119 / 182
第七章 闇の中に溶ける
まだ、諦めたくありません
しおりを挟む
ノールウッドのグラディス邸の朝。
冬の空気は冷たく、吐く息は白い。
客間の暖炉には火が灯され、深紅の絨毯と薔薇模様のソファが、そのぬくもりを包み込んでいた。
暖かな陽の光と、燃える火のゆらめきに照らされながら、シルヴィアとグラディス伯爵夫人は二人きりで向かい合っていた。
銀のティーポットから立ち上る香草の甘い湯気が、ほのかな香りを添えている。
「心配していたのです。あまりに急な輿入れだったので……。何も知らずに、怖かったことでしょう?」
「出発の前夜に母が教えてくれてので、全く知らなかったわけではないんです」
シルヴィアは、実母を庇うように慌てて答える。
「それに、ギリアン陛下は、とても誠実で、お優しい方です」
その言葉を聞いても、夫人の顔にかすかな不安の色が浮かんだ。
「夜の方は、ちゃんとご存じだった? ギリアン王は、幼い頃、ヴァロニア王都から避難し、修道士の中で生活していたとお聞きしたので……」
ギリアンの過去について、シルヴィアはそこまで詳しく知らなかった。
「……そうだったのですね。……あっ、でも、陛下は、あの、……そちらの方は、大丈夫です。リアナ様に教えて頂いて、あの……確認も、できました」
頬を赤らめたシルヴィアの様子に、夫人はふっと微笑みかけた。
「そう。では、どうして……」
言葉が途切れたまま、しばし無言の時間が流れる。
やがて、シルヴィアがそっと唇を開いた。
「叔母様……ひとつ、打ち明けたいことがございます」
夫人はすぐには応えず、静かに目で続きを促した。
「……叔母様にお手紙を出した頃、一度……身籠ったことがあります」
暖炉の中で火がぱちりと弾けた。
「けれど、数か月のうちに……流れてしまって」
夫人は息をのんだ。
「それは……。辛かったでしょう……」
そっと身を乗り出し、シルヴィアを抱きしめて、姪の髪を撫でる。
――今まで誰もが、王妃に対して気を遣ってきた。
だが、この抱擁には、そうした遠慮がなかった。年長の女性として、ただ寄り添おうとする温もりだった。
「それからも、努力は続けています。けれど、もう二年近く……命を授かることがなくて……」
「体調は?」
「ゆっくり休みましたので、今はもうすっかり。……わたし、身体はもともと丈夫な方ですし」
「魔女の薬は?」
「……試しました。でも、どれも、叶わなくて……」
絞り出すような声に、夫人は静かに頷いた。
「……そうだったのね。よく話してくださったわ、シルヴィア」
その声は、政治家でも貴族でもなく、ひとりの年長の女として、温かく包む響きに満ちていた。
「……お耳に入っているかと思いますが、ヴァロニア王宮の一部では、王妃に子がいないことを、揶揄するような声もあります。中には……リアナ様を側室にと――」
言いかけて、シルヴィアは唇を噛んだ。
「ええ、聞いています。けれど、あなたの所為ではありません」
伯爵夫人は長椅子に座り直すと、まっすぐにシルヴィアを見つめた。
「――あなたは、十分に立派な王妃です。そして、わたくしたち『炎の血』の誇りでもあるのよ」
「……『炎の血』、ですか?」
「そう。今までヴァロニア王家は、氷の血統を重んじてきました。でも本来、あの国には、もっと豊かな色と力が流れていたのです。黒髪も、翠の瞳も、あなたのような者が、未来を担ってゆくべきです」
伯爵夫人の瞳は、燃えさしの中の炭のように、静かに輝いていた。
「だからこそ、あなたに子が授かることは、ただの家族の問題ではない。――炎派にとっても、未来の象徴なの」
言葉にこめられた覚悟に、シルヴィアは目を見張った。
「……では、炎派として、わたしに子が必要だと?」
「あっ、いいえ、ごめんなさい。プレッシャーになってはいけないわね。あなたに子を望む覚悟があるならば、わたくしも全力を尽くすということよ」
伯爵夫人は小さく笑い、声を落とした。
「……実は、グラディス家は、東の森の魔女たちと、これまでも幾度か取引をしてきました。でも今は、氷の王家の目が厳しくなって、彼女たちと連絡が取れなくなっているの。でもね、最近、魔女の村ではなく、近くの貴族に仕えている若い魔女がいるのよ。力もあって、口も固い。……あなたの悩みに応えてくれるかもしれないわ」
「その方に……お会い出来ますか?」
「ええ。ただ、魔女たちにはいくつかの掟があります。特に、その魔女はまだお若いので、彼女をこの館に招くことも、こちらから住処を訪ねることも出来ないの。でも――市場なら、偶然のふりで待ち合わせが出来るわ」
伯爵夫人は、棚から小箱を取り出し、中から黒水晶のネックレスを取り出した。
「これを身につけて。真っ直ぐな黒髪に翠の目をした、西大陸風の娘に話しかけてみて。魔女たちの合図は、たいてい市井の中に紛れているものよ」
ネックレスを見つめながら、シルヴィアはふと微笑む。
「叔母様、わたし、似たようなペンダントを持っていますので……こちらはお借りしなくても大丈夫です」
「そうなのね。ならば、レオナールを護衛につけましょう」
「……ありがとうございます、叔母様。わたし……まだ、諦めたくありません」
「その気持ちがあれば、大丈夫。シルヴィア――あなたは、『選べる立場』にいるのよ」
暖炉の炎の揺れる音が、二人の沈黙を優しく包んでいた。
冬の空気は冷たく、吐く息は白い。
客間の暖炉には火が灯され、深紅の絨毯と薔薇模様のソファが、そのぬくもりを包み込んでいた。
暖かな陽の光と、燃える火のゆらめきに照らされながら、シルヴィアとグラディス伯爵夫人は二人きりで向かい合っていた。
銀のティーポットから立ち上る香草の甘い湯気が、ほのかな香りを添えている。
「心配していたのです。あまりに急な輿入れだったので……。何も知らずに、怖かったことでしょう?」
「出発の前夜に母が教えてくれてので、全く知らなかったわけではないんです」
シルヴィアは、実母を庇うように慌てて答える。
「それに、ギリアン陛下は、とても誠実で、お優しい方です」
その言葉を聞いても、夫人の顔にかすかな不安の色が浮かんだ。
「夜の方は、ちゃんとご存じだった? ギリアン王は、幼い頃、ヴァロニア王都から避難し、修道士の中で生活していたとお聞きしたので……」
ギリアンの過去について、シルヴィアはそこまで詳しく知らなかった。
「……そうだったのですね。……あっ、でも、陛下は、あの、……そちらの方は、大丈夫です。リアナ様に教えて頂いて、あの……確認も、できました」
頬を赤らめたシルヴィアの様子に、夫人はふっと微笑みかけた。
「そう。では、どうして……」
言葉が途切れたまま、しばし無言の時間が流れる。
やがて、シルヴィアがそっと唇を開いた。
「叔母様……ひとつ、打ち明けたいことがございます」
夫人はすぐには応えず、静かに目で続きを促した。
「……叔母様にお手紙を出した頃、一度……身籠ったことがあります」
暖炉の中で火がぱちりと弾けた。
「けれど、数か月のうちに……流れてしまって」
夫人は息をのんだ。
「それは……。辛かったでしょう……」
そっと身を乗り出し、シルヴィアを抱きしめて、姪の髪を撫でる。
――今まで誰もが、王妃に対して気を遣ってきた。
だが、この抱擁には、そうした遠慮がなかった。年長の女性として、ただ寄り添おうとする温もりだった。
「それからも、努力は続けています。けれど、もう二年近く……命を授かることがなくて……」
「体調は?」
「ゆっくり休みましたので、今はもうすっかり。……わたし、身体はもともと丈夫な方ですし」
「魔女の薬は?」
「……試しました。でも、どれも、叶わなくて……」
絞り出すような声に、夫人は静かに頷いた。
「……そうだったのね。よく話してくださったわ、シルヴィア」
その声は、政治家でも貴族でもなく、ひとりの年長の女として、温かく包む響きに満ちていた。
「……お耳に入っているかと思いますが、ヴァロニア王宮の一部では、王妃に子がいないことを、揶揄するような声もあります。中には……リアナ様を側室にと――」
言いかけて、シルヴィアは唇を噛んだ。
「ええ、聞いています。けれど、あなたの所為ではありません」
伯爵夫人は長椅子に座り直すと、まっすぐにシルヴィアを見つめた。
「――あなたは、十分に立派な王妃です。そして、わたくしたち『炎の血』の誇りでもあるのよ」
「……『炎の血』、ですか?」
「そう。今までヴァロニア王家は、氷の血統を重んじてきました。でも本来、あの国には、もっと豊かな色と力が流れていたのです。黒髪も、翠の瞳も、あなたのような者が、未来を担ってゆくべきです」
伯爵夫人の瞳は、燃えさしの中の炭のように、静かに輝いていた。
「だからこそ、あなたに子が授かることは、ただの家族の問題ではない。――炎派にとっても、未来の象徴なの」
言葉にこめられた覚悟に、シルヴィアは目を見張った。
「……では、炎派として、わたしに子が必要だと?」
「あっ、いいえ、ごめんなさい。プレッシャーになってはいけないわね。あなたに子を望む覚悟があるならば、わたくしも全力を尽くすということよ」
伯爵夫人は小さく笑い、声を落とした。
「……実は、グラディス家は、東の森の魔女たちと、これまでも幾度か取引をしてきました。でも今は、氷の王家の目が厳しくなって、彼女たちと連絡が取れなくなっているの。でもね、最近、魔女の村ではなく、近くの貴族に仕えている若い魔女がいるのよ。力もあって、口も固い。……あなたの悩みに応えてくれるかもしれないわ」
「その方に……お会い出来ますか?」
「ええ。ただ、魔女たちにはいくつかの掟があります。特に、その魔女はまだお若いので、彼女をこの館に招くことも、こちらから住処を訪ねることも出来ないの。でも――市場なら、偶然のふりで待ち合わせが出来るわ」
伯爵夫人は、棚から小箱を取り出し、中から黒水晶のネックレスを取り出した。
「これを身につけて。真っ直ぐな黒髪に翠の目をした、西大陸風の娘に話しかけてみて。魔女たちの合図は、たいてい市井の中に紛れているものよ」
ネックレスを見つめながら、シルヴィアはふと微笑む。
「叔母様、わたし、似たようなペンダントを持っていますので……こちらはお借りしなくても大丈夫です」
「そうなのね。ならば、レオナールを護衛につけましょう」
「……ありがとうございます、叔母様。わたし……まだ、諦めたくありません」
「その気持ちがあれば、大丈夫。シルヴィア――あなたは、『選べる立場』にいるのよ」
暖炉の炎の揺れる音が、二人の沈黙を優しく包んでいた。
0
あなたにおすすめの小説
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
遺産は一円も渡さない 〜強欲な夫と義実家に捨てられた私、真の相続人と手を組み全てを奪い返す~ (全10話)
スカッと文庫
恋愛
「お前の価値なんて、その遺産くらいしかないんだよ」
唯一の肉親だった祖父を亡くした夜、夫の健一と義母から放たれたのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。
四十九日も待たず、祖父が遺した1億2000万円の遺産をアテに贅沢三昧を目論む夫。だが、彼には隠し通している「裏切り」があった――。
絶望の淵に立たされた由美の前に現れたのは、亡き祖父が差し向けた若き凄腕弁護士・蓮。
「おじい様は、すべてお見通しでしたよ」
明かされる衝撃の遺言内容。そして、強欲な夫たちを地獄へ叩き落とすための「相続条件」とは?
虐げられてきた妻による、一発逆転の遺産争奪&復讐劇がいま幕を開ける!
「貧相な小娘」と罵った第一王子へ。番(つがい)は貴方ではなく、国王陛下(お父様)でした
しえろ あい
恋愛
「お父様、わたくし、あの方と目が合った瞬間、分かってしまったのです」
十六歳のデビュタントの夜、ルーセント侯爵令嬢フェリシアを待っていたのは、残酷な罵倒だった。第一王子カシウスは、可憐な白いドレスを纏った彼女を「貧相な小娘」と呼び、己の番(つがい)であることを真っ向から否定する。
会場に響く冷笑と、愛用の刺繍に込めた自信さえ打ち砕くような屈辱。しかし、絶望の淵に立たされた彼女を見つめていたのは、王子ではなく、圧倒的な威厳を放つ「ある男」だった。
魂を焦がすような熱い視線が重なり、静まり返る謁見の間。この出会いが、王室を揺るがす大事件の幕開けになるとは、まだ誰も知らない。自身の価値を否定された少女が、真実の愛によって世界で最も幸福な王妃へと駆け上がる、逆転溺愛ストーリー。
※小説家になろう様にも投稿しています※
【R18】熱い夜の相手は王太子!? ~婚約者だと告げられましたが、記憶がございません~
世界のボボブラ汁(エロル)
恋愛
激しい夜を過ごしたあと、私は気づいてしまった。
──え……この方、誰?
相手は王太子で、しかも私の婚約者だという。
けれど私は、自分の名前すら思い出せない。
訳も分からず散った純潔、家族や自分の姿への違和感──混乱する私に追い打ちをかけるように、親友(?)が告げた。
「あなた、わたくしのお兄様と恋人同士だったのよ」
……え、私、恋人がいたのに王太子とベッドを共に!?
しかも王太子も恋人も、社交界を騒がすモテ男子。
もしかして、そのせいで私は命を狙われている?
公爵令嬢ベアトリス(?)が記憶を取り戻した先に待つのは── 愛か、陰謀か、それとも破滅か。
全米がハラハラする宮廷恋愛ストーリー……になっていてほしいですね!
※本作品はR18表現があります、ご注意ください。
【完結】追放された生活錬金術師は好きなようにブランド運営します!
加藤伊織
ファンタジー
(全151話予定)世界からは魔法が消えていっており、錬金術師も賢者の石や金を作ることは不可能になっている。そんな中で、生活に必要な細々とした物を作る生活錬金術は「小さな錬金術」と呼ばれていた。
カモミールは師であるロクサーヌから勧められて「小さな錬金術」の道を歩み、ロクサーヌと共に化粧品のブランドを立ち上げて成功していた。しかし、ロクサーヌの突然の死により、その息子で兄弟子であるガストンから住み込んで働いていた家を追い出される。
落ち込みはしたが幼馴染みのヴァージルや友人のタマラに励まされ、独立して工房を持つことにしたカモミールだったが、師と共に運営してきたブランドは名義がガストンに引き継がれており、全て一から出直しという状況に。
そんな中、格安で見つけた恐ろしく古い工房を買い取ることができ、カモミールはその工房で新たなスタートを切ることにした。
器具付き・格安・ただし狭くてボロい……そんな訳あり物件だったが、更におまけが付いていた。据えられた錬金釜が1000年の時を経て精霊となり、人の姿を取ってカモミールの前に現れたのだ。
失われた栄光の過去を懐かしみ、賢者の石やホムンクルスの作成に挑ませようとする錬金釜の精霊・テオ。それに対して全く興味が無い日常指向のカモミール。
過保護な幼馴染みも隣に引っ越してきて、予想外に騒がしい日常が彼女を待っていた。
これは、ポーションも作れないし冒険もしない、ささやかな錬金術師の物語である。
彼女は化粧品や石けんを作り、「ささやかな小市民」でいたつもりなのだが、品質の良い化粧品を作る彼女を周囲が放っておく訳はなく――。
毎日15:10に1話ずつ更新です。
この作品は小説家になろう様・カクヨム様・ノベルアッププラス様にも掲載しています。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる