プログラムに強制的に登録された”ただのセカンド・キッドの1人“であると思われていた。

 しかし、彼女はクロノクロスのデバイス上に登録されていたにも関わらず、その脳へのアクセス制限が設定され、端末と端末を繋ぐ個人インターフェース内への侵入を、高度な暗号化により妨がれていた。ITNが、彼女の中にある情報の共有を、プログラム内に接続することは現時点不可能であり、ITNの最高責任者である桐崎雄一朗氏でさえ、彼女の脳の中に組み込まれたセキュリティに侵入することは、大変困難であると判断した。

 恐らく、ITNが彼女の重要性に気づく前の世界線に於いて、「ITNの関係者の誰か」が彼女の脳の中にアクセスし、セキュリティを設定したのではないかと予想されたが、それは、現時点で、仮説の域を出ない。

 真相が掴めないまま、彼女へのアクセス権を得られないという問題の解決を、先延ばしにするしかなかった。


 ただ、1つ分かっていることは、クロノクロスが、始めてそのシステムの運用を正式に開始した2063年。

 時間ネットワーク上に於いて、桐崎雄一朗氏の脳を回線とし、情報の送信を完了した

 『第一次タイム・クラッシュ爆心地』。

 1995年 1月17日 5時41分22秒 兵庫県神戸市中央区港島1丁目3-11

 の″第二の世界線[セカンド・パターン初期]″の時間軸に於いて、××××は、何者かの手によってアクセス制限を設けられた。

 彼女という「存在」が誕生した最初の世界線に、すでに、彼女はクロノクロスのデバイス上に、セキュリティ付きで登録されていたのだ。』
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