毒素擬人化小説『ウミヘビのスープ』 〜十の賢者と百の猛毒が、寄生菌バイオハザード鎮圧を目指すSFファンタジー〜 

天海二色

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第二十三章 失楽園

第495話 《モノフルオロ酢酸(C2H3FO2)》

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 薄ら笑いを浮かべる男の登場に、タリウムは一歩後ろに後ずさって身構える。
 男の名は、《モノフルオロ酢酸(C2H3FO2)》。ウミヘビの間では通称として『モノ』と呼ばれる彼の所属は、
 彼の宿す強力な毒素はかつて、人間の間で殺鼠剤や殺虫剤として扱われていたもの。しかし人間の用途が主にそれらだった、と言うだけで、彼の毒素は代謝に重要な『クエン酸回路』を阻害する事で効果を発揮する為、この代謝に依存する生き物ならば哺乳類だろうと植物だろうとその命を奪ってしまう。
 タリウムはいつからモノが【檻】に収監されているのか知らないが、5年前には既に居て、そして一度も外へ出た事がないのは知っている。

「脱獄って、どうしてそう思ったんスか」

 不穏な単語を聞き流す事ができず、タリウムは訊ねる。
 モノは【檻】のガラスへ歩みよりながら答えた。

「警報が鳴り続けている。異常事態だってこたぁわかる。そんな中、お前はクスシも連れずにここに来た。第一課の連中もいない。卵型機器カプセルが使えなくなってっし、電気系統……は灯りがついてっから違うな。アレだ、オンライン系が全部駄目なんじゃねぇの?」

 なかなかに洞察力がある。
 【檻】に居た頃、タリウムは自身がほとんど喋れる状態でなかった為に、モノとろくに会話を交わした事がなく、為人を把握していなかった。だが、先の発言だけで頭の回転が早さと分析力を持っている事が伝わる。
 しかしそうなれば、彼がいつまでも【檻】にいる事実が尚のこと不気味に感じた。る
 周囲を観察でき読み取れるほど聡明ならば、クスシの望む言動をこなす事も、規則を守る事も、できるだろうに。

「つまりクスシの監視が行き渡っていない、絶好の機会だってこったァ! ただ一人で脱獄するにゃあ心許ないから、俺に手ぇ貸して欲しいんだろ? 俺なら誰が障害になっても、みぃんな殺せるもんなぁ!」

 唾を飛ばし、興奮した様子で喋るモノを前に、タリウムの背筋に悪寒が走る。
 恐らく彼は、塩素クロールのような破壊衝動を抱いている。いや、もしかしたらもっと質が悪い――

「まずはこう、ブチブチってさ! 肉を引き千切ると気持ちいいよなぁ! あっ、その前に皮膚だな! 頭から足先までずる~って一発で捲れるとこう、笑いが止まらないって言うかすっきりするって言うか! それから胸に穴空けて血をピューピュー吹き出させてさ! バタバタ魚みてぇに跳ねるんだよなぁ! 生きた魚とか見た事ねぇけど! だはははは!!」

 快楽殺人シリアルキラー
 命を奪う過程そのものに悦楽を覚える、異常者。
 尤も人造人間ホムンクルスであるウミヘビである以上、“そう”設定して造られた可能性も大いに有り得るが……どちらにせよこれでは外へ出る許可が出ないのも頷ける。

「おっと、心配すんな! 同族にゃ手ぇ出さねぇよ! ウミヘビって千切った端からっちまうから、つまんねぇのよ! 実際さぁ! 【檻】の奴らとは喧嘩だってしたことねぇんだぜ!? だからお前も安心して俺を連れ出せよ! なぁ!」

 モノに請われても、タリウムは何も答えられない。
 格の違う強者が醸し出す迫力に圧倒され、金縛りにあったかの如く身体を動かせなかったからだ。

「なぁ、なぁ、なぁ!」

 バンッ!
 話しているうちに気分が昂ったモノの分厚い手の平が、ガラスへ叩きるけられる。衝撃を受けたガラスは蜘蛛の巣状の亀裂が走り、歪んだ。
 しかし【檻】のガラスは特殊性で、自己修復機能を持つ。例え割れようとも、時間経過によってみるみるうちに……塞がらなかった。

「あん?」

 思ってもみなかった出来事に、モノが白眼を丸くする。
 ――【檻】のガラスの自己修復機能は、電子機器が正常に稼働していて始めて機能する代物。原理としては転送装置と似ており、分子レベルに分解した対象を転送し、再構築する時と同じように、負傷箇所を分子レベルで分解しガラスを再構築しているのだ。
 この機能を阻害されないよう、【檻】に使用される機器は全て独立で機能するようになっている。地下という事もあって、電波妨害やハッキングの類もまず作用しない。
 だが、地上で繰り広げられている生物災害バイオハザード――赤い塔から投げ込まれる『珊瑚』の塊はネグラのほぼ全域に菌床を張り巡らせ、ここ【檻】のある地下にも、着実に影響を及ぼしていた。

 結果、ガラスは本来の役割を果たさないまま砕け、飛び散り、廊下へ雨のように降り注いだ。
 その光景を見たタリウムは目を見開き、大きく後ろへ下がる。

「ははっ! 壊れたぞ、これ! お前が仕組んだのか? なんだ、言ってくれりゃよかったのによぉ!」

 笑い飛ばしながら、モノは一歩踏み出した。
 その所作だけでタリウムと同じ場所、【檻】の外、廊下へ出てしまう。
 ばくばくと、胸の奥にある《卵》が早鐘を打っている事を自覚するタリウム。ガラス一枚という薄い、けれど絶対的だった壁がなくなってしまった今、自分を守るものは何もない。せめて抽射器があれば時間を稼げたかもしれないが、それさえも、ない。
 ガラスが割れた音を聞き、【檻】の中でウミヘビが目覚め始める。だがガラスを割った犯人がモノで、彼が先導を切っているのを見るや否や、再び目を瞑った。

 誰も彼も、モノの前に立ちたくないのだ。モノは「ウミヘビには手を出さない」と言い張っているが、それは廃棄処分含む厳しい罰則が課される現実リアルでの話。
 卵型機器カプセルを通し入り浸っている仮想空間では、何の歯止めも効かせずに、モノは全てを蹂躙する。
 つまり皆が皆、知っているのだ。気分一つで弄んでくる、彼の嗜虐性を。

「タリウム!」

 暗澹とした空気が蔓延る中、それを打ち払うかのような明朗な声が響いた。
 それは階段を木の板で滑り急降下してきた、シアナミドの声だ。
 彼はモノが【檻】の外に立っている姿を見たと同時に、硬直して動けなくなっているタリウムの腕を掴み引き寄せる。

「逃げますよ! 逃げますよ!」

 それは現状把握よりも何よりも、モノからの逃走を最優先に考えての事。
 【檻】に押し込まれていた危険因子、それも第三課のウミヘビ。優る要素が何一つないうえに、話が通じるかも怪しい。
 逃走以外の選択肢がないのだ。
 逃走できるのかさえ、わからないが。

「何処に逃げるっつぅんだよ」

 しかし階段へ辿り着く前に、唯一の出口を塞ぐかのように、ニコチンが降りてくる。

「逃げ場なんて、何処にもありゃしねぇのに」





▼△▼

補足

モノフルオロ酢酸(C2H3FO2)
特定毒物の一つ。形態としては無色無臭の個体。
主な用途は殺鼠剤だが、作中で書かれているようにクエン酸回路を重要な代謝とする生き物は何だろうと効く。動物も植物も関係なく。
実際、モノフルオロ酢酸の類似の毒素を宿す植物ジフブラールの周囲には他の植物が生えず、土が剥き出しになっているのだとか。

凶悪な毒素なのだが、摂取すると人体は酢酸と勘違いしあっさり取り込んでしまう。怖い。
またモノフルオロ酢酸アミド(殺虫剤)やモノフルオロ酢酸ナトリウム(殺鼠剤)などの派生もあるが、こちらも特定毒物で現在は使用が禁止されいる。

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