氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第一章 初めての夜よりも、身体は確かに応えていく

選ばれた花嫁

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 窓の外では、雨が細く降っていた。
 シーランド王国、レーヴェンヌ伯爵家の屋敷の壁には、濡れた蔦が張りつき、庭の赤い花だけが鮮やかに咲き誇っている。
 長椅子に腰掛けたシルヴィアは、卓上の書状を見つめた。封蝋はすでに割られ、黒い冠と銀の剣の紋章が覗いている。

(まあ、見事に威圧的な印章。これで「歓迎します」なんて、よく言えるものね)

 表情は崩さず、父と叔父、王都からの使者を順に見た。

「ヴァロニア王国の王太子殿下、ギリアン・フォン・ヴァロアとの婚姻要請だ」

 父の声は低く掠れていた。

「戴冠前の婚姻、すなわち即時の縁組だ。条件は……宮廷の慣例に従い、速やかに王妃としての務めを果たすこと。随員は不要」

「つまり、ほとんど独りで来い、ということですわね」
 母の意見に、叔父が苦い顔をする。
「敵国からの花嫁だから、でしょう」

 ヴァロニア王宮からの使者は表情を変えず、淡々と告げた。
「安全上の配慮です。殿下は戴冠を控えておられ、王都は今、極めて緊張した情勢にあります」

(つまり、異国の娘を抱えて面倒を増やす気はないってことね)

 シルヴィアは、書状の末尾――『ヴィンセント・フォン・ヘーンブルグ』の署名を見た。

「ヴァロニアも氷派の国柄。血統と秩序を第一とする。お前のように炎派の娘が嫁ぐことは、彼らにとっても大きな意味を持つのだ」
「つまり、わたし個人ではなく……炎派の血筋が求められているのですね」

(選ばれた、というより…駒にされた、が正しいわ)

 胸の奥に、冷たいものが落ちた。
 名誉ではない。約束でもない。
 これは、未来の戦の口実をひとつ潰すための楔だ。
 務めを果たせなければ、両国間の大きな火種となる。

「……シルヴィア」
 父が名を呼ぶ。

「断る選択肢はない。おまえを愛している。だからこそ言う。これは国の存亡に直結している」

 母はシルヴィアの手に、自分の手を重ねた。
 温かい。けれど、その奥にある不安は隠せていない。

「怖いなら、怖いと言っていいのよ」

(怖い? ええ、もちろん怖いわ。でも怖いって口に出したら、お母様が倒れてしまうわ)

 知らない国。知らない王。知らない宮廷。
 でも、ここで怖いと口に出した瞬間、誰かが代わりに行くわけではない。
 これは自分が引き受けるべき役目だ。

 シルヴィアは背筋を伸ばし、完璧な礼儀作法で言った。
「お受けいたします」

 短い沈黙のあと、使者が深く頷いた。
「では、数日後に出立となります。海路と陸路を組み合わせ、ヴァロニアの王都まで向かっていただきます」

 叔父が息を吐く。
「選定は政治だ。相手は政治的に問題のない家門の、務めを理解する娘を求めている。……おまえは、その条件を満たしていると言う事だ」
 
 シルヴィアは一昨年成人を迎えた十八歳で、体も健康そのものだ。
 叔父の言う、政治的問題も、敵国の策謀の内なのだろう。あるいは将来の人質かもしれない。

(満たしている――つまり、求められているのは、炎派の系譜。わたしが個人としては見られていないと言うことね。それなら、こちらから見に行くわ。王を。宮廷を。国を――そして糸のほつれも、ね)

 長椅子から立ち上がり、シルヴィアはスカートの皺を指で整えた。
 鏡に映る自分は、シーランド人を象徴する金髪に翠の瞳。春の色だ。
 ヴァロニア人は同じ金髪だが、瞳は青だと聞く。その冷たい海の色に呑まれないように――けれど拒まないように。そう決めた。

「出立の支度をいたします」

 シルヴィアは礼をして客間を下がった。

 廊下で一度だけ足を止め、窓を開けた。冷たい雨が霧になって頬に触れる。

(負けないわ。わたしが失敗すれば祖国の敗北となる。だったら勝ってみせる)

 この時、シルヴィアはまだ知らない。
 王都で最初に差し出される温もりが、夫の言葉ではなく――侍女の淹れたお茶と、そして花束の小さな香りになることを。
 けれど、シルヴィアの心はもう決まっていた。
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