毒素擬人化小説『ウミヘビのスープ』 〜十の賢者と百の猛毒が、寄生菌バイオハザード鎮圧を目指すSFファンタジー〜 

天海二色

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第二十六章 交差する思惑

第552話 ルイ院長の選択

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 同日。西暦2320年11月2日。
 パリの西に位置するこの街は、言わずと知れた世界遺産ヴェルサイユ宮殿を抱え、日夜観光客で賑わっている。だが中心部を離れれば、古い並木道と石造りの住宅が広がり、どこか時間の流れが緩やかだ。
 その穏やかな景観の中に、フランス感染病棟はひっそりと建っていた。
 そこに黄色いタクシーがやってきて、病棟敷地内のタクシープールへ緩く停車する。降りてきたのは、フランス感染病棟の院長。
 白鳥のシルエットが描かれたフェイスマスクを付けた、ルイであった。

(やっと戻れたか……)

 見慣れた病棟の正面玄関を眺めながら、ルイは疲労が滲んだ息を吐く。
 特殊学会の会場。ベルリンにあるドイツ感染病棟で巻き起こった、大規模な生物災害バイオハザード。それに巻き込まれたルイは、昨晩遅くまで感染者及び負傷者の救護に尽力していた。合間にメディアからの取材要請や、警察からの事情聴取も求められ、それをいなすのにも気力を使ったものだ。
 その日は結局、ドイツ感染病棟の寄宿舎の一室を借りて仮眠を取った。そして目が覚めた後はエミールから「相談があります」と引き止められ、帰国直前まで話し込む羽目になった。

 ――西棟が汚染されてしまったのもあり、病床が足りないのであります! どうか、ルイ院長のお力を貸して頂けないでしょうか……!

 医師として人として、あの切羽詰まった声を冷たく突っぱねる事などできる筈もない。
 ただの負傷者ならばドイツ国内の病院へ転院させればいいが、感染者、それもステージ3以上となればそうはいかない。入院させるには徹底的な感染対策及び、ステージ4へ進行した場合の対策が必要。そして学会に居た院長の中で、ドイツから最も近い感染病棟から訪れたのが、ルイだ。
 距離からしても設備からしても、真っ先にルイを頼って来るのは自然な事だった。

(帰国前に部下へ必要な指示は出したが……。吾輩も直、に確認せねばなるまいな。全く、いつになったらひと段落できるやら)

 世界ニュースではクスシのバッシングやら、国連の過剰な支援やらで騒がれているようだが、ルイにそれを追う暇などない。
 間もなく大量の感染者が搬送されてくる。
 その受け入れ準備を整える為、彼はひとまず院長室へ向かった。
 院長室の中は、ルイが最後に出た時と寸分違わぬほど整然としていた。
 机上の書類、棚に並ぶファイル、電子端末の並び。それらはまるで、モデルルームのように秩序立っている。
 ただひとつ、異変があった。院長机の背後にある大きな窓。そのカーテンだけが、きっちりと閉め切られていたのだ。

(誰か、清掃でも入ったのだろうか?)

 小さな違和感を覚えつつ、ルイは電気を点け、カーテンに触れることもなく院長席へ向かう。
 今はそのひと手間に時間を割く余裕もない。

(まずは現状の整理であるな。医療物資の残量、空床の確保、スタッフのシフト再調整、それから受け入れる患者の優先順位……)

 ぬっ
 ルイの背後。カーテンの隙間から、真っ白い手がぬるりと伸びる。だが、起動したパソコンに映し出される、大量のデータへ視線を注いでいたルイは気付かない。
 間もなく白い手は――ルイの首を、真後ろから掴んだ。

「……っ!?」

 指が食い込む。気道は辛うじて塞がれておらず呼吸はできるが、声は絞り出せない。
 力をほんの僅かでも強められれば、そのまま意識を刈り取られてしまうだろう。
 ルイはマスクの下で目を大きく見開き、状況の急転に動揺する。

「お静かに。騒がなければ何もいたしません」

 落ち着いた声が、ルイの耳元で囁かれた。聞き覚えのある声音だが、首を固定され身動きが取れない状況では確認のしようがない。

(いや、これは既に、何かされている状態ではないか……!?)

 ルイは心の中で突っ込んだものの、急所を握られている状態で逆らえる筈もなく。かと言って頷いて意思を示そうにも、首はがっちりと固定されている。
 仕方なしに、ルイはパソコンのキーを打ち込む事で意思疎通を図った。

『要望は、何だ?』

 金か。命か。それとも薬か。
 わからないが、兎も角訊くしかない。

「訊きたい事があります、ルイ院長」
(吾輩の事は知っている、と……)
「この病棟で、人を匿う事はできますか?」
(匿う?)

 まさか犯罪者を搬入させたいのかと、ルイは困惑しながらもキーボードを叩く。

『その匿いたいという者は、珊瑚症の感染者か?』
「はい、ステージが進んでいる方です。2人います。それから私を含め3人……合計5人ですね。5人、身を潜められる環境を用意できるでしょうか? あと医療設備も使わせて欲しいです」
(誰だか知らぬが、図々し過ぎやしないか?)
「この病棟で、ステージ5の治療方法を研究したいのです」

 告げられた言葉に、ルイは瞠目した。
 ステージ5の治療。『珊瑚』撲滅を目指す医師の悲願。
 真後ろに立つ声の主は医師なのか。なぜ姿を隠し、脅迫染みた手段を取る必要があるのか。
 何ひとつ見えないというのに、それでも、胸の奥で医師としての本能がざわつく。
 話している内容が真実かさえ、わからないというのに。

「活路が、見えそうなのです。どうかご協力頂きたい。……と、先生が申していました。さぁ、答えをお聞かせください。ルイ院長」

 これはルイにとって、究極の選択であった。
 条件を飲めば犯罪に加担してしまうかもしれない。断ればこのまま首をへし折られてしまうかもしれない。
 しかし殺されること以上に、声の主が言う『活路』が、ルイの心を強く引き寄せてやまない。
 もしもそれが真実ならば、人類は珊瑚症を克服できる。20年もの間、誰も打ち勝てなかった『珊瑚』の脅威を消し去れる。

(……例え匿いたい感染者が、大罪人だとしても)

 ルイは、僅かな希望に――縋った。
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