【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第九章 わたしは、あなたの子どもを、望んでいます

旅の終わり

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 また新しい年明けを迎えた。
 王宮の冬は、例年よりも穏やかな空気に包まれていた。
 それでも、石造りの廊下には冷気が残り、各所で暖炉の薪がはぜる音が聞こえてくる。


 毎月の、あの日の夜――
 ギリアンは、誰にも言わず、一人ある行動を続けていた。

 レオナールから密かに託された小さな紙片。そこには、黒い小瓶に封じられていた『黒曜の蜜』の使用方法が、簡潔に書かれていた。


 ――使用量は一夜一滴。
 ――ヴァロニア産の甘い赤ワインに混ぜて、いったん沸かす。
 ――それを体温ほどに冷まして、行為の直前に飲む。
 ――『夜薔薇の滴』と併用推奨。心と身体の揺らぎを整える。


 それを信じるか否かではなく、信じることを選ぶと決めた。
 ギリアンは夜の営みのたびに、その薬を一滴、自らの手で密かに注ぎ続けていた。

 だが、奇跡はなかなか訪れなかった。

 焦燥を隠すように政務に勤しみ、隣にいるシルヴィアには何も告げなかった。

(シルヴィも、ずっと、こんな気持ちを抱えて過ごしていたのか……)

 そう思えば思うほど、王妃を甘やかしたくなる。ギリアンは、氷の王の仮面が融けそうになるのを、なんとか堪えた。

 ただ、穏やかな日々を壊さぬように――小さな願いを、静かに灯し続けていた。



*   *   *   *   *



 春の兆しが近づいた頃、シルヴィア王妃と侍女ラシェルは、ホープを伴っての静養の旅から帰ってきた。

 今回の旅の目的地は、ヘーンブルグ領最南端のアレー村。
 聖地へと向かう国境に一番近く、領内でも最も田舎の、小さな村だった。
 宿泊施設さえない小さな村であったが、シルヴィアは、教会の壁画を訪ね、黒髪の子どもたちと戯れた。
 海と森の香りが混じる澄んだ空気の中で、王妃は心身を癒していたという。


 その夜。
 王妃一行の帰還を祝して、王宮内でささやかな晩餐が開かれた。
 ギリアンと側近数名、王妃付きの者たちが同席し、料理長が腕を振るった暖かな夕餉が用意された。

 そして、王妃のためにと特別に用意されたのが――
 甘く香るモンタルヴァンの温ワインだった。

 しかし、杯を口に運んだシルヴィアの手が止まった。

「ん? 久しぶりだからかしら? なんだか、少し、香りが違うような……」

 シルヴィアが、また杯を鼻に近づけて眉を顰める。
 傍らのラシェルは、心配そうに覗き込む。

「王妃様、ちょっと、失礼して良いでしょうか」
 そう言って、ラシェルは躊躇わずワインを口に含んだが、王妃の杯には特に異変はなかった。

「わたしの気のせいかもしれないわ。でも……今日は、ちょっと飲むのはやめておきます」

 その言葉に、晩餐会の空気が静まり返った。

 厨房では香料の変更はなかったという。
 供された他の杯にも異常はなし。

 安全の為に、警備が張られ、良く躾けられた軍犬が王妃の寝室にまで配された。
 調査の為、王の侍医まで呼ばれる騒ぎとなり、その日は一晩中、王宮内は騒然となった。

 だが――

 その夜は、何も起こらなかった。

 翌朝には、王妃も変わらず、通常の装いで、それどころか、大きな犬をたっぷり可愛がりながら執務に戻っていた。





 しかし、それから約一月後。
 ミュゲの香りが、王宮の庭園から香る頃――。
 王宮の医務局から届けられた報告は、王と王妃、そして近しい者たちの間に、静かに衝撃を走らせた。



「――ご懐妊です。王妃様のお体に、新しい命が宿っております」



 それは、奇跡としか言いようのない訪れだった。

 ギリアンは、何も言わなかった。
 ただ、シルヴィアの手をそっと握りしめ、その温もりの中で、長い沈黙の夜が終わったことを知った。

 ――それは、選び取った希望の果てにあった、静かな春のはじまりだった。
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