【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第八章 王は王妃を寵愛している

切り札

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 春の光が、王宮の温室を淡く満たしていた。
 ガラス天井に降る陽はやわらかく、芽吹いたばかりの若葉の上をやさしく滑る。
 シルヴィアが王宮に戻り、あっと言う間に三月になった。

 香草と花々が放つ清冽な匂いが、静かな空気の中に、ほんのりと溶け込んでいる。
 その温室の奥、白い鉄脚のテーブルをはさんで、シルヴィアとレオナールは、誰にも知られぬ『戦略会議』を開いていた。

 ロマンチックな雰囲気に紛れさせてはいるが、テーブルの上には意味深なものが並んでいる。
 黒曜石のように鈍く光る小瓶と、一枚の書きつけ。
 その隣には、未開封の甘口赤ワインの瓶がぽつりと置かれていた。

 レオナールは眉をひそめ、それらをしばし見つめたのち、ぽつりと呟いた。

「……つまり、この『黒曜の蜜』とやらは、に作用する薬だと」

「ええ。でも、ただ飲めば良いというものでもないみたいなの」

 シルヴィアは少し声を落とし、紙の文字をそっと指先でなぞる。

「ヴァロニア産の、甘い赤ワインに混ぜて、いったん沸かして、それを体温ほどに冷まして……その、……行為の直前に、男性が飲む……と書いてあるわ」

 その最後の一文に差しかかったとき、シルヴィアは僅かに頬を染めた。
 いくら信頼のおける従弟とはいえ、こうした話題を口にするには、まだ少女時代の自分が顔を出す。

 だが、レオナールはと言えば、全く気にした様子もなく、真顔で小さく肩を竦めた。

「……随分と儀式めいてるな。それにしても、ヴァロニア産の赤ワイン? あの魔女、ソムリエのつもりか?」

 真剣な眼差しに潜むユーモアに、シルヴィアはふっと笑った。

「不思議でしょう? ベナ様は異国の方らしいのに……なぜヴァロニアの、それも甘いワインをご指定されたのかしら。シーランドでは、ワインの輸入は王家直轄のレガリア商会しか扱えないのに」

 レオナールは腕を組んで目を細めた。

「……ふぅん。まぁ、ルヴィが気になるなら、その件はまた別で、俺が調べてみるよ」

 レオナールは腕を組み、視線を彼方へ流した。

「問題は、どうやってギリアン王にこれを飲ませるかってとこだろう?」
「そうね……」

 シルヴィアは視線を落とした。銀盆の小瓶が、日の光を受けて微かに光っていた。
 これが、夫を傷つけるものになり得るという思いが、胸に重くのしかかる。

「『夜薔薇の滴』と併用すれば、心と身体の揺らぎを整えるとも書いてあったけれど……。この『薬』の存在自体が、陛下に男性側の不妊を告げてしまうことになってしまう」

「……王に、原因があると明言するようなものだからな」

 シルヴィアは黙って頷いた。
 たとえそれが事実であっても、それを突きつけることが、どれほど王の尊厳を傷つけるか。
 その痛みを、妻である自分が与えるのかと考えると、言葉が喉に詰まる。

「……優しいな、ルヴィは」

 レオナールの言葉に、シルヴィアは曖昧に微笑んだ。
 一度は妊娠しているのだ。ギリアンが完全に不能というわけではない。

 けれど、あの時、知ってしまった、ギリアンの『父』にまつわる深い心の傷。
 それが癒えない限り、きっと彼の身体は、本当の意味で未来を迎えられない。

(――幼い頃の心の傷は、癒えることなんて、あるのかしら)

 あの幻で見た、哀しみの奥底に沈む少年の姿。
 シルヴィアは、胸の奥で何かがひんやりと凍るのを感じた。

「俺が、ギリアンの嫉妬心でも煽ってみようか?」

 茶化すような提案に、シルヴィアは目を丸くした。

「そんなことして、もし、あなたの首が飛んだら、わたし、叔母様になんて言えば……」
「はは、確かに。命が惜しい」

 二人の間に、ふっと笑いが戻る。

「……ごめんなさい、レオ。あなたにこんな話をしてしまって……」
「いいさ。兄として、この件には、リアナを関わらせたくない。俺が責任を持つ」

 レオナールは、しばし無言で花の影を眺めていたが、ふと苦笑めいた声音で言った。

「それなら……ホープ君を使うか?」
「ホープ卿を……?」

 思わず問い返したシルヴィアに、レオナールは少しだけ頷く。

「王の傍にいて、信頼も厚い。あいつなら……」

「……ホープ卿は頼りになるけれど、あの人は優しすぎるの。王の名誉と心を、全て守りながらこの件を進めるには……難しいと思うわ」

「中々、心を開くのが難しい王だからな。……俺がもう少し、信頼を得られていれば」
「わたしも、努力を続けるわ。……今まで通りに」

「つまり、これはまだ『切り札』にはしないと」

「ええ。焦っても、きっと後悔する。だから……もう少し、慎重に考えるわ」

 レオナールは、背もたれに寄りかかりながら、小さく頷いた。

「じゃあ、この『薬』を使うタイミングは――ルヴィが決めればいい。俺は、その時は協力する。全力でね」

 その言葉に、シルヴィアは小さく微笑んだ。

「ありがとう、レオ」
 シルヴィアの頬に、ようやく小さな微笑みが戻った。

(あの、毒のような感情よりも、自分で出来ることをする方が、ずっと良いわ)

 その笑顔を見て、レオナールはからかうように口元を弛める。

「……あの氷の王のおかげで、ルヴィがこんなに綺麗になったんだ。認めるしかないな。ギリアン王は、ルヴィを本気で寵愛してる」

 その言葉に、シルヴィアの頬がぱっと赤く染まった。
 赤いワインの瓶は、まだ封も切られないまま、二人の間にひっそりと置かれていた。
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