上 下
36 / 206
●人生の墓場●

3-4

しおりを挟む
「……嘘までついて愚かな女だと思っているでしょ?」

健の考えている事を察したのか、文香は悲しそうな笑顔で語り始める。

「私ね、的場を本当に愛していたのよ。初めて会った時から、私は彼を好きになっていた。政略結婚だろうと、この人のそばにいたいと思ってしまった。この人の子供が欲しいと願った」

文香は的場と初めて会った日のことを懐かしく思い出していた。

「優しかった。とてもおおらかな人だった。幸せになれると思った。結婚するまではね」

信じて愛した男の本当の顔を知って、文香は絶望の淵に立たされた。
金と女にだらしなく、文香のことは世間的な体裁の為に、ビジネスと割り切って結婚したのだった。
でも文香は、もう逃げるのは無理だった。
愛憎の狭間で生きることしかできなかった。

「でも、一番輝ける時を犠牲にしてまで、こんなに時間を掛けるほどの価値が有ったんですか?」

「……どこかで信じたかったのかもしれない。あの人も私を愛していたんだって。浮気を繰り返しても、私のところに帰ってきてくれたから」

妻のプライドだったのか、執念だったのか。
期待だったのか、諦めだったのか。

「時間は残酷よね。結局、私はあの人を愛せなくなった。自分の人生をやり直したいと思った」

背中を押したのは葵だったかもしれないが、決断したのは文香自身。
清々しい顔で語る文香が、この先人生を楽しめればと健は願う。

「ただいま」

会社のドアが開いて、その声の方に健は顔を向けた。
文香ぐらいの年の男が入って来た。

「お帰りなさい。お疲れ様」

その男に向ける文香の笑顔が、女の顔になっていたのを健は見逃さなかった。
文香は少しだけ悲しい目で健を見て微笑んだ。

「お客様が来ていたんだね。初めまして。専務の沢井です」

沢井保さわいたもつは笑顔で健に挨拶をする。

「初めまして。楜沢です」

健が名乗ると沢井は笑顔を見せた。

「ああ、楜沢さんでしたか。この度は、色々お世話になりました。社長から良く健さんの話は聞いていました」

沢井が、名刺も渡していないのに健の名前を知っていた事で、聞くまでもなく、二人の雰囲気からただの関係でない事は察した。
健にM&Aを知られたくなかったのは、これだったのかと思った。
しおりを挟む

処理中です...