【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第八章 王は王妃を寵愛している

選ばれなかった命たち ※センシティブ(不妊)

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 それから数日が経った。
 回廊の外は、冬の冷気が張り詰めている。

「――王妃様」

 昼下がりの陽が、窓辺に射し込む執務室。
 机に向かっていたシルヴィアが顔を上げると、扉の向こうにラシェルが立っていた。

 どこか緊張した面持ちで、けれど覚悟を決めたような瞳。
 その様子に、シルヴィアはすぐに察した。

 ラシェルは一歩、静かに部屋へ入り、深く頭を下げた。

「王妃様……遅れていた月のものが、ようやく来ました。妊娠は……していませんでした」

 言葉を絞り出すようにしてそう言ったラシェルの頬には、安堵との涙が浮かんでいた。


「……そう。良かったわね」


 シルヴィアは、静かに微笑んで言った。
 けれどその微笑みの奥に、ラシェルには見えない、複雑な翳りが潜んでいた。

 ラシェルは、そっと唇を震わせた。

「本当に……ごめんなさい。王妃様に避妊のお薬を、いただいていたのに……。使うべき時に、きちんと使えなくて」

「前も言ったけど、初めての時に……そういう余裕は、なかなか持てるものじゃないわ」

 その言葉に、ラシェルの瞳が潤んだ。

 しばしの沈黙の後、ラシェルは両手を胸の前にきゅっと重ね、言葉を継いだ。

「でも……王妃様の侍女として、これからも仕えられること、本当に……本当に嬉しいです」
「……ラシェル、わたしもよ」

「身勝手ですけど……このまま、王妃様の傍にいさせてください。ホープ様を想う気持ちは変わりません。でも……私、王妃様のことも、心から……お慕いしていますから」

 その真っ直ぐな想いに、シルヴィアの胸の奥が静かに揺れた。
 少女のように泣き笑いするラシェルを、シルヴィアはそっと抱き寄せた。

「ありがとう、ラシェル。……わたしの方こそ、あなたが傍にいてくれて欲しいわ」

 その抱擁の中で、ラシェルは何度も小さく頷いた。
 涙はもう、喜びのものだった。






『妊娠は……していませんでした』

 その言葉を聞いた瞬間、シルヴィアの心には、ひとひらの安堵が落ちた。
 けれどそれは、すぐに沈殿していく。底の見えない澱みに溶けて、やがて――痛みとなって浮かび上がる。

 なぜか、胸の奥が、ひどく苦しかった。

『……そう。良かったわね』

 そう返した自分の声が、よそよそしく響いた気がして、不意に怖くなる。

 ラシェルに、何か気づかれたのではないか。心の奥を、覗かれてしまったのではないかと。


 どうして――どうして、わたしは……。


  あの子が、妊娠していたら良かったのに。
  その子が、わたしのもとに来てくれたなら。
  それが、黒髪だったら――と。


 打ち消しても、打ち消しても、毒のような感情は消えてくれなかった。

 ラシェルは忠義のために、母であることを捨てるかもしれなかった。
 その子を、自分の子として抱くことが出来たかもしれなかった。
 ラシェルの真心を知っていながら、そんな事を思ってしまった。

 ――わたしは、その可能性を、どこかで願っていた。

 その事実が、何よりも、情けなかった。

 

 自室に戻ると、シルヴィアはひとり、寝室の隅に座り込んだ。
 カーテン越しの光は薄く、床に冷たく落ちている。

 頬に触れたものが、涙だと気づくのに、少し時間がかかった。

 どうしてこんなに、心が汚れてしまったのだろう。
 ギリアンと語り合った未来は、間違いなく温かかった。
 それなのに、どうして、こんなにも、わたしは……。


 ――傲慢だわ。
 ――図々しくて、浅ましい。


 大切な人の子を奪おうなんて、どんな王妃がそんなことを思うの?
 ラシェルの心を知っていながら、その母性と忠誠心につけ込もうとしたの?

 胸に手を当てて、静かに目を閉じる。
 吐く息さえ、罪のように思えた。

 ――お願い。どうかこの心を、誰にも知られませんように。
 愛しい人にも、忠義を誓ってくれるあの子にも。
 どうか、誰にも。



*   *   *   *   *



 次の日の朝。

 シルヴィアは髪を結い上げ、濃灰色の外套を身にまとって、ひとり馬車に乗り込んだ。
 視察に訪れたのは、王都近郊にある古い孤児院だった。

 石造りの建物の前には、幼い子どもたちが数人、雪の残る中庭ではしゃいでいた。
 子どもたちの笑い声が、冬の乾いた風に混じって揺れる。

「ようこそお越しくださいました、王妃様」

 院長の老婦人が深く頭を下げる。

 シルヴィアは穏やかにそれに応え、ゆっくりと施設内を歩いた。

 幼い子を抱く若い修道女、兄弟で寄り添って本を読む少年たち、掃除を手伝う少女。
 そのひとつひとつの姿に、言葉にならない何かが胸に満ちてくる。

 魔女の言葉を思い出した。


 ――選ばれなかった命たち


 けれど、確かに生きている命。
 手を伸ばせば、未来に触れることができる命たち。

 シルヴィアは、ふと立ち止まって、ひとりの幼子の頭をそっと撫でた。
 その子は、不思議そうな顔をして、シルヴィアの翠の瞳を見つめる。そして、小さな手でシルヴィアの指を握った。

 その瞬間、シルヴィアの胸の奥で凍っていた何かが、ふっとほどけるように溶けていった。
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