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第2章 金色の獅子
第14話 従兄弟
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王宮の裏庭に、淡い午後の光が差していた。
砂地の訓練場には剣の音もなく、ただ人の声だけがちらついている。
石造りの回廊が南風に晒され、庭の片隅では燕が低く飛んでいた。
古い訓練器具が日差しの中に影を落とし、草地の端では侍従の少年が手入れをしている。
謁見を終えたアサドは、ホープを待つ間、ゆっくりと庭を歩いていた。
数日滞在したノクシアル邸でも王宮でも、アサドはオス・ローとの空気の違いに馴染みきれないままだ。
外れの柱の陰にひっそりと立つと、涼しげな影が肩を包んだ。
ノアという名を名乗りはじめてからも、まだ日が浅い。
本当の名ではないその響きが、まるで仮面のように、彼自身の輪郭を曖昧にしていた。
けれど、それが必要なことだと、理解もしていた。
視線の先では、四人ほどの騎士候補生が談笑している。
金髪の青年たち。その中心にひとり、黒髪の少年がいた。
彼は笑っていた。何でもないような顔で、軽く首を傾けながら。
まだホープから直接紹介されていないが、血のつながりはあるはずだ。多分、黒髪の彼が――ルーク・ノクシアル。ホープの息子。
王都に来てから、ホープとギリアン王以外に初めて見る黒髪だった。
本来であれば、王の側近の家の嫡男として、誰より丁重に扱われる立場のはずだ。
けれど今、その姿は明らかに輪の外側にあった。
「おや? 副官様のお坊ちゃま、自ら剣でも磨きに来たのか?」
「でも触ったら汚れちゃうんじゃない? 平民出なんでしょ、お父様」
口調はどこまでも柔らかかったが、そこに込められた意図は明白だった。
アサドには、それ以上のものが聞こえていた。
彼の持つ力で、言葉の奥――心の声が、訓練場の空気よりも冷たく流れ込んでくる。
(……こいつ、顔がいいだけで持ち上げられやがって)
(どうせ父親の後ろ盾がなかったら、叙勲なんてされてないのに)
(女どもにはウケてるみたいだが、男からしたら邪魔だ)
心ない声が、心から聞こえる。
憎しみでもなく、ただ冷たい事実のように響く。
それでも、黒髪の少年は笑っていた。
軽く肩をすくめ、苦笑いを浮かべて場をやり過ごしている。
だが、その心の底からも、わずかな声が漏れていた。
(……そんなこと、わかってるよ。僕だって、選ばれたかったわけじゃない)
アサドは何も言わず、柱の陰で静かに唇を結んでいた。
ウサマなら、怒りで助けに飛び出していたかもしれない。
けれど、アサドはその濁りの行き着く先を、最後まで見届けたかった。
心の声がどこまで歪むのかを、知りたかった。
どうして、人の言葉よりも、心のほうがこんなにも残酷なのだろう。
やがて、からかいの輪は緩やかに解けた。
少年が軽く一礼し、手を振ってその場を離れる。
その後ろ姿に、アサドは一瞬、既視感を覚えた。
――ウサマ……?
喉の奥が微かに震えた。
けれど、違う。
振り返った少年の顔は、たしかに似ていたが、決して同じではなかった。
曲のある黒髪も、背の高さも、体格まで似ている。だが、瞳が、違う。
海の底のような、冷たい蒼を湛えていた。
そのまま視線が交錯した。
黒髪の少年はふっと笑い、迷いなくアサドの方へと歩み寄ってきた。
足音は軽いはずなのに、不思議と胸に響いた。
「……見てた? さっきの」
その声はさらりとしていたが、まっすぐだった。
アサドは目を逸らさず、返した。
「……すまない。止めるべきだった」
「いや。別にいいよ」
少年の笑みは、力を抜いたように、どこか無防備だった。
あれだけのことを言われた直後とは思えないほどに、静かで、やわらかかった。
「あいつらは、僕自身を見て何か言ってるわけじゃないし」
その言葉に、アサドはすぐには答えられなかった。
「……あ、ごめん、変なこと言ったね。初対面なのに。気にしないで」
少年が踵を返しかけた、その時だった。
「ルーク。そこにいたか」
響き渡る声。
ホープ・ノクシアルが、穏やかな足取りで中庭に現れた。
アサドに向けて、やわらかく微笑む。
「ノア。ちょうどよかった。……紹介が遅れたね。この子が、私の息子だ」
「君が、ノアさん……?」
少年が振り返り、あらためて向き直る。
その瞳には、さっきまでとは違う色が灯っていた。
「ルーク・ノクシアルです。見ての通り、あんまり立派な息子じゃないけど……よろしく」
「……僕は、アサドです。今は、ノアと名乗っています」
二人の名が、空気の中で交差する。
その瞬間、互いの影が、静かに触れ合った気がした。
砂地の訓練場には剣の音もなく、ただ人の声だけがちらついている。
石造りの回廊が南風に晒され、庭の片隅では燕が低く飛んでいた。
古い訓練器具が日差しの中に影を落とし、草地の端では侍従の少年が手入れをしている。
謁見を終えたアサドは、ホープを待つ間、ゆっくりと庭を歩いていた。
数日滞在したノクシアル邸でも王宮でも、アサドはオス・ローとの空気の違いに馴染みきれないままだ。
外れの柱の陰にひっそりと立つと、涼しげな影が肩を包んだ。
ノアという名を名乗りはじめてからも、まだ日が浅い。
本当の名ではないその響きが、まるで仮面のように、彼自身の輪郭を曖昧にしていた。
けれど、それが必要なことだと、理解もしていた。
視線の先では、四人ほどの騎士候補生が談笑している。
金髪の青年たち。その中心にひとり、黒髪の少年がいた。
彼は笑っていた。何でもないような顔で、軽く首を傾けながら。
まだホープから直接紹介されていないが、血のつながりはあるはずだ。多分、黒髪の彼が――ルーク・ノクシアル。ホープの息子。
王都に来てから、ホープとギリアン王以外に初めて見る黒髪だった。
本来であれば、王の側近の家の嫡男として、誰より丁重に扱われる立場のはずだ。
けれど今、その姿は明らかに輪の外側にあった。
「おや? 副官様のお坊ちゃま、自ら剣でも磨きに来たのか?」
「でも触ったら汚れちゃうんじゃない? 平民出なんでしょ、お父様」
口調はどこまでも柔らかかったが、そこに込められた意図は明白だった。
アサドには、それ以上のものが聞こえていた。
彼の持つ力で、言葉の奥――心の声が、訓練場の空気よりも冷たく流れ込んでくる。
(……こいつ、顔がいいだけで持ち上げられやがって)
(どうせ父親の後ろ盾がなかったら、叙勲なんてされてないのに)
(女どもにはウケてるみたいだが、男からしたら邪魔だ)
心ない声が、心から聞こえる。
憎しみでもなく、ただ冷たい事実のように響く。
それでも、黒髪の少年は笑っていた。
軽く肩をすくめ、苦笑いを浮かべて場をやり過ごしている。
だが、その心の底からも、わずかな声が漏れていた。
(……そんなこと、わかってるよ。僕だって、選ばれたかったわけじゃない)
アサドは何も言わず、柱の陰で静かに唇を結んでいた。
ウサマなら、怒りで助けに飛び出していたかもしれない。
けれど、アサドはその濁りの行き着く先を、最後まで見届けたかった。
心の声がどこまで歪むのかを、知りたかった。
どうして、人の言葉よりも、心のほうがこんなにも残酷なのだろう。
やがて、からかいの輪は緩やかに解けた。
少年が軽く一礼し、手を振ってその場を離れる。
その後ろ姿に、アサドは一瞬、既視感を覚えた。
――ウサマ……?
喉の奥が微かに震えた。
けれど、違う。
振り返った少年の顔は、たしかに似ていたが、決して同じではなかった。
曲のある黒髪も、背の高さも、体格まで似ている。だが、瞳が、違う。
海の底のような、冷たい蒼を湛えていた。
そのまま視線が交錯した。
黒髪の少年はふっと笑い、迷いなくアサドの方へと歩み寄ってきた。
足音は軽いはずなのに、不思議と胸に響いた。
「……見てた? さっきの」
その声はさらりとしていたが、まっすぐだった。
アサドは目を逸らさず、返した。
「……すまない。止めるべきだった」
「いや。別にいいよ」
少年の笑みは、力を抜いたように、どこか無防備だった。
あれだけのことを言われた直後とは思えないほどに、静かで、やわらかかった。
「あいつらは、僕自身を見て何か言ってるわけじゃないし」
その言葉に、アサドはすぐには答えられなかった。
「……あ、ごめん、変なこと言ったね。初対面なのに。気にしないで」
少年が踵を返しかけた、その時だった。
「ルーク。そこにいたか」
響き渡る声。
ホープ・ノクシアルが、穏やかな足取りで中庭に現れた。
アサドに向けて、やわらかく微笑む。
「ノア。ちょうどよかった。……紹介が遅れたね。この子が、私の息子だ」
「君が、ノアさん……?」
少年が振り返り、あらためて向き直る。
その瞳には、さっきまでとは違う色が灯っていた。
「ルーク・ノクシアルです。見ての通り、あんまり立派な息子じゃないけど……よろしく」
「……僕は、アサドです。今は、ノアと名乗っています」
二人の名が、空気の中で交差する。
その瞬間、互いの影が、静かに触れ合った気がした。
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