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後日譚 王の側近と王妃の侍女
帰る場所
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王都よりも南に位置するヘーンブルグの空は、少しだけ春の気配を帯び始めていた。
馬車の車輪が軋むたびに、湿った土の匂いが、春の気配とともに鼻をかすめる。
ラシェルがアレー村に着いたのは、昼を少し回った頃だった。
馬車は家の前に停まるが、今回は珍しく野次馬たちがいない。それが少し寂しく思えて、なんだか可笑しくなった。
御者に礼を言って荷を下ろすと、ラシェルはひとつ息をついた。
――帰ってきた。
この村に越してきて、まだ一年半。
王都ランスへ戻った時には、感じなかった懐かしさ。
もう、ここは『帰る場所』になっていた。
あの石段を上がり、扉を開ければ、あの人が待っている。
胸の奥が、どこかくすぐったくなるように早鐘を打ち、ラシェルは足を早めた。
家の戸を叩こうとした瞬間に、扉が開いた。
ホープがいた。馬車の音を聞いて、ちょうど出迎えに出ようとしていたのだろう。
ラシェル見た瞬間、その顔が、安堵と喜びで綻ぶ。
「――おかえり!」
「……ただい……」
言い終わるより先に、ホープの腕がぎゅっとラシェルを抱き寄せる。
旅の疲れと、胸に詰まっていたものが、ようやく静かに解けていく。
「ルークは?」
「今、寝てるよ。朝から外で走り回って、さっきお粥を食べたら、ぱたんと寝ちゃったよ」
「じゃあ……起こさないように、そっと見るわ」
家の中はいつもと変わらず、暖炉の匂いと温もりがあった。
ラシェルは、そっとルークの寝かされている部屋を覗く。
寝台の上のルークは、大きな毛布を掛けられて、すやすやと眠っていた。
ホープと同じ、少し波打った黒髪。
幼い頬はほんのり紅く、口は少し開いている。きゅっと握られた手は、両方とも毛布からはみ出していた。
その寝顔を見た瞬間、ラシェルの瞳に、涙が浮かんだ。
帰ってきたのだ、と、改めて実感した。
――村じゃなかった。
ここ、夫と子どものいる場所こそが、『帰る場所』だと気が付いた。
* * * * *
翌朝、ラシェルはひとりで村を歩いた。
寄り合いの時間より少し早い。
風はまだ冷たく、霜が残る地面を踏みしめるたびに、しっとりとした湿気が靴底に絡んだ。
けれど、その足取りは軽かった。
すっかり顔見知りになった村人たちが、皆すれ違いざまに声をかけてくれる。
噂を聞いている者も、そうでない者も、いつの間にか、身内のように接してくれていた。
「おかえりー、ラシェルさん!」
畑の隅から声がかかる。
ラシェルは振り返って微笑み、深く頭を下げた。
「ただいま戻りました。ご心配をおかけして……」
「いやいや、無事で何より。ルーク坊や、もうすぐ一歳だね。よく歩くようになったね」
「最近は、おしゃべりも上手になってきました」
そんな、何気ない会話の中にも、ラシェルは微かに変化を感じ取っていた。
この村の人々は、ラシェルが貴族令嬢で、王妃の侍女だったことを知っている。
けれど、詮索もせず、すっかり、ラシェルを村人として受け入れている。
(……ありがたいわ)
風に髪が揺れる。
空は少しずつ、春の色を帯びはじめている。
けれど、その穏やかさの裏で、ラシェルの心の奥には、わずかな澱のようなものが残っていた。
(……ルークの名前。ホープが父であることを、記録には残せなかった)
あの子がもう少し大きくなれば、きっと、父親の名前がないことに気付くだろう。
『父の名がない』という事実は、いつかルークの心に影を落とすかもしれない。
(――だけど、それが何だって言うの?)
ラシェルは立ち止まり、青空を仰いだ。
(ルークがどんな名を持っていようと、どこで生まれようと、それが、ルークの価値を決めるわけじゃない)
胸の中で、何かを振り切るように深く息を吐く。
(名前で守れなくても、愛で伝えられることがあるはず。愛されて生まれてきたこと。――それだけは、誰にも否定させない)
ホープとルークは、確かに血が繋がっている。
だか、たとえもし、血が繋がらなくとも、父が子として、そして、子が父として、その想いを選べばそれで良いのではないか。
確かに、シルヴィアの生き様からそう教わった。
そう、思った。
心の中の氷の鎖は融けていき、ラシェルは再び歩き出す。
土の道の先、風に揺れる木々の音が、遠くでやさしく響いていた。
* * * * *
――だが、ラシェルがその道を歩いていた頃。
王都では、一つの計画が静かに動き始めていた。
ヴァロニア王ギリアンの執務室。
彼は側近を呼び、机上に一枚の書類を置いた。
その上に記された名は――
Noxiale
ヴァロニアとシーランドの、どちらの貴族名簿にも載っていない名前。
まだ、誰もその意図を知らぬまま。静かに、その時を待っていた。
馬車の車輪が軋むたびに、湿った土の匂いが、春の気配とともに鼻をかすめる。
ラシェルがアレー村に着いたのは、昼を少し回った頃だった。
馬車は家の前に停まるが、今回は珍しく野次馬たちがいない。それが少し寂しく思えて、なんだか可笑しくなった。
御者に礼を言って荷を下ろすと、ラシェルはひとつ息をついた。
――帰ってきた。
この村に越してきて、まだ一年半。
王都ランスへ戻った時には、感じなかった懐かしさ。
もう、ここは『帰る場所』になっていた。
あの石段を上がり、扉を開ければ、あの人が待っている。
胸の奥が、どこかくすぐったくなるように早鐘を打ち、ラシェルは足を早めた。
家の戸を叩こうとした瞬間に、扉が開いた。
ホープがいた。馬車の音を聞いて、ちょうど出迎えに出ようとしていたのだろう。
ラシェル見た瞬間、その顔が、安堵と喜びで綻ぶ。
「――おかえり!」
「……ただい……」
言い終わるより先に、ホープの腕がぎゅっとラシェルを抱き寄せる。
旅の疲れと、胸に詰まっていたものが、ようやく静かに解けていく。
「ルークは?」
「今、寝てるよ。朝から外で走り回って、さっきお粥を食べたら、ぱたんと寝ちゃったよ」
「じゃあ……起こさないように、そっと見るわ」
家の中はいつもと変わらず、暖炉の匂いと温もりがあった。
ラシェルは、そっとルークの寝かされている部屋を覗く。
寝台の上のルークは、大きな毛布を掛けられて、すやすやと眠っていた。
ホープと同じ、少し波打った黒髪。
幼い頬はほんのり紅く、口は少し開いている。きゅっと握られた手は、両方とも毛布からはみ出していた。
その寝顔を見た瞬間、ラシェルの瞳に、涙が浮かんだ。
帰ってきたのだ、と、改めて実感した。
――村じゃなかった。
ここ、夫と子どものいる場所こそが、『帰る場所』だと気が付いた。
* * * * *
翌朝、ラシェルはひとりで村を歩いた。
寄り合いの時間より少し早い。
風はまだ冷たく、霜が残る地面を踏みしめるたびに、しっとりとした湿気が靴底に絡んだ。
けれど、その足取りは軽かった。
すっかり顔見知りになった村人たちが、皆すれ違いざまに声をかけてくれる。
噂を聞いている者も、そうでない者も、いつの間にか、身内のように接してくれていた。
「おかえりー、ラシェルさん!」
畑の隅から声がかかる。
ラシェルは振り返って微笑み、深く頭を下げた。
「ただいま戻りました。ご心配をおかけして……」
「いやいや、無事で何より。ルーク坊や、もうすぐ一歳だね。よく歩くようになったね」
「最近は、おしゃべりも上手になってきました」
そんな、何気ない会話の中にも、ラシェルは微かに変化を感じ取っていた。
この村の人々は、ラシェルが貴族令嬢で、王妃の侍女だったことを知っている。
けれど、詮索もせず、すっかり、ラシェルを村人として受け入れている。
(……ありがたいわ)
風に髪が揺れる。
空は少しずつ、春の色を帯びはじめている。
けれど、その穏やかさの裏で、ラシェルの心の奥には、わずかな澱のようなものが残っていた。
(……ルークの名前。ホープが父であることを、記録には残せなかった)
あの子がもう少し大きくなれば、きっと、父親の名前がないことに気付くだろう。
『父の名がない』という事実は、いつかルークの心に影を落とすかもしれない。
(――だけど、それが何だって言うの?)
ラシェルは立ち止まり、青空を仰いだ。
(ルークがどんな名を持っていようと、どこで生まれようと、それが、ルークの価値を決めるわけじゃない)
胸の中で、何かを振り切るように深く息を吐く。
(名前で守れなくても、愛で伝えられることがあるはず。愛されて生まれてきたこと。――それだけは、誰にも否定させない)
ホープとルークは、確かに血が繋がっている。
だか、たとえもし、血が繋がらなくとも、父が子として、そして、子が父として、その想いを選べばそれで良いのではないか。
確かに、シルヴィアの生き様からそう教わった。
そう、思った。
心の中の氷の鎖は融けていき、ラシェルは再び歩き出す。
土の道の先、風に揺れる木々の音が、遠くでやさしく響いていた。
* * * * *
――だが、ラシェルがその道を歩いていた頃。
王都では、一つの計画が静かに動き始めていた。
ヴァロニア王ギリアンの執務室。
彼は側近を呼び、机上に一枚の書類を置いた。
その上に記された名は――
Noxiale
ヴァロニアとシーランドの、どちらの貴族名簿にも載っていない名前。
まだ、誰もその意図を知らぬまま。静かに、その時を待っていた。
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