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第一章
第五話①「ほら、今から楽しいことしながら考えるから付き合えよ」
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ディートリヒの顔を視界に入れたくない。獣の群れに遭遇したとき、やってはいけないことの1つが目を合わせることである。襲われて、下手を打てば食い殺される。ハイマンが来る前のディートリヒの目の色は蜂蜜ではなかった。腹を空かせて苛立つ冬の狼そのものだった。
自身の心臓が鳴らす音でクルトの耳は壊されそうだ。快感ではなく緊張で喘ぐと、ディートリヒはすぐそばにいた。クルトの腹を舐めるようにじっとりと撫で、身をこわばらせるクルトにささやいてきた。
「クルト。少々手荒なことをしてしまったな。申し訳なく思っている」
クルトの予想とはかけ離れた言葉だ。酒の気配が失せ、全身を支配していた強すぎる快感もやわらいでいく。クルトはすばやくディートリヒの顔を確認した。神妙な面持ちだ。しかし手つきは遠慮がない。指先で腹筋の窪みやヘソの縁をなぞり、盛り上がった部分を軽く押してくる。
「やめろ」
ディートリヒの腕をそれなりに強くつかんだ。手の動きはやんだのだが、クルトの腹からは離さない。クルトの胸の奥につけられた火は一気に沸点に達した。燃料は苛立ちである。
「このクソ野郎! 少々じゃねえわ! 反省してる反応でもねえし!」
胸の奥底から怒りの泡が次々と生まれてくる。ディートリヒはクルトの腹を優しく叩いた。そんなことをしながら小首をかしげる。
「とても深く省みているのだが」
「どこがだ! 俺をあやすな! 自分の手を見やがれ!」
ディートリヒは今しがた気づいた、ようなそぶりをした。手のひらと熱がクルトの腹から去っていく。クルトの胸からは消えない。
「そもそも俺とお前がヤリあってる関係みたいな誤解させてんじゃねえ! あんだけ嫌いあってて実は……とかエグすぎんだろ! いや、狙いはなんだ! ワケを言え!」
クルトは一息でまくし立てると寝台に身を沈めた。腹が立つほど柔らかい。ディートリヒの真面目な顔が気に食わなくて目をつむった。
「防音魔法をかけ直したとはいえ……そこまではしゃいではいけないよ。それに酒気はともかく、もう片方は完全に消えてはいないのだろう?」
「どれもお前の、いや続けろ」
胃が焼けて仕方がないが、いちいち返していたら話が進まない。クルトは動くようになった手を組み、枕にした。
「ハイマンたちはよほどクルトのことが気に入らないようでね」
ディートリヒの険のある声につられて目を向ける。ディートリヒは唇の左端をあげていた。ハイマンらディートリヒの信奉者が見たら泣き出しそうな酷薄さがある。それはすぐに消えて次は眉根が寄せられた。
「君が私にじゃれつく姿を苦く思うあまりに――君を下世話なやり方で教育してやると息巻いていたようだ。私の耳に入ってしまうほどの勢いで」
「教育ぅ?」
「色好みの男を使った教育だよ。君のように気丈な男をねじ伏せることに性的興奮を覚えるヤツさ」
クルトは部屋の空間を思いきり睨んだ。気性の激しい女を折らせたがる男はままいるが、貧相でギョロ目のチビでもいいとはだいぶ見境がない。クルトはそう考えて舌を打った。
(俺よりひでえ面なのか?)
関わりたくはないが拝んではみたい。
ディートリヒの話は彼の穏やかな響きに乗せられて続く。
「今回のことは私に責任がある。君の気ままな言動やじゃれる姿をかわいいからといって公的な場で見せるべきではなかったな。もう遅いが、彼らの理解を得てからに」
「おい、コラ! かわいいって……違う! 俺は火の粉くらい払えるっての! またガキ扱いか! そんな変態逆にねじ伏せてやるっての!」
さすがにハイマンたちを叩きのめすわけにはいかない。本当なら今からでも殴り込みたいが、貴重な肉盾たちと月華騎士の席のどちらか、あるいは両方を失うだろう。
「君が接触することそのものが……まあいい」
クルトがやり込められるような言い振りだ。それに最大限に毒を込めた言動をかわいいじゃれつき扱い。ディートリヒはやはりクルトを下に見ている。クルトはディートリヒにとって取るに足らない存在なのだ。軽くあしらわれて恥を含んだ怒りがのぼる。
(クソが……)
今度はディートリヒを睨んだ。クルトの思いつく限りの嫌悪をこめた表情も添える。ディートリヒは絵画のような微笑みを浮かべた。「騎士道の体現者、英雄の慈愛の微笑」という題名でもつきそうだ。クルトの怒りは膨れていく。
「子猫がつきまとうようなものじゃあないか」
怒りが急に膨れてクルトは頭が痛くなった。
(こんなブサイクな子猫がいるワケねえだろ……)
クルトはふとフォン・ローゼンクランツ侯爵夫人の所有する猫のための屋敷を思い出した。鼻の低い猫が多かったので、ディートリヒは猫はブサイクであればあるほどいいと思っているのだろう。
「チッ。俺にいろいろ仕掛ける前に言ってたらフリくらい……」
「付き合わないだろう、クルトは」
クルトはまた舌を打つ。今度は見透かされていることへの苛立ちに向けた。
「それよかテメエの態度だ! さっきまでのよくわからんあれやこれやの態度はなんだ! なんのつもりだ!」
「あれやこれやの態度、とは?」
「俺に興奮してたろ! 確実に! せ、せ……性的な、意味で」
クルトの顔は熱くなる。そういう欲や感情を向けられ、指摘した経験がなかったのだ。
(お前、俺のこと好きだろ? って言って回る勘違い野郎か! いや、勘違いでは……ねえよな)
自身の心臓が鳴らす音でクルトの耳は壊されそうだ。快感ではなく緊張で喘ぐと、ディートリヒはすぐそばにいた。クルトの腹を舐めるようにじっとりと撫で、身をこわばらせるクルトにささやいてきた。
「クルト。少々手荒なことをしてしまったな。申し訳なく思っている」
クルトの予想とはかけ離れた言葉だ。酒の気配が失せ、全身を支配していた強すぎる快感もやわらいでいく。クルトはすばやくディートリヒの顔を確認した。神妙な面持ちだ。しかし手つきは遠慮がない。指先で腹筋の窪みやヘソの縁をなぞり、盛り上がった部分を軽く押してくる。
「やめろ」
ディートリヒの腕をそれなりに強くつかんだ。手の動きはやんだのだが、クルトの腹からは離さない。クルトの胸の奥につけられた火は一気に沸点に達した。燃料は苛立ちである。
「このクソ野郎! 少々じゃねえわ! 反省してる反応でもねえし!」
胸の奥底から怒りの泡が次々と生まれてくる。ディートリヒはクルトの腹を優しく叩いた。そんなことをしながら小首をかしげる。
「とても深く省みているのだが」
「どこがだ! 俺をあやすな! 自分の手を見やがれ!」
ディートリヒは今しがた気づいた、ようなそぶりをした。手のひらと熱がクルトの腹から去っていく。クルトの胸からは消えない。
「そもそも俺とお前がヤリあってる関係みたいな誤解させてんじゃねえ! あんだけ嫌いあってて実は……とかエグすぎんだろ! いや、狙いはなんだ! ワケを言え!」
クルトは一息でまくし立てると寝台に身を沈めた。腹が立つほど柔らかい。ディートリヒの真面目な顔が気に食わなくて目をつむった。
「防音魔法をかけ直したとはいえ……そこまではしゃいではいけないよ。それに酒気はともかく、もう片方は完全に消えてはいないのだろう?」
「どれもお前の、いや続けろ」
胃が焼けて仕方がないが、いちいち返していたら話が進まない。クルトは動くようになった手を組み、枕にした。
「ハイマンたちはよほどクルトのことが気に入らないようでね」
ディートリヒの険のある声につられて目を向ける。ディートリヒは唇の左端をあげていた。ハイマンらディートリヒの信奉者が見たら泣き出しそうな酷薄さがある。それはすぐに消えて次は眉根が寄せられた。
「君が私にじゃれつく姿を苦く思うあまりに――君を下世話なやり方で教育してやると息巻いていたようだ。私の耳に入ってしまうほどの勢いで」
「教育ぅ?」
「色好みの男を使った教育だよ。君のように気丈な男をねじ伏せることに性的興奮を覚えるヤツさ」
クルトは部屋の空間を思いきり睨んだ。気性の激しい女を折らせたがる男はままいるが、貧相でギョロ目のチビでもいいとはだいぶ見境がない。クルトはそう考えて舌を打った。
(俺よりひでえ面なのか?)
関わりたくはないが拝んではみたい。
ディートリヒの話は彼の穏やかな響きに乗せられて続く。
「今回のことは私に責任がある。君の気ままな言動やじゃれる姿をかわいいからといって公的な場で見せるべきではなかったな。もう遅いが、彼らの理解を得てからに」
「おい、コラ! かわいいって……違う! 俺は火の粉くらい払えるっての! またガキ扱いか! そんな変態逆にねじ伏せてやるっての!」
さすがにハイマンたちを叩きのめすわけにはいかない。本当なら今からでも殴り込みたいが、貴重な肉盾たちと月華騎士の席のどちらか、あるいは両方を失うだろう。
「君が接触することそのものが……まあいい」
クルトがやり込められるような言い振りだ。それに最大限に毒を込めた言動をかわいいじゃれつき扱い。ディートリヒはやはりクルトを下に見ている。クルトはディートリヒにとって取るに足らない存在なのだ。軽くあしらわれて恥を含んだ怒りがのぼる。
(クソが……)
今度はディートリヒを睨んだ。クルトの思いつく限りの嫌悪をこめた表情も添える。ディートリヒは絵画のような微笑みを浮かべた。「騎士道の体現者、英雄の慈愛の微笑」という題名でもつきそうだ。クルトの怒りは膨れていく。
「子猫がつきまとうようなものじゃあないか」
怒りが急に膨れてクルトは頭が痛くなった。
(こんなブサイクな子猫がいるワケねえだろ……)
クルトはふとフォン・ローゼンクランツ侯爵夫人の所有する猫のための屋敷を思い出した。鼻の低い猫が多かったので、ディートリヒは猫はブサイクであればあるほどいいと思っているのだろう。
「チッ。俺にいろいろ仕掛ける前に言ってたらフリくらい……」
「付き合わないだろう、クルトは」
クルトはまた舌を打つ。今度は見透かされていることへの苛立ちに向けた。
「それよかテメエの態度だ! さっきまでのよくわからんあれやこれやの態度はなんだ! なんのつもりだ!」
「あれやこれやの態度、とは?」
「俺に興奮してたろ! 確実に! せ、せ……性的な、意味で」
クルトの顔は熱くなる。そういう欲や感情を向けられ、指摘した経験がなかったのだ。
(お前、俺のこと好きだろ? って言って回る勘違い野郎か! いや、勘違いでは……ねえよな)
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