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後日譚 王の側近と王妃の侍女
クレマン・フォン・ラヴァール
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午後に差し掛かる時間に、ラシェルは王宮の門を後にした。
昼になっても冷えたままの石畳に、王家の馬車の車輪と蹄音が静かに響く。
王妃の采配で身支度を整えたラシェルは、簡素ながら品のある外套に身を包み、澄んだ冬の空気を静かに吸い込んでいた。
向かうのは、かつて自分が暮らした家――王都にあるラヴァール家の邸。
久方ぶりのその帰路は、懐かしさと、淡い緊張が入り混じっていた。
(……九年振りなんて。クレマン兄様は、どんな顔をするかしら)
やがて、懐かしい通りの奥に、馴染みのある石造りの屋敷が見えてくる。
整えられた扉の前に、家を出た時と変わらず、紋章が掲げられていた。
門前で馬車を下り、御者に別れを告げると、ラシェルは意を決して扉を叩いた。
応対したのは、壮年の兵だった。ラシェルの顔を見て目を丸くする。
「……ああ、姫様……! すぐに……お通しいたします!」
慌ただしく招き入れられる。
廊下の石は冷たく、家の中は静まり返っていた。
玄関広間に通されたラシェルが外套を脱ぎかけた、その時だった。
「……ラシェル」
その低く落ち着いた声は、二階から階段を下りてくるクレマンのものだった。
変わらぬ整った金髪と、やや痩せた頬。
ヴィンセントとラシェルとは少し違う系統の、しかし美男ではある。
ラシェルの記憶より少しだけ、疲れたように見える顔。
けれど、その眼差しは相変わらず鋭かったが、やはり昔から知っている兄だった。
階段を下りきると、クレマンはラシェルの正面に立つ。
二人は、九年ぶりに、真正面から向き合った。
昔、長兄ヴィンセントが五年振りの帰郷した時、自分はひどく憤りを感じたが、クレマンも、今の自分に対して同じように思っている事だろう……。
ラシェルは、一礼しながら言った。
「ご無沙汰しております、クレマンお兄様。……お手紙、拝見しました」
クレマンは、しばしラシェルをじっと見つめてから、短く言った。
「……話そう。あまり、時間は取れぬがな」
その口調は固いままだったが、玄関に入った冷気を遮るように、クレマンは扉を閉めてくれた。
静かな応接間へと、二人は入った。
以前は無かった濃青の絨毯に、重厚な革張りの椅子。
暖炉の薪は赤々と燃えていたが、室内の空気はどこかひんやりとしている。
ラシェルは椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばしていた。
その向かい、対になる椅子にクレマンが腰かけ、足を組む。
「……馬鹿な真似をしたものだな」
最初の一言が、それだった。
怒鳴らず、嘲らず。ただ、低く、疲れたような声。
ラシェルは眉一つ動かさず、静かに目を伏せた。
「……私も、そう思います……」
「一つ確認するが、ヴィンセント……兄上が、関わってはいないんだな?」
「……あの人の事は、私は、もう、何もわかりません」
その言葉を聞いて、クレマンは安堵したように一つ息を吐いた。
「なら、どうしてあんなことをしたんだ? あの教会の記録……。君の子が、黒髪蒼眼だと言う噂も聞こえている。まさか、陛下の庶子ではあるまいな」
「なんて事を仰るんですか! 子どもの父親は、ヘーンブルグ出身のホープ・ダークです」
「……なるほど、ヘーンブルグ出身か。だから、父親が黒髪だと」
「はい、その通りです」
再び、クレマンの瞳に疑いの色が浮かぶ。
クレマンは、かつてヴィンセントがヘーンブルグ領主として左遷されたことを知っているのだろう。
だが、そのことは結局口に出されなかった。
「では、何故、ホープ・ダークとの婚姻手続きも通さず、フォン・ラヴァールの名を使ったんだ」
淡々と追及される。
ラシェルは、用意していた言葉を、怯まずに口にした。
「……ホープとの婚姻は、貴族の法では許されませんでした。ならば、私はせめて母として息子に何か残したかったの。私はまだ、ラヴァール家の籍にあります。……私の名を与えることだけは、できたから」
クレマンの瞳が、一瞬揺れた。
「それは、ラヴァール家の名を、盾にしたということだ」
「盾というより、証です。……あの子が、この世界に、誰かに愛されて生まれたという証が、欲しかったんです」
「綺麗事を。……子どもに情を注ぐことと、名を利用することは別だ」
クレマンは、椅子の肘に肘を乗せ、じっと妹を見つめる。
「お前は昔から、氷派の娘だった。ヴィンセント兄さんに噛みついた時も、私と同じ理屈で動いた。なのに今、『証』だの『想い』だの……どこで、変わってしまったんだ? ラシェル」
その言葉に、ラシェルは微かに息をはいた。
「……シルヴィア王妃に出会ったから、です。あの方は、誰よりも王妃としての秩序を求めながら、同時に、一人の女として愛を貫こうとしていました。私、シルヴィア様に出会って……ようやく、心を赦された気がしたの」
クレマンは暫く黙っていた。
炎の揺らぎだけが、二人の沈黙の間を満たす。
「……まるで別人だな。お前が氷派の秩序を乱すなんて、昔なら考えられなかった」
ラシェルは、苦笑する。
「私だって、昔のままなら、今の自分を許せないと思うわ」
クレマンは目を伏せ、深く息を吐いた。
「……今は保留にしておく。だが、王家がこの件にどう関与するか。それ次第だ」
そこまで言って、クレマンは視線を上げた。
その蒼い瞳には、凍ったような理性が宿っていた。
「ラシェル、お前はもう、ラヴァール家ではないと心得ろ。名を残すことは勝手だ。だが、その名に、これ以上私情を乗せるな。ルークはラヴァールの継承者ではない。……それだけは、肝に銘じておけ」
ラシェルは、痛みを堪えるように瞼を伏せる。
けれど、否定はしなかった。
クレマンの言葉は冷たいが、そこに兄なりの線引きの優しさがあることを、どこかで感じた。
「……わかってます。――クレマンお兄様、私たちは、別の道を歩んでしまった。でもお兄様が、私を否定しなかったこと……私、忘れないです」
クレマンは何も返さなかった。
ただ、静かに立ち上がる。
「……扉まで送らせよう。今の時間なら、街門はまだ開いている」
背を向けるクレマンに、ラシェルは一礼して従う。
すれ違いはあっても、そこには兄妹としての、最後の会話があった。
そして、その翌朝。
クレマンの執務机には、王宮の紋章が記された封書が届けられていた。
――ギリアン王からの、公式書簡。
内容はとても簡潔だった。
『本件は、家門の範疇に属する問題と認め、王家は関与しない』
クレマンはそれを読み終えると、無言で立ち上がり、窓の外を見つめた。
妹ラシェルの姿が、昔のように、まだどこか庭の片隅にあるような気がして。
(……これで、全ては私の判断に委ねられた、か)
静かな朝の光の中、クレマンはただ一つ、ラヴァールの名が穢されぬことを願っていた。
昼になっても冷えたままの石畳に、王家の馬車の車輪と蹄音が静かに響く。
王妃の采配で身支度を整えたラシェルは、簡素ながら品のある外套に身を包み、澄んだ冬の空気を静かに吸い込んでいた。
向かうのは、かつて自分が暮らした家――王都にあるラヴァール家の邸。
久方ぶりのその帰路は、懐かしさと、淡い緊張が入り混じっていた。
(……九年振りなんて。クレマン兄様は、どんな顔をするかしら)
やがて、懐かしい通りの奥に、馴染みのある石造りの屋敷が見えてくる。
整えられた扉の前に、家を出た時と変わらず、紋章が掲げられていた。
門前で馬車を下り、御者に別れを告げると、ラシェルは意を決して扉を叩いた。
応対したのは、壮年の兵だった。ラシェルの顔を見て目を丸くする。
「……ああ、姫様……! すぐに……お通しいたします!」
慌ただしく招き入れられる。
廊下の石は冷たく、家の中は静まり返っていた。
玄関広間に通されたラシェルが外套を脱ぎかけた、その時だった。
「……ラシェル」
その低く落ち着いた声は、二階から階段を下りてくるクレマンのものだった。
変わらぬ整った金髪と、やや痩せた頬。
ヴィンセントとラシェルとは少し違う系統の、しかし美男ではある。
ラシェルの記憶より少しだけ、疲れたように見える顔。
けれど、その眼差しは相変わらず鋭かったが、やはり昔から知っている兄だった。
階段を下りきると、クレマンはラシェルの正面に立つ。
二人は、九年ぶりに、真正面から向き合った。
昔、長兄ヴィンセントが五年振りの帰郷した時、自分はひどく憤りを感じたが、クレマンも、今の自分に対して同じように思っている事だろう……。
ラシェルは、一礼しながら言った。
「ご無沙汰しております、クレマンお兄様。……お手紙、拝見しました」
クレマンは、しばしラシェルをじっと見つめてから、短く言った。
「……話そう。あまり、時間は取れぬがな」
その口調は固いままだったが、玄関に入った冷気を遮るように、クレマンは扉を閉めてくれた。
静かな応接間へと、二人は入った。
以前は無かった濃青の絨毯に、重厚な革張りの椅子。
暖炉の薪は赤々と燃えていたが、室内の空気はどこかひんやりとしている。
ラシェルは椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばしていた。
その向かい、対になる椅子にクレマンが腰かけ、足を組む。
「……馬鹿な真似をしたものだな」
最初の一言が、それだった。
怒鳴らず、嘲らず。ただ、低く、疲れたような声。
ラシェルは眉一つ動かさず、静かに目を伏せた。
「……私も、そう思います……」
「一つ確認するが、ヴィンセント……兄上が、関わってはいないんだな?」
「……あの人の事は、私は、もう、何もわかりません」
その言葉を聞いて、クレマンは安堵したように一つ息を吐いた。
「なら、どうしてあんなことをしたんだ? あの教会の記録……。君の子が、黒髪蒼眼だと言う噂も聞こえている。まさか、陛下の庶子ではあるまいな」
「なんて事を仰るんですか! 子どもの父親は、ヘーンブルグ出身のホープ・ダークです」
「……なるほど、ヘーンブルグ出身か。だから、父親が黒髪だと」
「はい、その通りです」
再び、クレマンの瞳に疑いの色が浮かぶ。
クレマンは、かつてヴィンセントがヘーンブルグ領主として左遷されたことを知っているのだろう。
だが、そのことは結局口に出されなかった。
「では、何故、ホープ・ダークとの婚姻手続きも通さず、フォン・ラヴァールの名を使ったんだ」
淡々と追及される。
ラシェルは、用意していた言葉を、怯まずに口にした。
「……ホープとの婚姻は、貴族の法では許されませんでした。ならば、私はせめて母として息子に何か残したかったの。私はまだ、ラヴァール家の籍にあります。……私の名を与えることだけは、できたから」
クレマンの瞳が、一瞬揺れた。
「それは、ラヴァール家の名を、盾にしたということだ」
「盾というより、証です。……あの子が、この世界に、誰かに愛されて生まれたという証が、欲しかったんです」
「綺麗事を。……子どもに情を注ぐことと、名を利用することは別だ」
クレマンは、椅子の肘に肘を乗せ、じっと妹を見つめる。
「お前は昔から、氷派の娘だった。ヴィンセント兄さんに噛みついた時も、私と同じ理屈で動いた。なのに今、『証』だの『想い』だの……どこで、変わってしまったんだ? ラシェル」
その言葉に、ラシェルは微かに息をはいた。
「……シルヴィア王妃に出会ったから、です。あの方は、誰よりも王妃としての秩序を求めながら、同時に、一人の女として愛を貫こうとしていました。私、シルヴィア様に出会って……ようやく、心を赦された気がしたの」
クレマンは暫く黙っていた。
炎の揺らぎだけが、二人の沈黙の間を満たす。
「……まるで別人だな。お前が氷派の秩序を乱すなんて、昔なら考えられなかった」
ラシェルは、苦笑する。
「私だって、昔のままなら、今の自分を許せないと思うわ」
クレマンは目を伏せ、深く息を吐いた。
「……今は保留にしておく。だが、王家がこの件にどう関与するか。それ次第だ」
そこまで言って、クレマンは視線を上げた。
その蒼い瞳には、凍ったような理性が宿っていた。
「ラシェル、お前はもう、ラヴァール家ではないと心得ろ。名を残すことは勝手だ。だが、その名に、これ以上私情を乗せるな。ルークはラヴァールの継承者ではない。……それだけは、肝に銘じておけ」
ラシェルは、痛みを堪えるように瞼を伏せる。
けれど、否定はしなかった。
クレマンの言葉は冷たいが、そこに兄なりの線引きの優しさがあることを、どこかで感じた。
「……わかってます。――クレマンお兄様、私たちは、別の道を歩んでしまった。でもお兄様が、私を否定しなかったこと……私、忘れないです」
クレマンは何も返さなかった。
ただ、静かに立ち上がる。
「……扉まで送らせよう。今の時間なら、街門はまだ開いている」
背を向けるクレマンに、ラシェルは一礼して従う。
すれ違いはあっても、そこには兄妹としての、最後の会話があった。
そして、その翌朝。
クレマンの執務机には、王宮の紋章が記された封書が届けられていた。
――ギリアン王からの、公式書簡。
内容はとても簡潔だった。
『本件は、家門の範疇に属する問題と認め、王家は関与しない』
クレマンはそれを読み終えると、無言で立ち上がり、窓の外を見つめた。
妹ラシェルの姿が、昔のように、まだどこか庭の片隅にあるような気がして。
(……これで、全ては私の判断に委ねられた、か)
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