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第五章 夜の海を揺蕩う舟のように
わたくし、負けたくありませんの
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陽が傾きかけたヴァロニアの空に、鐘の音が遠く響いていた。
リアナは広げられた荷物箱の前に腰掛け、レースの手袋を外している。部屋にはレオナールの姿もあった。
「……どうだった? 今日の謁見、王妃殿下には会えたかい?」
椅子に腰を下ろしながら、レオナールが問う。
それは妹を気遣うような口ぶりだったが、レオナールの瞳の奥には、リアナの観察眼に対する期待も混じっていた。
リアナは、苦笑めいた微笑を浮かべ、首を横に振る。
「残念ながら、まだお目通りは叶いませんでしたの。陛下との謁見が済めば、続けてお会いできると思っておりましたが……今日はご体調が優れないとのことで。代わりに、専属侍女の方が応対を」
「……なるほど。あの子か」
「あの子?」
「ラシェル嬢だろう。王妃付きの専属侍女。誰がどう見ても美人な」
「ええ。彼女でした」
リアナは一瞬、指先を止めて、ふっと目を細めた。
まるで、繊細な刺繍の糸を選ぶときのような、静かな表情で。
「第一印象は、とても感じがよくて、行き届いた応対でした。……でも」
「でも?」
「……少しだけ、誤魔化してる気がしました。笑顔の奥で、こちらを試しているような」
レオナールが、少し驚いたように眉を上げた。
「そう感じたのか」
「わたくしと同じくらいの年齢。……それなのに、もう王妃の信頼を得て、王宮で仕切っている。普通ではありません。磨かれた人です」
「君より?」
「ええ。でも、きっと昔はそうではなかったと思います。……だからこそ、今の立場にしがみついている気がしました。背筋を伸ばして、揺るぎない女に見えるように。必死に」
その言葉に含まれる熱は、決して敵意ではなかった。
だが、そこには確かに観察者の冷静なまなざしがあった。
レオナールは黙り込んだまま考え込み、やがて小さく苦笑する。
「君は……よく見てるな。侍女相手にそこまで感じ取るとは」
「兄様が何をしに来たのかくらい、わたくしもわかっておりますもの」
「……リアナ」
「王妃殿下を案じる母上のため。けれど、わたくし自身のためでもあるわ。……あの侍女のように、わたくしも、王妃殿下に必要とされたい」
その一言に、レオナールは返す言葉を一瞬ためらった。
「……それでも、気をつけて」
「もちろんですわ。あの方は、ただの侍女ではありません。あの目を見ればわかります。――自分が護るもののためなら、何でもする覚悟をしている人だと思います」
窓の外で、風が梢を揺らす。
リアナはレースの手袋を畳みながら、つぶやいた。
「……ああいう、自ら戦える方こそ、本当は『女王』になってもおかしくないのかもしれませんね」
「ラシェル嬢は『王妃』ではないよ。君が気にする相手じゃない」
「ええ。でも――わたくし、負けたくありませんの」
翠の瞳が、かすかに笑った。
リアナは広げられた荷物箱の前に腰掛け、レースの手袋を外している。部屋にはレオナールの姿もあった。
「……どうだった? 今日の謁見、王妃殿下には会えたかい?」
椅子に腰を下ろしながら、レオナールが問う。
それは妹を気遣うような口ぶりだったが、レオナールの瞳の奥には、リアナの観察眼に対する期待も混じっていた。
リアナは、苦笑めいた微笑を浮かべ、首を横に振る。
「残念ながら、まだお目通りは叶いませんでしたの。陛下との謁見が済めば、続けてお会いできると思っておりましたが……今日はご体調が優れないとのことで。代わりに、専属侍女の方が応対を」
「……なるほど。あの子か」
「あの子?」
「ラシェル嬢だろう。王妃付きの専属侍女。誰がどう見ても美人な」
「ええ。彼女でした」
リアナは一瞬、指先を止めて、ふっと目を細めた。
まるで、繊細な刺繍の糸を選ぶときのような、静かな表情で。
「第一印象は、とても感じがよくて、行き届いた応対でした。……でも」
「でも?」
「……少しだけ、誤魔化してる気がしました。笑顔の奥で、こちらを試しているような」
レオナールが、少し驚いたように眉を上げた。
「そう感じたのか」
「わたくしと同じくらいの年齢。……それなのに、もう王妃の信頼を得て、王宮で仕切っている。普通ではありません。磨かれた人です」
「君より?」
「ええ。でも、きっと昔はそうではなかったと思います。……だからこそ、今の立場にしがみついている気がしました。背筋を伸ばして、揺るぎない女に見えるように。必死に」
その言葉に含まれる熱は、決して敵意ではなかった。
だが、そこには確かに観察者の冷静なまなざしがあった。
レオナールは黙り込んだまま考え込み、やがて小さく苦笑する。
「君は……よく見てるな。侍女相手にそこまで感じ取るとは」
「兄様が何をしに来たのかくらい、わたくしもわかっておりますもの」
「……リアナ」
「王妃殿下を案じる母上のため。けれど、わたくし自身のためでもあるわ。……あの侍女のように、わたくしも、王妃殿下に必要とされたい」
その一言に、レオナールは返す言葉を一瞬ためらった。
「……それでも、気をつけて」
「もちろんですわ。あの方は、ただの侍女ではありません。あの目を見ればわかります。――自分が護るもののためなら、何でもする覚悟をしている人だと思います」
窓の外で、風が梢を揺らす。
リアナはレースの手袋を畳みながら、つぶやいた。
「……ああいう、自ら戦える方こそ、本当は『女王』になってもおかしくないのかもしれませんね」
「ラシェル嬢は『王妃』ではないよ。君が気にする相手じゃない」
「ええ。でも――わたくし、負けたくありませんの」
翠の瞳が、かすかに笑った。
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