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第十八章 序曲の不協和音
第376話 《クロロメタン(CH3Cl)》
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ガラス張りの壁からさんさんと降り注ぐ太陽光を浴び、反射でちかちかと光る水面。
ざぱっ
その水面が大きく揺れた箇所から、一人の青年が現れる。顔に張り付く薄水色の髪をかきあげ、
「ふー……」
と大きく息を吐く。
ここは訓練場の上層に作られた屋内プールである。ちなみに歩行もできる浅いプールと、深さが3メートルもあるプールの二種類が用意されていて、青年が入っているのは深い方だ。
ここで水中を満喫した青年はプールサイドまで優雅に泳ぎ、ステンレス製の梯子を掴む。
「初めまして、《クロロメタン》。少しいいだろうか?」
次いで青年――《クロロメタン(CH3Cl)》は梯子の先で待ち構えていたクスシのモーズと、邂逅した。
*
*
*
プールサイドで設けられた、ガーデンチェアに似た椅子に腰を下ろし、モーズとクロロメタンは言葉を交わす。
「君は報酬次第で研究に協力してくれる。との話だったな」
「いかにも。しかしフリッツは未だ報酬の用意ができていない。ならばそなたにも用意できなかろう」
目の前のプールの水面を眺めながら、クロロメタンは頷く。
クロロメタンが欲している報酬とは、宇宙の彼方に浮かぶ『火星』である。勿論、実物そのものを手にしたい訳ではない。
「我はヒドラジンと違い、天文台に入り浸る事ができない。故に常日頃、身近に感じられる物が欲しいのだ」
「しかし模した物では駄目と。なかなか難しい課題だな。じっくり考えさせて貰っても?」
「好きにするといい」
先にクロロメタンと交渉をしていたフリッツは、彼に火星を映した衛星写真や、火星をモチーフにしたアクセサリーを提示してみた事もあるらしいのだが、どれも満足して貰えなかった。
何故ならば簡単に思い付く類のものは、既に所持しているからだ。彼が所持していない、かつ火星を連想できる物を考えなかればならない。
(ウミヘビは自分の宿す毒素を持つ対象を好む傾向がある。そしてクロロメタンは、火星や彗星にも存在する。だから惹かれているのだろうか?)
「だぁっ! もういいだろ泳ぐのは!」
「久々に泳ぐと結構疲れるっスね~」
モーズが思考を巡らせていると、プールの梯子からニコチンとタリウムが上がってる。クロロメタンと話をしている間、ただ待たせるのも悪いだろうとモーズの提案で水泳をさせていたのだ。これも有酸素運動、治療の一環と言い聞かせ、タリウムは素直に、ニコチンは渋々従ってくれた。
ちなみに水着は更衣室に支給品が置いてあるらしく、クロロメタン含めみな同じスパッツタイプの物を着用している。
「お疲れ様。ところで、ウミヘビはみな泳げるのか? 種族名的には泳げそうだが……」
「あらかじめインプットされているか、後からでも学習したウミヘビは泳げますよ。ただどっちにしろ、得意不得意があるっス。その辺、人間と変わらないんじゃないスかね?」
「成る程」
浅い方のプールへ視線を向けてみると、ドーナッツ型の浮き輪を使ってただ浮いているだけのウミヘビの姿も確認できた。
水泳の練度については人による、という解釈でいいようだ。
「そなたは泳げるのか?」
「……いや」
クロロメタンの問いかけに、モーズは顔を思い切り逸らし、
「正直、泳げない……」
ある意味、情けない事実を告白した。
「誤解がないように言っておくが、溺死の対策はできるぞ? 水面に浮かび上がり、岸にあがるという一連の動作ならば可能……! ……だった、んだ。2年ほど前までは……」
弁明も加えては見たものの、結局泳げない事には変わりがない。
モーズは珊瑚症によって自身の体重の比重が1を超え、浮力を発揮できなくなってしまった辺りから完全に泳げなくなったのだ。正確に言うとばた足はできるのだが、水面に上がる前に身体が重くて体力が続かず、沈んでしまう。ちなみにかつて所属していた軍医を退役した理由の一端でもある。あまり大っぴらに話したくないので、普段は「珊瑚症で片目を失明したから」を主な理由にしているが。
「ほーう。そんじゃここで弱点克服してみっか?」
その話を聞いていたニコチンがモーズへずいと身体を寄せ、腕を掴んだ。そしてそのまま椅子から立ち上がらせた。
「えっ。いや、今は遠慮しておこう。やるとしてもシミュレーターで……」
「アセトの話じゃ、お前ぇ日本で沈められてたって話じゃねぇか。そんでアセトが引き上げた、と。アセトの手ぇ借りんでもどうにかできるようにしろ」
モーズが幾ら踏ん張っても、力の強いウミヘビにぐいと引っ張られてしまえば簡単に引きずられてしまう。
「遠慮すんな。お偉いお医者さまの診断を受けさせて貰った礼だ、礼」
「これは礼ではなく報復では……!? あっ、ニコチン、待っ、うわぁあああ!?」
道中でぽいぽいと白衣やらマスクやら泳ぐのに邪魔な物を剥がされ、かといって水着に着替えさせる時間的猶予は与えず、ニコチンはモーズを上半身裸の状態でプールへ突き落としてしまった。
ざぱんっ!
大きな水飛沫がプールサイドの上に滴る。一部始終を眺めていたタリウムはプールの端にしゃがみ込み、水中の様子を伺った。予想はしていたがモーズは上がって来れていない。それどころか急速に水底に落下していっている。
「うわ。沈むスピードが半端ないっスね、モーズさん」
「おー。100キロ超えてるだろうからな、そりゃ沈むだろ」
「へぇ、100キロ……100キロ!? あの細身で!?」
「日本であいつ持った時、そのぐらいの重さはあった。ま、珊瑚症に罹ってんだ。そんぐらい行くだろよ」
「2人とも。そろそろ引き上げねば、かの者の息が……」
ざぱっ
見かねたクロロメタンが椅子から立ち上がったと同時に、水面が大きく盛り上がり何かかが空中に浮かび上がった。
頂部が丸い傘を持ち、四方から四本ずつ触手を生やしているハブクラゲ型アイギスである。ニコチンとタリウムはそのアイギスがモーズの体内から出てきている姿を幾度か見たことがあり、全貌を知っていた。
にも関わらず状況を飲み込めず、しばし固まってしまった。
何故ならば今まで、手の平サイズにしかなっていなかったモーズのアイギスが、触手でモーズを前向きに抱え、浮かべる程に――つまり傘だけで直径2メートルはあるサイズまで肥大化していたのだから。
これはモーズが初めて達成した『アイギスの肥大化及び空中浮遊』。なのだが、肝心の宿主モーズは酸欠からか虚な目をしている。気絶手前といった様子だ。
そのような状態のモーズが指示を出せるはずもなく、アイギスはモーズを抱えていない触手を蠢かせ……プールサイドに向かって無秩序に伸ばし始めた。
吸血をする気である。
察した3人は蜘蛛の子を散らすように三方へ逃げた。
「ちょ、ちょ、ちょっ!? 暴走してる! これアイギス暴走してますよ先輩!?」
「見りゃわかる!」
「おおお……。いつぞやに映画で見た異星人の襲撃のようだ」
「言ってる場合か!? おいモーズ! こいつ止めろ! モーズっ!!」
その後、モーズの意識が明瞭になるまでの時間。
おおよそ10分の間、屋内プールは阿鼻叫喚の騒ぎとなったのだった。
▼△▼
補足
クロロメタン(CH3Cl)
昔は冷媒に使われていた毒。日本では劇物に分類されている。
現在では除草剤や麻酔などに利用されている。
作中で彼はプールに入っているが、泳ぐのが好きなのではなく潜水が好きという設定がある。
これは海中に生きる微生物が日光と塩素によって、クロロメタンを作ることからきていたりする。
昔はクロロメタン(正確にはその中に含まれる炭素)があるかどうかが生命体がいる指針になる説があり、火星にクロロメタンが発見されたので生命体が存在していたと論じられていた。作中のクロロメタンが宇宙に興味を示しているのは、この辺りから来ている。
しかし誕生したばかりの星でもクロロメタンが発見されたことから、現在は生物がいたかどうかの指針にはされていない。ロマンがあったのにちょっと残念。
ざぱっ
その水面が大きく揺れた箇所から、一人の青年が現れる。顔に張り付く薄水色の髪をかきあげ、
「ふー……」
と大きく息を吐く。
ここは訓練場の上層に作られた屋内プールである。ちなみに歩行もできる浅いプールと、深さが3メートルもあるプールの二種類が用意されていて、青年が入っているのは深い方だ。
ここで水中を満喫した青年はプールサイドまで優雅に泳ぎ、ステンレス製の梯子を掴む。
「初めまして、《クロロメタン》。少しいいだろうか?」
次いで青年――《クロロメタン(CH3Cl)》は梯子の先で待ち構えていたクスシのモーズと、邂逅した。
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プールサイドで設けられた、ガーデンチェアに似た椅子に腰を下ろし、モーズとクロロメタンは言葉を交わす。
「君は報酬次第で研究に協力してくれる。との話だったな」
「いかにも。しかしフリッツは未だ報酬の用意ができていない。ならばそなたにも用意できなかろう」
目の前のプールの水面を眺めながら、クロロメタンは頷く。
クロロメタンが欲している報酬とは、宇宙の彼方に浮かぶ『火星』である。勿論、実物そのものを手にしたい訳ではない。
「我はヒドラジンと違い、天文台に入り浸る事ができない。故に常日頃、身近に感じられる物が欲しいのだ」
「しかし模した物では駄目と。なかなか難しい課題だな。じっくり考えさせて貰っても?」
「好きにするといい」
先にクロロメタンと交渉をしていたフリッツは、彼に火星を映した衛星写真や、火星をモチーフにしたアクセサリーを提示してみた事もあるらしいのだが、どれも満足して貰えなかった。
何故ならば簡単に思い付く類のものは、既に所持しているからだ。彼が所持していない、かつ火星を連想できる物を考えなかればならない。
(ウミヘビは自分の宿す毒素を持つ対象を好む傾向がある。そしてクロロメタンは、火星や彗星にも存在する。だから惹かれているのだろうか?)
「だぁっ! もういいだろ泳ぐのは!」
「久々に泳ぐと結構疲れるっスね~」
モーズが思考を巡らせていると、プールの梯子からニコチンとタリウムが上がってる。クロロメタンと話をしている間、ただ待たせるのも悪いだろうとモーズの提案で水泳をさせていたのだ。これも有酸素運動、治療の一環と言い聞かせ、タリウムは素直に、ニコチンは渋々従ってくれた。
ちなみに水着は更衣室に支給品が置いてあるらしく、クロロメタン含めみな同じスパッツタイプの物を着用している。
「お疲れ様。ところで、ウミヘビはみな泳げるのか? 種族名的には泳げそうだが……」
「あらかじめインプットされているか、後からでも学習したウミヘビは泳げますよ。ただどっちにしろ、得意不得意があるっス。その辺、人間と変わらないんじゃないスかね?」
「成る程」
浅い方のプールへ視線を向けてみると、ドーナッツ型の浮き輪を使ってただ浮いているだけのウミヘビの姿も確認できた。
水泳の練度については人による、という解釈でいいようだ。
「そなたは泳げるのか?」
「……いや」
クロロメタンの問いかけに、モーズは顔を思い切り逸らし、
「正直、泳げない……」
ある意味、情けない事実を告白した。
「誤解がないように言っておくが、溺死の対策はできるぞ? 水面に浮かび上がり、岸にあがるという一連の動作ならば可能……! ……だった、んだ。2年ほど前までは……」
弁明も加えては見たものの、結局泳げない事には変わりがない。
モーズは珊瑚症によって自身の体重の比重が1を超え、浮力を発揮できなくなってしまった辺りから完全に泳げなくなったのだ。正確に言うとばた足はできるのだが、水面に上がる前に身体が重くて体力が続かず、沈んでしまう。ちなみにかつて所属していた軍医を退役した理由の一端でもある。あまり大っぴらに話したくないので、普段は「珊瑚症で片目を失明したから」を主な理由にしているが。
「ほーう。そんじゃここで弱点克服してみっか?」
その話を聞いていたニコチンがモーズへずいと身体を寄せ、腕を掴んだ。そしてそのまま椅子から立ち上がらせた。
「えっ。いや、今は遠慮しておこう。やるとしてもシミュレーターで……」
「アセトの話じゃ、お前ぇ日本で沈められてたって話じゃねぇか。そんでアセトが引き上げた、と。アセトの手ぇ借りんでもどうにかできるようにしろ」
モーズが幾ら踏ん張っても、力の強いウミヘビにぐいと引っ張られてしまえば簡単に引きずられてしまう。
「遠慮すんな。お偉いお医者さまの診断を受けさせて貰った礼だ、礼」
「これは礼ではなく報復では……!? あっ、ニコチン、待っ、うわぁあああ!?」
道中でぽいぽいと白衣やらマスクやら泳ぐのに邪魔な物を剥がされ、かといって水着に着替えさせる時間的猶予は与えず、ニコチンはモーズを上半身裸の状態でプールへ突き落としてしまった。
ざぱんっ!
大きな水飛沫がプールサイドの上に滴る。一部始終を眺めていたタリウムはプールの端にしゃがみ込み、水中の様子を伺った。予想はしていたがモーズは上がって来れていない。それどころか急速に水底に落下していっている。
「うわ。沈むスピードが半端ないっスね、モーズさん」
「おー。100キロ超えてるだろうからな、そりゃ沈むだろ」
「へぇ、100キロ……100キロ!? あの細身で!?」
「日本であいつ持った時、そのぐらいの重さはあった。ま、珊瑚症に罹ってんだ。そんぐらい行くだろよ」
「2人とも。そろそろ引き上げねば、かの者の息が……」
ざぱっ
見かねたクロロメタンが椅子から立ち上がったと同時に、水面が大きく盛り上がり何かかが空中に浮かび上がった。
頂部が丸い傘を持ち、四方から四本ずつ触手を生やしているハブクラゲ型アイギスである。ニコチンとタリウムはそのアイギスがモーズの体内から出てきている姿を幾度か見たことがあり、全貌を知っていた。
にも関わらず状況を飲み込めず、しばし固まってしまった。
何故ならば今まで、手の平サイズにしかなっていなかったモーズのアイギスが、触手でモーズを前向きに抱え、浮かべる程に――つまり傘だけで直径2メートルはあるサイズまで肥大化していたのだから。
これはモーズが初めて達成した『アイギスの肥大化及び空中浮遊』。なのだが、肝心の宿主モーズは酸欠からか虚な目をしている。気絶手前といった様子だ。
そのような状態のモーズが指示を出せるはずもなく、アイギスはモーズを抱えていない触手を蠢かせ……プールサイドに向かって無秩序に伸ばし始めた。
吸血をする気である。
察した3人は蜘蛛の子を散らすように三方へ逃げた。
「ちょ、ちょ、ちょっ!? 暴走してる! これアイギス暴走してますよ先輩!?」
「見りゃわかる!」
「おおお……。いつぞやに映画で見た異星人の襲撃のようだ」
「言ってる場合か!? おいモーズ! こいつ止めろ! モーズっ!!」
その後、モーズの意識が明瞭になるまでの時間。
おおよそ10分の間、屋内プールは阿鼻叫喚の騒ぎとなったのだった。
▼△▼
補足
クロロメタン(CH3Cl)
昔は冷媒に使われていた毒。日本では劇物に分類されている。
現在では除草剤や麻酔などに利用されている。
作中で彼はプールに入っているが、泳ぐのが好きなのではなく潜水が好きという設定がある。
これは海中に生きる微生物が日光と塩素によって、クロロメタンを作ることからきていたりする。
昔はクロロメタン(正確にはその中に含まれる炭素)があるかどうかが生命体がいる指針になる説があり、火星にクロロメタンが発見されたので生命体が存在していたと論じられていた。作中のクロロメタンが宇宙に興味を示しているのは、この辺りから来ている。
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