毒素擬人化小説『ウミヘビのスープ』 〜十の賢者と百の猛毒が、寄生菌バイオハザード鎮圧を目指すSFファンタジー〜 

天海二色

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第十五章 平和が終わる日

第304話 《モルヒネ(C17H19NO3)》

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「はぁ~……」

 人工島アバトンの西に位置する浜辺に設置された、白いベンチ。
 その上にフリッツは腰をおろし、黄地に黒鷲がデザインされたマスクを外した上で、大きな溜め息を吐いていた。
 真っ赤に腫れた右頬を手でさすりながら。

「フリードリヒ先生っ、フリードリヒ先生っ! ほっぺ真っ赤っかですーっ!」

 ラボの外に出てきたフリッツに付き添っていた、幼い容姿をしたウミヘビの尿素カルバミド。彼はフリッツの本名『フリードリヒ』の名を呼びながら、今にも泣きそうな顔で腫れた頬を見詰めている。

「うん。殴られちゃったからねぇ」
「誰にですかぁっ!?」
「『フリードリヒ』さんに」

 この頬の腫れを作ったのはフリッツの本名と同名のクスシ、フリードリヒ。
 10分ほど前。普段は個別研究所に籠り滅多にそこから出てこない彼が、ラボの廊下に出ている所を見かけたものだから、助言を乞いたいフリッツはこの機を逃すまいと声をかけた。そしたら返事の代わりに右ストレートが飛んできたのだ。
 予備動作もなく振り翳された暴力はアイギスの防御が間に合わず、フリッツは正面からモロに喰らってしまうハメになった。

「彼、すごーく機嫌が悪かった。アトロピンが壊れてしまった後なんだ、迂闊に声をかけるべきではなかったね」
「でも関係のない先生に傷を付けるなんてーっ!」
「仕方ないよ。フリードリヒさんは気難しい方だ。機嫌が悪い時はとことん悪い。特にウミヘビに関する事には容赦がない」

 怒りのまま、フリードリヒが暴言と暴力を撒き散らす原因。
 それはウミヘビの一人、アトロピンが壊れてしまったからに他ならない。

「ウミヘビ至上主義、と言うべき人なんだから」

 ◇

(きょ、極端すぎる)

 ウミヘビの為ならば自分の命さえ差し出す気概のフリードリヒに、モーズは内心ドン引きしていた。
 他のクスシから「気難しい」やら「性格が悪い」やら「協調性がない」やら、ネガティブな前情報は聞いていたものの、まさかウミヘビを優先し過ぎるが故の難点だったとは。

「おい。話長引きそうなら俺達は勝手に戻るが?」

 フリードリヒが現れた為に、待ちぼうけを喰らっていたニコチンが口を開く。早くネグラに帰り、アセトアルデヒドと酒でも飲みたいのだろう。

「そうだな……。解散で、いいだろう」
「待て」

 だが解散の許可を出した青洲を押し除け、フリードリヒはずんずんとウミヘビ達の元へ足を運ぶと、真っ先にパラチオンの前に立ち、

「パラチオン、内出血に陥ったと聞いたが経過はどうだ? ん?」

 ガバリと、躊躇なく彼のシャツを捲り上げ素肌を曝け出させた。
 しかもそのまま右の手の平でぺたぺたと触れ始めた。

「なっ!?」
「触診では異常なし。次」
「いきなり何をするんだお前っ!」

 怒りよりも驚愕と困惑で大声をあげるパラチオンを無視し、フリードリヒは次にアセトアルデヒドの方へ顔を向ける。

「アセトアルデヒドも毒素を使ったそうだな。火傷が深部に残っている可能性も……」
「えっ、えっとぉ、僕は何ともないよぉ?」
「だそうだ。ベタベタ触んな」

 すかさずサッとアセトアルデヒドの前に立ち、フリードリヒの触診を防ぐニコチン。
 するとフリードリヒは「丁度いい」と言わんばかりにニコチンの頭やら頬やら腕やら腰やらを、服越しとはいえベタベタと触診を施す。ニコチンは心底嫌そうな顔をしているが、退くとアセトアルデヒドが触られてしまうので大人しくしていた。

「いいや、万が一を考えメンテナンスをするべきだ。後で全員、ネグラの医務室に来るように」
「えぇっ、アッシもかい!? あそこ薬臭くて好きじゃないんだがねぇっ!」
「ヒドラジンは飛行機内か? 彼も呼び付けねば」
「せんせ」

 そこに、5人目のウミヘビが、現れた。

「せんせ。ここにいた、の」

 フリードリヒを追うように、ラボから出てきたのだ。
 モーズが初めて見るそのウミヘビは、紫がかった薄桃色の髪に、紫がかった赤色の瞳を持つ成人男性の姿をしていた。しかし特筆すべきは派手な色素ではない。
 顔立ちだ。
 裏地が蛇の鱗柄の白衣を着崩した状態で肩に引っ掛け、裸足で歩き、眠たげな目をし、厚ぼったい唇をしたそのウミヘビは――美しかった。
 元々ウミヘビは皆、美しい容姿をしているのだが、彼は群を抜いている。遠目からでも輝いて見える美貌を持つ、水銀と並ぶほどに。しかし、美しさの方向性は全く異なる。
 退廃的。
 そう称するのが最も近い。力強く普遍的な美しさを覚える水銀とは逆に、今にも消えてしまいそうな程に頼りなく、散りかけの花のような儚さを覚えるのだ。
 そしてその儚さが、見る者の目を釘付けにさせる。

「《モルヒネ(C17H19NO3)》」

 フリードリヒが口にした、そのウミヘビの名は、《モルヒネ(C17H19NO3)》。
 人間を痛みのない幸せな夢の世界に誘う、麻酔の原料。依存性が非常に高い――麻薬。

「起きたらせんせ、いなかったから。ぼくね、心配した、の」
「心配させてしまって悪かったな。だが、おれがお前を置いて遠くに行く訳がないだろう。安心して眠るといい」
「そ、う?」

 ぺたぺたと砂浜に素足の足跡をつけながら、モルヒネは怠慢な動きでフリードリヒの元へ歩み寄る。

「あら、あら、あら。新しいぼうや、ね」

 その途中でモーズが視界に入ったらしく、モルヒネは眠たげな瞳を彼に向け、真っ白な肌をした両の手を伸ばしてきた。
 直後、モーズは時が止まったかのような錯覚に陥る。
 動けなく、なったのだ。

「ぼうや。ぼくと、遊び、ま、しょう?」

 低く心地の良い声が鼓膜を揺らす度に、頭が痺れる感覚を覚える。肌が粟立つのを感じる。
 挨拶をしなくては。名乗らなくては。遊びとは何を指すのか訊かなければ。ウミヘビに不用意に触れられる事は避けなければ。
 やるべき事などわかっている筈なのに、声が出ない。頭が働かない。身体が動かない。息一つ、できない。
 思考が溶け、ただただモルヒネを見詰める事しか、瞬きさえ忘れて凝視する事しか、蜜のように甘美な囁き声を傾聴する事しか――

「なに粉かけてンだ節操なしが」

 モルヒネの手がモーズへ触れそうになったその時、ニコチンが無慈悲にその手を払い落とす。
 そこでモーズもハッと我に返り、止まっていた呼吸を再開した。

「どう、して? ぼくはただ、ぼうやと仲良くなりたかっただけ、なの」
「玩具が欲しいだけだろ。よく言う」
「そんなこと、ない、わ」

 ニコチンの指摘に対し、不服そうにモルヒネは目を細め、厚ぼったい唇に細長く白い指先を当てる。

「ぼくはただ遊びたい、だけ。でもいつの間、にか、お相手が動かなくなってしまう、の。どうして、かしら?」

 小首を傾げ、何もわからない無垢な子供なような所作をするモルヒネ。
 紫がかった赤い瞳はどこを見ているのか分からず、モーズの不安を駆り立てた。

「じゃあ、せめて。ぼうやのお名前、教えて貰っても?」
「あっ、あぁ。失礼した。私の名前はモーズという」
「うふふふ。あはははは」

 モーズの名を聞いたモルヒネは、笑った。口を大きく開け、無邪気に笑った。

「ぼうや。ぼうや。かわいいぼうやはモーズって、言うの。ちゃんとお名前が言えて、偉いわね。うふふふ。あはははは」

 紫がかった薄桃色の髪が潮風に靡き、彼の美しいかんばせにかかる。
 子供のように無垢で無邪気で、それでいて妖艶な姿。

「背筋をしゃんと伸ばして、お顔を真っ直ぐ前に向けて、一人で立てるぼうや。、かわいい、かわいい、頑張り屋さんのぼうや」

 壊れた玩具のように、ひとしきり笑ったモルヒネは、モーズを幼子のように愛おしげに見詰め、最後にこう言った。

「貴方が堕ちたら、どんな味が、するのかしら」



 ▼△▼

補足
モルヒネ(C17H19NO3)
言わずと知れた麻薬であり、麻酔の原料である。
名前の由来はギリシャ神話に登場する夢の神、モルペウスから。

ケシを原料に作られたアヘンから単離された、アルカロイドの一種。
植物の生薬から単離されたアルカロイドは、モルヒネが世界で初である。

その効果は圧倒的なまでの鎮痛。多幸感。それに伴う中毒性、依存性。
人間を致死に至らせる、という点ではとても弱い毒素だが、モルヒネの事しか考えられなくなる程の依存性をもってして、人間を廃人にする事が可能。という怖い毒素。
当然、日本でも毒薬や麻薬として使用料に関する規制がなされている。

尤も正しく処方をすれば依存症になることはなく、現在でも麻酔や医薬品として扱われる。
夢のように痛みを消し去り、人間を痛みという苦痛から解放してくれる、魔性の毒素なのである。
あと依存性以外にも便秘とか眠気とか悪心嘔吐とかの副作用もしっかりあるよ。
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