159 / 182
第九章 わたしは、あなたの子どもを、望んでいます
旅の終わり
しおりを挟む
また新しい年明けを迎えた。
王宮の冬は、例年よりも穏やかな空気に包まれていた。
それでも、石造りの廊下には冷気が残り、各所で暖炉の薪がはぜる音が聞こえてくる。
毎月の、あの日の夜――
ギリアンは、誰にも言わず、一人ある行動を続けていた。
レオナールから密かに託された小さな紙片。そこには、黒い小瓶に封じられていた『黒曜の蜜』の使用方法が、簡潔に書かれていた。
――使用量は一夜一滴。
――ヴァロニア産の甘い赤ワインに混ぜて、いったん沸かす。
――それを体温ほどに冷まして、行為の直前に飲む。
――『夜薔薇の滴』と併用推奨。心と身体の揺らぎを整える。
それを信じるか否かではなく、信じることを選ぶと決めた。
ギリアンは夜の営みのたびに、その薬を一滴、自らの手で密かに注ぎ続けていた。
だが、奇跡はなかなか訪れなかった。
焦燥を隠すように政務に勤しみ、隣にいるシルヴィアには何も告げなかった。
(シルヴィも、ずっと、こんな気持ちを抱えて過ごしていたのか……)
そう思えば思うほど、王妃を甘やかしたくなる。ギリアンは、氷の王の仮面が融けそうになるのを、なんとか堪えた。
ただ、穏やかな日々を壊さぬように――小さな願いを、静かに灯し続けていた。
* * * * *
春の兆しが近づいた頃、シルヴィア王妃と侍女ラシェルは、ホープを伴っての静養の旅から帰ってきた。
今回の旅の目的地は、ヘーンブルグ領最南端のアレー村。
聖地へと向かう国境に一番近く、領内でも最も田舎の、小さな村だった。
宿泊施設さえない小さな村であったが、シルヴィアは、教会の壁画を訪ね、黒髪の子どもたちと戯れた。
海と森の香りが混じる澄んだ空気の中で、王妃は心身を癒していたという。
その夜。
王妃一行の帰還を祝して、王宮内でささやかな晩餐が開かれた。
ギリアンと側近数名、王妃付きの者たちが同席し、料理長が腕を振るった暖かな夕餉が用意された。
そして、王妃のためにと特別に用意されたのが――
甘く香るモンタルヴァンの温ワインだった。
しかし、杯を口に運んだシルヴィアの手が止まった。
「ん? 久しぶりだからかしら? なんだか、少し、香りが違うような……」
シルヴィアが、また杯を鼻に近づけて眉を顰める。
傍らのラシェルは、心配そうに覗き込む。
「王妃様、ちょっと、失礼して良いでしょうか」
そう言って、ラシェルは躊躇わずワインを口に含んだが、王妃の杯には特に異変はなかった。
「わたしの気のせいかもしれないわ。でも……今日は、ちょっと飲むのはやめておきます」
その言葉に、晩餐会の空気が静まり返った。
厨房では香料の変更はなかったという。
供された他の杯にも異常はなし。
安全の為に、警備が張られ、良く躾けられた軍犬が王妃の寝室にまで配された。
調査の為、王の侍医まで呼ばれる騒ぎとなり、その日は一晩中、王宮内は騒然となった。
だが――
その夜は、何も起こらなかった。
翌朝には、王妃も変わらず、通常の装いで、それどころか、大きな犬をたっぷり可愛がりながら執務に戻っていた。
しかし、それから約一月後。
ミュゲの香りが、王宮の庭園から香る頃――。
王宮の医務局から届けられた報告は、王と王妃、そして近しい者たちの間に、静かに衝撃を走らせた。
「――ご懐妊です。王妃様のお体に、新しい命が宿っております」
それは、奇跡としか言いようのない訪れだった。
ギリアンは、何も言わなかった。
ただ、シルヴィアの手をそっと握りしめ、その温もりの中で、長い沈黙の夜が終わったことを知った。
――それは、選び取った希望の果てにあった、静かな春のはじまりだった。
王宮の冬は、例年よりも穏やかな空気に包まれていた。
それでも、石造りの廊下には冷気が残り、各所で暖炉の薪がはぜる音が聞こえてくる。
毎月の、あの日の夜――
ギリアンは、誰にも言わず、一人ある行動を続けていた。
レオナールから密かに託された小さな紙片。そこには、黒い小瓶に封じられていた『黒曜の蜜』の使用方法が、簡潔に書かれていた。
――使用量は一夜一滴。
――ヴァロニア産の甘い赤ワインに混ぜて、いったん沸かす。
――それを体温ほどに冷まして、行為の直前に飲む。
――『夜薔薇の滴』と併用推奨。心と身体の揺らぎを整える。
それを信じるか否かではなく、信じることを選ぶと決めた。
ギリアンは夜の営みのたびに、その薬を一滴、自らの手で密かに注ぎ続けていた。
だが、奇跡はなかなか訪れなかった。
焦燥を隠すように政務に勤しみ、隣にいるシルヴィアには何も告げなかった。
(シルヴィも、ずっと、こんな気持ちを抱えて過ごしていたのか……)
そう思えば思うほど、王妃を甘やかしたくなる。ギリアンは、氷の王の仮面が融けそうになるのを、なんとか堪えた。
ただ、穏やかな日々を壊さぬように――小さな願いを、静かに灯し続けていた。
* * * * *
春の兆しが近づいた頃、シルヴィア王妃と侍女ラシェルは、ホープを伴っての静養の旅から帰ってきた。
今回の旅の目的地は、ヘーンブルグ領最南端のアレー村。
聖地へと向かう国境に一番近く、領内でも最も田舎の、小さな村だった。
宿泊施設さえない小さな村であったが、シルヴィアは、教会の壁画を訪ね、黒髪の子どもたちと戯れた。
海と森の香りが混じる澄んだ空気の中で、王妃は心身を癒していたという。
その夜。
王妃一行の帰還を祝して、王宮内でささやかな晩餐が開かれた。
ギリアンと側近数名、王妃付きの者たちが同席し、料理長が腕を振るった暖かな夕餉が用意された。
そして、王妃のためにと特別に用意されたのが――
甘く香るモンタルヴァンの温ワインだった。
しかし、杯を口に運んだシルヴィアの手が止まった。
「ん? 久しぶりだからかしら? なんだか、少し、香りが違うような……」
シルヴィアが、また杯を鼻に近づけて眉を顰める。
傍らのラシェルは、心配そうに覗き込む。
「王妃様、ちょっと、失礼して良いでしょうか」
そう言って、ラシェルは躊躇わずワインを口に含んだが、王妃の杯には特に異変はなかった。
「わたしの気のせいかもしれないわ。でも……今日は、ちょっと飲むのはやめておきます」
その言葉に、晩餐会の空気が静まり返った。
厨房では香料の変更はなかったという。
供された他の杯にも異常はなし。
安全の為に、警備が張られ、良く躾けられた軍犬が王妃の寝室にまで配された。
調査の為、王の侍医まで呼ばれる騒ぎとなり、その日は一晩中、王宮内は騒然となった。
だが――
その夜は、何も起こらなかった。
翌朝には、王妃も変わらず、通常の装いで、それどころか、大きな犬をたっぷり可愛がりながら執務に戻っていた。
しかし、それから約一月後。
ミュゲの香りが、王宮の庭園から香る頃――。
王宮の医務局から届けられた報告は、王と王妃、そして近しい者たちの間に、静かに衝撃を走らせた。
「――ご懐妊です。王妃様のお体に、新しい命が宿っております」
それは、奇跡としか言いようのない訪れだった。
ギリアンは、何も言わなかった。
ただ、シルヴィアの手をそっと握りしめ、その温もりの中で、長い沈黙の夜が終わったことを知った。
――それは、選び取った希望の果てにあった、静かな春のはじまりだった。
0
あなたにおすすめの小説
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
遺産は一円も渡さない 〜強欲な夫と義実家に捨てられた私、真の相続人と手を組み全てを奪い返す~ (全10話)
スカッと文庫
恋愛
「お前の価値なんて、その遺産くらいしかないんだよ」
唯一の肉親だった祖父を亡くした夜、夫の健一と義母から放たれたのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。
四十九日も待たず、祖父が遺した1億2000万円の遺産をアテに贅沢三昧を目論む夫。だが、彼には隠し通している「裏切り」があった――。
絶望の淵に立たされた由美の前に現れたのは、亡き祖父が差し向けた若き凄腕弁護士・蓮。
「おじい様は、すべてお見通しでしたよ」
明かされる衝撃の遺言内容。そして、強欲な夫たちを地獄へ叩き落とすための「相続条件」とは?
虐げられてきた妻による、一発逆転の遺産争奪&復讐劇がいま幕を開ける!
「貧相な小娘」と罵った第一王子へ。番(つがい)は貴方ではなく、国王陛下(お父様)でした
しえろ あい
恋愛
「お父様、わたくし、あの方と目が合った瞬間、分かってしまったのです」
十六歳のデビュタントの夜、ルーセント侯爵令嬢フェリシアを待っていたのは、残酷な罵倒だった。第一王子カシウスは、可憐な白いドレスを纏った彼女を「貧相な小娘」と呼び、己の番(つがい)であることを真っ向から否定する。
会場に響く冷笑と、愛用の刺繍に込めた自信さえ打ち砕くような屈辱。しかし、絶望の淵に立たされた彼女を見つめていたのは、王子ではなく、圧倒的な威厳を放つ「ある男」だった。
魂を焦がすような熱い視線が重なり、静まり返る謁見の間。この出会いが、王室を揺るがす大事件の幕開けになるとは、まだ誰も知らない。自身の価値を否定された少女が、真実の愛によって世界で最も幸福な王妃へと駆け上がる、逆転溺愛ストーリー。
※小説家になろう様にも投稿しています※
【R18】熱い夜の相手は王太子!? ~婚約者だと告げられましたが、記憶がございません~
世界のボボブラ汁(エロル)
恋愛
激しい夜を過ごしたあと、私は気づいてしまった。
──え……この方、誰?
相手は王太子で、しかも私の婚約者だという。
けれど私は、自分の名前すら思い出せない。
訳も分からず散った純潔、家族や自分の姿への違和感──混乱する私に追い打ちをかけるように、親友(?)が告げた。
「あなた、わたくしのお兄様と恋人同士だったのよ」
……え、私、恋人がいたのに王太子とベッドを共に!?
しかも王太子も恋人も、社交界を騒がすモテ男子。
もしかして、そのせいで私は命を狙われている?
公爵令嬢ベアトリス(?)が記憶を取り戻した先に待つのは── 愛か、陰謀か、それとも破滅か。
全米がハラハラする宮廷恋愛ストーリー……になっていてほしいですね!
※本作品はR18表現があります、ご注意ください。
【完結】追放された生活錬金術師は好きなようにブランド運営します!
加藤伊織
ファンタジー
(全151話予定)世界からは魔法が消えていっており、錬金術師も賢者の石や金を作ることは不可能になっている。そんな中で、生活に必要な細々とした物を作る生活錬金術は「小さな錬金術」と呼ばれていた。
カモミールは師であるロクサーヌから勧められて「小さな錬金術」の道を歩み、ロクサーヌと共に化粧品のブランドを立ち上げて成功していた。しかし、ロクサーヌの突然の死により、その息子で兄弟子であるガストンから住み込んで働いていた家を追い出される。
落ち込みはしたが幼馴染みのヴァージルや友人のタマラに励まされ、独立して工房を持つことにしたカモミールだったが、師と共に運営してきたブランドは名義がガストンに引き継がれており、全て一から出直しという状況に。
そんな中、格安で見つけた恐ろしく古い工房を買い取ることができ、カモミールはその工房で新たなスタートを切ることにした。
器具付き・格安・ただし狭くてボロい……そんな訳あり物件だったが、更におまけが付いていた。据えられた錬金釜が1000年の時を経て精霊となり、人の姿を取ってカモミールの前に現れたのだ。
失われた栄光の過去を懐かしみ、賢者の石やホムンクルスの作成に挑ませようとする錬金釜の精霊・テオ。それに対して全く興味が無い日常指向のカモミール。
過保護な幼馴染みも隣に引っ越してきて、予想外に騒がしい日常が彼女を待っていた。
これは、ポーションも作れないし冒険もしない、ささやかな錬金術師の物語である。
彼女は化粧品や石けんを作り、「ささやかな小市民」でいたつもりなのだが、品質の良い化粧品を作る彼女を周囲が放っておく訳はなく――。
毎日15:10に1話ずつ更新です。
この作品は小説家になろう様・カクヨム様・ノベルアッププラス様にも掲載しています。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる