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四幕
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明朝に妓楼を出た迅牙は、その足で湯屋に向かい一風呂浴びたあと、花街を抜けて繁華街の方へとやってきていた。
大国カミズオ領の城下町とあって人の往来は多く、大いに賑わっている。
華やかな呉服屋、小間物屋を過ぎて、人々の生活に欠かせぬ魚屋に八百屋、酒屋。
そして迅牙が茶屋の前を通りかかったとき、茶を飲みながら詰め将棋を指す男に声をかけられた。
「春の若君じゃねえですか。朝帰りたぁ羨ましいのなんのって。よっ、色男! 憎いねぇ」
その手に持っているものは、実は茶ではなく酒なんじゃないか、と疑いたくなる絡み具合である。良くも悪くも、カミズオで生まれ育ったという気性の男だった。
「どうです若君、一局お相手願えませんか。ここんトコ、あっしが強すぎるってんで誰も相手になってくれなくてねぇ。詰め将棋も飽き飽きしてたところなんですよ」
男は迅牙に問いかけつつも、既に将棋の盤面を崩しだしている。せっかちにも程があると迅牙は苦笑を零したものの、勝負を受けてやろうと茶屋に立ち寄ることにした。
迅牙が赤い毛氈のかかった床几台に腰をかけると、店の奥から人の良い笑みを浮かべた老女が出てきた。この茶屋の店主の、妻である。
「まあ、まあ。若様、いらっしゃいまし」
軽く会釈をしたあと、老婆は迅牙に汲みだし茶碗を差し出した。
迅牙は注文するまでもなく出された茶をありがたく受け取って、静かに口をつける。まろやかでコクのある旨味が、喉を潤し臓腑に染み渡っていく。涼風に若葉の爽やかな香りが乗って迅牙の鼻腔をくすぐり、微笑を誘った。
「新茶も二月を過ぎると、夏が来たって感じだな」
「ええ、ええ。もう少しすれば納涼祭ですものねぇ。はやいもんですよ」
老婆は嬉しげに頷き、「それじゃあごゆっくり」と挨拶を残して店の奥へと引っ込んだ。それと入れ替わるようにして、男が将棋の盤面を整え終える。
「春の若君、ひとつお願いがあるんですが」
そう持ち掛けながら、男は“歩”の駒を定石通りに打ってきた。やはり気の早い男だと笑いつつ、迅牙が二手目を返す。
「なんだい」
「若君の奥方、雪音さんでしたっけね。あっしが勝ったら、雪音さんを一夜の妻として貸していただきたいんですよ」
ふてぇ野郎だ、と軽く苛立つ反面、最強の忍者を相手に軽口を叩く様は微笑ましくもあった。武では敵わなくとも、知能であれば勝てると睨んでいるのだろう。こういった豪胆なところも、いかにもカミズオの男といったところだ。
しかし、提示された内容だけはいただけない。
「俺はこう見えて愛妻家なんでね、大事な嫁さんを戦利品みたいには扱えないよ」
迅牙は将棋を指し続けながら突っぱねた。
「あいやいや、花街から朝帰りしたお人が、馬鹿言っちゃいけませんぜ」
男の方も負けじと食い下がる。
「雪音さん、えらい別嬪ですからねぇ。世が世なら、あの美貌で国のひとつやふたつ、簡単に傾いたでしょうよ。それでいて、床上手だって話じゃないですか。一生に一度ぐらいそんな美女と寝てみたいって気持ち、若君も同じ男ならわかってくれるでしょう?」
「理解すんのと承諾すんのは同義じゃねえな」
「お願ぇしますよ、大切に抱きますから」
「やらねえって」
軽妙なやりとりを交わしながら、互いに手を進めていく。局面も終盤に差し掛かった頃、男の方が窮地に追い込まれ長考状態に入っていた。
男の次の手を待ちつつ、迅牙が茶に舌鼓を打っていると、ふと、通りをゆくひとりの童子が目に止まった。
童子は枝豆の入った籠を腹に抱え、背には赤子を負ぶり、よたよたと危なげな足取りで通りを歩いている。
「よお」
迅牙が声をかけると、童子は大きな目を輝かせ、息を切らしながら駆け寄ってきた。
「こんにちは、迅牙様!」
「おう、こんにちは。家の手伝いかい?」
籠からはみ出した枝豆の房を手に取りながら、迅牙は童子と赤子に優しく微笑みかける。
「はい! 母さん、近ごろずっとこの子にかかりっきりで、すっかり窶れちゃって……」
童子は困ったような、それでいてどこか頼りがいのある顔で、背に負ぶった赤子を揺すってあやした。
産後間もない母の身を案じて、枝豆売りと子守を自ら買って出るとは。迅牙の横で頭を抱えている男とは比べるまでもなく、性根の真っ直ぐ伸びた気持ちの良い童子である。
「ちと味見させてもらうよ」
迅牙は一莢プチリと捥ぎとって、枝豆を一粒、口の中に放り込んだ。絶妙な塩茹で加減と、枝豆本来が持つ自然の甘みが合わさった緑色の滋味が、迅牙に季節の到来を報せた。
夏。夏が来たのだと。
「この児は、男の子? 女の子?」
青い味を噛み締めながら、迅牙は童子に尋ねた。
「妹です」
迅牙は、赤子の頬を指でちょいと撫でてみた。赤子はなんとも無垢な眼差しを迅牙に向けながら、骨ばった指を小さな手で握り返してくる。
柔らかだが、力強い。真っ新な命を前に、迅牙は顔を綻ばせた。
「きっと別嬪さんになるな」
「雪音様みたいにですか!」
童子が間髪を入れずに叫ぶものだから、迅牙は反応が遅れてしまった。
「──ははははっ、なるなる。雪音に負けず劣らずの、すげぇ別嬪さんだ」
──雪音。
迅牙は大笑したあと、雪音の姿を脳裏に浮かべながら、童子の後方に目を流した。
活気に溢れた街の情景が、どこまでも広がっている。街並みを見下ろすように青く聳え立っている山々は、春の部族の領域だ。
あと二十日もすれば、この城下町の至るところに屋台が並び、いま以上の人の往来、盛り上がりを見せることになるだろう。
夏を過ぎれば紅葉が、秋を過ぎれば雪が、冬を過ぎれば桜が、この国を彩る。
迅牙が生まれ、育ち、守ってきた祖国が、眼前にある。
そこに、等身大の雪音を透かして重ねた。
この目まぐるしく変化する愛おしい情景の中で、いつまでも雪音と共にありたい。
そう願い行ってきたことは、果たして許されざる所業だったのか。
「……それでも俺は、お前と一緒にいたいんだ」
「迅牙様?」
きょとんと首を傾げた童子に呼びかけられ、迅牙はふっと笑った。
迅牙は、このカミズオで伸び伸びと育っていくであろう兄妹の頭を撫で、懐から小ぶりの巾着を取り出した。銀貨が限界一杯まで詰め込まれた巾着を。
「ぜんぶもらうよ」
ほんの少しの間、童子は迅牙がなにを言っているのかわからなかったのか、口をぽかんと開けていた。しかし、巾着を胸に押し付けられたところで、ようやく迅牙が枝豆をすべて買い上げようとしていることに気づいたらしく、わかりやすく慌てふためき始めた。
「あ、えと、あ、ありがとうございます! でも迅牙様、これだとお代金が多すぎます」
「いいよ、とっておきな。ただし無駄遣いはだめだ。そうだな、お袋さんに旨いモン食わせてやって、余った分は今度の祭りで使うといい。頑張ってるお兄ちゃんに、俺からのちょっとしたご褒美だよ」
余剰の金は時として人を狂わせるが、この童子であれば正しく使ってくれるだろう。迅牙はそう見越して、茶屋の奥に呼びかける。
「おかみさん、勘定を頼めるかい。それから風呂敷があれば、ちと拝借してえ」
「まあ、まあ、お帰りですか若様」
最初に茶を持ってきてくれた老女が、今度は青海波柄の風呂敷を手にして、いそいそと迅牙の元にやってきた。迅牙はその風呂敷を受け取ると、さっと枝豆の莢をいくつか詰め、あっという間に包み込んでしまった。
「ああ。俺は帰るけど、ここにいるみんなでこの枝豆食ってくれ。ちょっと食べてみたけど、塩が効いてて旨いよ。それと、この子に茶を一杯、振る舞ってもらえるかい」
迅牙は風呂敷に入りきらなかった枝豆を指差し、童子の分も含んだ茶の代金を床几台に置いて立ち上がる。
「じ、迅牙様、こんなに良くしてもらったら、俺、困ります!」
戸惑う童子の頭をもう一度撫でて、迅牙は童子を床几台に座らせた。
「いいかい。そう遠くない将来、別嬪の妹に悪い虫がわんさか寄ってくるようになるぜ。いまに妹を守るのに四苦八苦するようになるんだから、甘えられるときに甘えておきな」
そう言い聞かせて茶屋から立ち去ろうとした迅牙を呼び止めたのは、将棋盤の前で唸っていた男だった。
「ちょっと若君! 勝負はまだ終わっちゃいませんぜ!」
ようやく長考が終わったらしい。往生際の悪い奴だと口元を緩めつつ、迅牙は“金将”の駒を動かした。
「詰みだよ」
「……ありゃ」
男はすっかり大人しくなって、勝負の喫した将棋盤の前で項垂れる。そんな男の消沈ぶりに、迅牙のみならず、勝負の行方を見守っていた客らも笑い出した。
黙らせた男をそのままに、迅牙は老女の方に向き直って目を細める。
「それじゃ、風呂敷は近いうち返しにくるよ。雪音と、ふたりで」
「ええ、ええ。お待ちしておりますよ、若様」
にこにこと朗らかに笑う老婆が、迅牙を見送った。
迅牙が去り際に茶屋の方に目をやると、無骨な老店主が頭をぺこりと下げるのが見えた。それに手を上げて応え、迅牙は今度こそ茶屋を後にする。
城下町を抜け、関所、街道、その横道に入り、山間に差し掛かったところで、迅牙は駆け出した。
躰は風のように軽く、頬が自然と緩む。
いまは疾く、一刻も疾く雪音の元へ。
このカミズオで育った枝豆をお八つに、雪音とふたりで話をしよう。
話したいことが、話さなければならないことが、山のようにある。
まずは執拗に責め立てたことを謝って、もう二度と妓楼に通わないと約束して。
それから、それから──。
※:
春の部族の里にある榛屋敷に帰り着いた迅牙を出迎えたのは、ひとりの年若い女中だった。
「ま、お帰りなさいませ若様」
「ああ」
迅牙は玄関の引き戸を開けっぱなしにして、浮き立つ足で屋敷に踏み入れる。
ところが。
「あら、若様。雪音様とご一緒ではなかったのですか?」
女中のその言葉は、迅牙の呼吸を止めるには十分過ぎた。
「──いねえのか?」
「え、ええ……若様がお屋敷を出たのが、三日……四日ほど前でしたか? 雪音様も若様を追いかけるように出ていかれたので、わたくしどもはてっきり、おふたりがどこぞの温泉宿にでも行って、仲直りを図っているものとばかり……」
消え入りそうな女中の声に、迅牙の血の気がサァっと引いていく。
雪音が春の部族の里から、迅牙の元から逃げ出そうとしたことは、一度や二度ではない。とはいえ、ここ半年は鳴りを潜めていた。夫婦になると決めてからは、雪音はすっかり春の部族に腰を落ち着けたのだと、そう思い込んでいた。
だが女中の話によれば、雪音は四日前に出て行ったきり帰ってきていないという。もう、四日も。
ついに愛想を尽かされたか。迅牙も女中も声には出さなかったが、そう直感したに違いない。
迅牙は踵を思いきり返した。
とにかく、雪音を捜し出して連れ戻さなければ。その一心だけが、迅牙の躰を動かしていたが──。
「わぷっ」
迅牙の衝動を塞き止めたのは、胸にほんの一瞬伝わった柔らかい感触であった。その感触は、すぐさま迅牙の胸から離れ、倒れる。
「……ゆ、きね」
迅牙の目の前で尻もちをついているのは、間違いなく雪音だった。
「もう、迅牙殿! そのような大きな躰で立ち塞がられては困ります!」
どうやら雪音は、振り返りざまの迅牙に衝突して転倒したらしい。例の負けん気を発揮し、いまは眉をきりりと吊り上げて迅牙を睨みつけている。
平時となんら変わらぬ様子の雪音を前に、迅牙の腰が勝手に屈んでいく。迅牙はそのまま項垂れて、髪をぐしゃぐしゃと掻き毟った。
「……良かった、戻ってきてくれて」
「……ほんの二、三日留守にしていただけではありませんか。許可はちゃんといただいておりましたし、大仰な……」
苦言を呈しつつも、雪音も思うところがあったのか、語調が柔らかい。
「そもそもどこに行って……」
迅牙は言い終える前に、雪音の傍らに落ちている風呂敷を見つけた。なにやら中身がぱんぱんに詰まった唐草模様の風呂敷で、迅牙が茶屋で借りたものではなかった。
「あ、だめです、迅牙殿!」
雪音の制止も聞かずに、迅牙が風呂敷の結び目を解くと、その中がたちまち明らかになる。
人参、しいたけ、筍、豚肉、銀杏、笹の葉……そしてもち米。
唐草模様の風呂敷に入っていたのは、五目粽の材料だった。迅牙の好物の、五目粽の。
「……この間の口論は、私も大人気なかったと反省しておりますから。だから、そのお詫びというわけではありませんけれど、迅牙殿のお好きなものでも作って、水に流してもらえたらと思った次第で、別に、喜んで欲しいとか、そういうわけではなく……」
ごにょごにょと言葉尻を濁す雪音を仰ぎ見てみれば、たちまち頬を染めてぷいっとそっぽを向く。
要するに、雪音は五目粽の材料を搔き集めるために里を留守にしていたようだ。旬でないものもチラホラ見受けられる。苦心して揃えてくれたのだろう。他ならぬ、迅牙のために。
なんとも可愛らしいことをしてくれる。迅牙はすっかり感じ入ってしまい、危うく雪音を抱き締めるところだった。
やり場のない手が、枝豆を詰めた風呂敷をむんずと掴む。
そこで、迅牙の頭にひとつの閃きが走った。
「なあ、ちょっと作ってみたいものがあるんだ」
迅牙は真顔になって、雪音をまじまじと見つめた。
大国カミズオ領の城下町とあって人の往来は多く、大いに賑わっている。
華やかな呉服屋、小間物屋を過ぎて、人々の生活に欠かせぬ魚屋に八百屋、酒屋。
そして迅牙が茶屋の前を通りかかったとき、茶を飲みながら詰め将棋を指す男に声をかけられた。
「春の若君じゃねえですか。朝帰りたぁ羨ましいのなんのって。よっ、色男! 憎いねぇ」
その手に持っているものは、実は茶ではなく酒なんじゃないか、と疑いたくなる絡み具合である。良くも悪くも、カミズオで生まれ育ったという気性の男だった。
「どうです若君、一局お相手願えませんか。ここんトコ、あっしが強すぎるってんで誰も相手になってくれなくてねぇ。詰め将棋も飽き飽きしてたところなんですよ」
男は迅牙に問いかけつつも、既に将棋の盤面を崩しだしている。せっかちにも程があると迅牙は苦笑を零したものの、勝負を受けてやろうと茶屋に立ち寄ることにした。
迅牙が赤い毛氈のかかった床几台に腰をかけると、店の奥から人の良い笑みを浮かべた老女が出てきた。この茶屋の店主の、妻である。
「まあ、まあ。若様、いらっしゃいまし」
軽く会釈をしたあと、老婆は迅牙に汲みだし茶碗を差し出した。
迅牙は注文するまでもなく出された茶をありがたく受け取って、静かに口をつける。まろやかでコクのある旨味が、喉を潤し臓腑に染み渡っていく。涼風に若葉の爽やかな香りが乗って迅牙の鼻腔をくすぐり、微笑を誘った。
「新茶も二月を過ぎると、夏が来たって感じだな」
「ええ、ええ。もう少しすれば納涼祭ですものねぇ。はやいもんですよ」
老婆は嬉しげに頷き、「それじゃあごゆっくり」と挨拶を残して店の奥へと引っ込んだ。それと入れ替わるようにして、男が将棋の盤面を整え終える。
「春の若君、ひとつお願いがあるんですが」
そう持ち掛けながら、男は“歩”の駒を定石通りに打ってきた。やはり気の早い男だと笑いつつ、迅牙が二手目を返す。
「なんだい」
「若君の奥方、雪音さんでしたっけね。あっしが勝ったら、雪音さんを一夜の妻として貸していただきたいんですよ」
ふてぇ野郎だ、と軽く苛立つ反面、最強の忍者を相手に軽口を叩く様は微笑ましくもあった。武では敵わなくとも、知能であれば勝てると睨んでいるのだろう。こういった豪胆なところも、いかにもカミズオの男といったところだ。
しかし、提示された内容だけはいただけない。
「俺はこう見えて愛妻家なんでね、大事な嫁さんを戦利品みたいには扱えないよ」
迅牙は将棋を指し続けながら突っぱねた。
「あいやいや、花街から朝帰りしたお人が、馬鹿言っちゃいけませんぜ」
男の方も負けじと食い下がる。
「雪音さん、えらい別嬪ですからねぇ。世が世なら、あの美貌で国のひとつやふたつ、簡単に傾いたでしょうよ。それでいて、床上手だって話じゃないですか。一生に一度ぐらいそんな美女と寝てみたいって気持ち、若君も同じ男ならわかってくれるでしょう?」
「理解すんのと承諾すんのは同義じゃねえな」
「お願ぇしますよ、大切に抱きますから」
「やらねえって」
軽妙なやりとりを交わしながら、互いに手を進めていく。局面も終盤に差し掛かった頃、男の方が窮地に追い込まれ長考状態に入っていた。
男の次の手を待ちつつ、迅牙が茶に舌鼓を打っていると、ふと、通りをゆくひとりの童子が目に止まった。
童子は枝豆の入った籠を腹に抱え、背には赤子を負ぶり、よたよたと危なげな足取りで通りを歩いている。
「よお」
迅牙が声をかけると、童子は大きな目を輝かせ、息を切らしながら駆け寄ってきた。
「こんにちは、迅牙様!」
「おう、こんにちは。家の手伝いかい?」
籠からはみ出した枝豆の房を手に取りながら、迅牙は童子と赤子に優しく微笑みかける。
「はい! 母さん、近ごろずっとこの子にかかりっきりで、すっかり窶れちゃって……」
童子は困ったような、それでいてどこか頼りがいのある顔で、背に負ぶった赤子を揺すってあやした。
産後間もない母の身を案じて、枝豆売りと子守を自ら買って出るとは。迅牙の横で頭を抱えている男とは比べるまでもなく、性根の真っ直ぐ伸びた気持ちの良い童子である。
「ちと味見させてもらうよ」
迅牙は一莢プチリと捥ぎとって、枝豆を一粒、口の中に放り込んだ。絶妙な塩茹で加減と、枝豆本来が持つ自然の甘みが合わさった緑色の滋味が、迅牙に季節の到来を報せた。
夏。夏が来たのだと。
「この児は、男の子? 女の子?」
青い味を噛み締めながら、迅牙は童子に尋ねた。
「妹です」
迅牙は、赤子の頬を指でちょいと撫でてみた。赤子はなんとも無垢な眼差しを迅牙に向けながら、骨ばった指を小さな手で握り返してくる。
柔らかだが、力強い。真っ新な命を前に、迅牙は顔を綻ばせた。
「きっと別嬪さんになるな」
「雪音様みたいにですか!」
童子が間髪を入れずに叫ぶものだから、迅牙は反応が遅れてしまった。
「──ははははっ、なるなる。雪音に負けず劣らずの、すげぇ別嬪さんだ」
──雪音。
迅牙は大笑したあと、雪音の姿を脳裏に浮かべながら、童子の後方に目を流した。
活気に溢れた街の情景が、どこまでも広がっている。街並みを見下ろすように青く聳え立っている山々は、春の部族の領域だ。
あと二十日もすれば、この城下町の至るところに屋台が並び、いま以上の人の往来、盛り上がりを見せることになるだろう。
夏を過ぎれば紅葉が、秋を過ぎれば雪が、冬を過ぎれば桜が、この国を彩る。
迅牙が生まれ、育ち、守ってきた祖国が、眼前にある。
そこに、等身大の雪音を透かして重ねた。
この目まぐるしく変化する愛おしい情景の中で、いつまでも雪音と共にありたい。
そう願い行ってきたことは、果たして許されざる所業だったのか。
「……それでも俺は、お前と一緒にいたいんだ」
「迅牙様?」
きょとんと首を傾げた童子に呼びかけられ、迅牙はふっと笑った。
迅牙は、このカミズオで伸び伸びと育っていくであろう兄妹の頭を撫で、懐から小ぶりの巾着を取り出した。銀貨が限界一杯まで詰め込まれた巾着を。
「ぜんぶもらうよ」
ほんの少しの間、童子は迅牙がなにを言っているのかわからなかったのか、口をぽかんと開けていた。しかし、巾着を胸に押し付けられたところで、ようやく迅牙が枝豆をすべて買い上げようとしていることに気づいたらしく、わかりやすく慌てふためき始めた。
「あ、えと、あ、ありがとうございます! でも迅牙様、これだとお代金が多すぎます」
「いいよ、とっておきな。ただし無駄遣いはだめだ。そうだな、お袋さんに旨いモン食わせてやって、余った分は今度の祭りで使うといい。頑張ってるお兄ちゃんに、俺からのちょっとしたご褒美だよ」
余剰の金は時として人を狂わせるが、この童子であれば正しく使ってくれるだろう。迅牙はそう見越して、茶屋の奥に呼びかける。
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「まあ、まあ、お帰りですか若様」
最初に茶を持ってきてくれた老女が、今度は青海波柄の風呂敷を手にして、いそいそと迅牙の元にやってきた。迅牙はその風呂敷を受け取ると、さっと枝豆の莢をいくつか詰め、あっという間に包み込んでしまった。
「ああ。俺は帰るけど、ここにいるみんなでこの枝豆食ってくれ。ちょっと食べてみたけど、塩が効いてて旨いよ。それと、この子に茶を一杯、振る舞ってもらえるかい」
迅牙は風呂敷に入りきらなかった枝豆を指差し、童子の分も含んだ茶の代金を床几台に置いて立ち上がる。
「じ、迅牙様、こんなに良くしてもらったら、俺、困ります!」
戸惑う童子の頭をもう一度撫でて、迅牙は童子を床几台に座らせた。
「いいかい。そう遠くない将来、別嬪の妹に悪い虫がわんさか寄ってくるようになるぜ。いまに妹を守るのに四苦八苦するようになるんだから、甘えられるときに甘えておきな」
そう言い聞かせて茶屋から立ち去ろうとした迅牙を呼び止めたのは、将棋盤の前で唸っていた男だった。
「ちょっと若君! 勝負はまだ終わっちゃいませんぜ!」
ようやく長考が終わったらしい。往生際の悪い奴だと口元を緩めつつ、迅牙は“金将”の駒を動かした。
「詰みだよ」
「……ありゃ」
男はすっかり大人しくなって、勝負の喫した将棋盤の前で項垂れる。そんな男の消沈ぶりに、迅牙のみならず、勝負の行方を見守っていた客らも笑い出した。
黙らせた男をそのままに、迅牙は老女の方に向き直って目を細める。
「それじゃ、風呂敷は近いうち返しにくるよ。雪音と、ふたりで」
「ええ、ええ。お待ちしておりますよ、若様」
にこにこと朗らかに笑う老婆が、迅牙を見送った。
迅牙が去り際に茶屋の方に目をやると、無骨な老店主が頭をぺこりと下げるのが見えた。それに手を上げて応え、迅牙は今度こそ茶屋を後にする。
城下町を抜け、関所、街道、その横道に入り、山間に差し掛かったところで、迅牙は駆け出した。
躰は風のように軽く、頬が自然と緩む。
いまは疾く、一刻も疾く雪音の元へ。
このカミズオで育った枝豆をお八つに、雪音とふたりで話をしよう。
話したいことが、話さなければならないことが、山のようにある。
まずは執拗に責め立てたことを謝って、もう二度と妓楼に通わないと約束して。
それから、それから──。
※:
春の部族の里にある榛屋敷に帰り着いた迅牙を出迎えたのは、ひとりの年若い女中だった。
「ま、お帰りなさいませ若様」
「ああ」
迅牙は玄関の引き戸を開けっぱなしにして、浮き立つ足で屋敷に踏み入れる。
ところが。
「あら、若様。雪音様とご一緒ではなかったのですか?」
女中のその言葉は、迅牙の呼吸を止めるには十分過ぎた。
「──いねえのか?」
「え、ええ……若様がお屋敷を出たのが、三日……四日ほど前でしたか? 雪音様も若様を追いかけるように出ていかれたので、わたくしどもはてっきり、おふたりがどこぞの温泉宿にでも行って、仲直りを図っているものとばかり……」
消え入りそうな女中の声に、迅牙の血の気がサァっと引いていく。
雪音が春の部族の里から、迅牙の元から逃げ出そうとしたことは、一度や二度ではない。とはいえ、ここ半年は鳴りを潜めていた。夫婦になると決めてからは、雪音はすっかり春の部族に腰を落ち着けたのだと、そう思い込んでいた。
だが女中の話によれば、雪音は四日前に出て行ったきり帰ってきていないという。もう、四日も。
ついに愛想を尽かされたか。迅牙も女中も声には出さなかったが、そう直感したに違いない。
迅牙は踵を思いきり返した。
とにかく、雪音を捜し出して連れ戻さなければ。その一心だけが、迅牙の躰を動かしていたが──。
「わぷっ」
迅牙の衝動を塞き止めたのは、胸にほんの一瞬伝わった柔らかい感触であった。その感触は、すぐさま迅牙の胸から離れ、倒れる。
「……ゆ、きね」
迅牙の目の前で尻もちをついているのは、間違いなく雪音だった。
「もう、迅牙殿! そのような大きな躰で立ち塞がられては困ります!」
どうやら雪音は、振り返りざまの迅牙に衝突して転倒したらしい。例の負けん気を発揮し、いまは眉をきりりと吊り上げて迅牙を睨みつけている。
平時となんら変わらぬ様子の雪音を前に、迅牙の腰が勝手に屈んでいく。迅牙はそのまま項垂れて、髪をぐしゃぐしゃと掻き毟った。
「……良かった、戻ってきてくれて」
「……ほんの二、三日留守にしていただけではありませんか。許可はちゃんといただいておりましたし、大仰な……」
苦言を呈しつつも、雪音も思うところがあったのか、語調が柔らかい。
「そもそもどこに行って……」
迅牙は言い終える前に、雪音の傍らに落ちている風呂敷を見つけた。なにやら中身がぱんぱんに詰まった唐草模様の風呂敷で、迅牙が茶屋で借りたものではなかった。
「あ、だめです、迅牙殿!」
雪音の制止も聞かずに、迅牙が風呂敷の結び目を解くと、その中がたちまち明らかになる。
人参、しいたけ、筍、豚肉、銀杏、笹の葉……そしてもち米。
唐草模様の風呂敷に入っていたのは、五目粽の材料だった。迅牙の好物の、五目粽の。
「……この間の口論は、私も大人気なかったと反省しておりますから。だから、そのお詫びというわけではありませんけれど、迅牙殿のお好きなものでも作って、水に流してもらえたらと思った次第で、別に、喜んで欲しいとか、そういうわけではなく……」
ごにょごにょと言葉尻を濁す雪音を仰ぎ見てみれば、たちまち頬を染めてぷいっとそっぽを向く。
要するに、雪音は五目粽の材料を搔き集めるために里を留守にしていたようだ。旬でないものもチラホラ見受けられる。苦心して揃えてくれたのだろう。他ならぬ、迅牙のために。
なんとも可愛らしいことをしてくれる。迅牙はすっかり感じ入ってしまい、危うく雪音を抱き締めるところだった。
やり場のない手が、枝豆を詰めた風呂敷をむんずと掴む。
そこで、迅牙の頭にひとつの閃きが走った。
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