インシデント~楜沢健の非日常〜

五嶋樒榴

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●人生の墓場●

プロローグ

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1991年。

的場文香まとばふみかは、ダイニングテーブルの上の、1枚の緑の紙を見つめながらため息を吐いていた。


 婚姻届あっちは茶色だったのに、何故、離婚届これは緑色なんだろう。
 再出発を清々しく迎えろってこと?


文香は心の中でぼやきながら、夫である的場智和まとばともかずの帰りをただひたすら待っていた。
今夜こそ、きちんと決着を付ける。
もう、先延ばしにしたくなかった。

「ただいま」

智和の声が聞こえて、文香は一気に緊張する。

「ただいま」

ダイニングチェアに腰掛ける文香に智和は声をかけた。

「……お帰りなさい」

座る文香の前に離婚届が見えて、智和は深いため息をついた。

「またもらって来たのか?何度もらって来ても無駄になるだけだぞ。全く、よくみっともなく何度も何度も」

智和は苛つきながら、離婚届を手に取ると文香の前で破り捨てた。

「……協議で済ませようと思ってたのに。そこまで同意してくれないなら、もう裁判にするしかないわねッ!」

文香は立ち上がって智和に抗議する。
素直にサインしてくれれば、それで済ませよう思っていた。

「お前の妄想に付き合ってられるかッ!俺は浮気なんてしていない!証拠を出せって言ってるんだ!」

もう疲れたと思いながらも、髪をグチャグチャに掻き乱して智和は文香に言い放つ。
確かに証拠能力になるものは何もない。
でも、確かに智和が浮気をしているのは明白だった。
専業主婦の文香は、興信所に頼むお金も余裕がない。
両親に知られて心配もかけたくない。
夫の不貞を文香は一人で戦うしかなかった。

「どうして離婚してくれないの?私より相手の女の方がいいんでしょ?私となんてさっさと離婚して、その女と再婚すれば良いじゃない」

もう、本当に直ぐに別れたかった。
こんな無駄な時間を過ごしたくない。

「嫌だね。お前だから俺は好き放題できるんじゃねーか。お前は俺に大人しく飼われていれば良いんだよ!」

開き直る智和の言葉に文香は心をズタズタに傷つけられる。


 もう、本当に別れたい。


そう思った文香はベランダへ出るガラス窓まで走り、そのままベランダから飛び降りた。
驚いた智和だったが、慌ててベランダに出ると下を確認する。
文香が駐車場のアスファルトの上で血を流していた。

「……まさか、本当にここまで追い込めると思わなかったぜ。俺は何もしてない。馬鹿な女だよ。勝手に飛び降りてくれた」

智和は満面の笑顔で呟きながら、動かない文香を見下ろしていた。
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