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第三章 優しい悪夢
第四十話 アンビバレント
しおりを挟む翌朝。
俺はいつもの湖の畔で、咲き誇る花々を眺めていた。
花風は蜜の香りを運んでくれる。甘く優しい匂いは、いつも俺の気持ちを穏やかにさせてくれるのだが、俺の吐き出した溜息は重たかった。
――まさか、二階堂大佐が転生者だったとは。
昨日の電話で知った衝撃の事実。
自分が転生者である以上、他にも転生者がいる可能性があることは考慮しているつもりではあった。だが実際に、こうして巡り合うと動揺はしてしまうもので。俺も、二階堂大佐も、言葉にならない感動と困惑で昨日はどちらとも上手く話すことができなくなっていた。
土曜日に会うこととなったが、果たしてそのときも上手く話せるのかはわからない。訊きたいことは腐る程あるはずだが、言葉にできるかどうか。
「……」
俺は小石を拾った。
水面に花びらがひらりと落ちる。何の花びらなのかは遠目ではわからない。その花びらに向かって、モヤモヤする気持ちを込めながら小石を投げつける。着水音とともに、広がった波紋。
花びらは変わらず、揺れている。
「……どう受け止めればいいんだろう」
喜ばしいと思うべきか。
それとも嘆くべきなのか。
安堵するべきか。
不安に思うべきなのか。
自分の気持ちがいまいち整理できない。はやる気持ちはあるが、それがどのような感情から発露されるのかがわからないのだ。焦りなのか、知りたいと思う欲求か。謎だらけのこの世界を解明する、一筋の光であることは間違いないはずなのに。深淵を覗いているかのような謎の後ろめたさすら感じられる。
真実に近づくのが怖いのか? 自分がなぜ召喚されて、何をするためにこの世界に来たのか、知りたかったのではないのか? 自分の使命を知りたいと思っていたのではないのか?
自問自答は空転を続ける。
俺は俺の気持ちがよくわからなくなっていた。
突然現れたヒントを前にして、足踏みしている自分がいることにただ戸惑う。
「……俺は眠りたかっただけなんだけどな」
関係のないつぶやきが不意に溢れたのは、考えるのが少し億劫に感じられてきたからだ。
そもそも、俺は疲れていたんだ。穏やかな安らぎこそが俺の欲しいもので、俺はその安らぎに近づきつつあるというのに。どこか壊れたアンサスたちと過ごす、ゆっくりと流れる時間に心地よさを覚えつつあったのに。
なんで俺は、そこに溺れようとしないのだろう?
溺れたいのに、泳いで前に進もうとしている自分もいて。考察をしたり自分の使命を知ろうと積極的に動いたりする必要なんか、欲しいものが手に入りつつあるいま、あるのだろうか?
ないはずなんだ。
だのに、理由もわからず積極性を見せたりするのはなんなんだ? そして、謎に近づくヒントが唐突に現れたら途端に消極的な感情が湧いて尻込みし始める。積極性と消極性が、たえず躁鬱のように揺れ動く。
これも露木稔の意思の影響か? アンビバレントな状態が、久しぶりに気持ち悪いと思った。
「……いずれにせよ、土曜日だな」
二階堂大佐と会うことは避けられないだろう。仮に土曜日の予定をキャンセルしたところとて、彼女にとって俺の存在はまさに棚からぼた餅……それどころか金塊に等しい存在だ。絶対に、俺と会うことは諦めないだろう。
上官の誘いを断り続けるのは難しい。だから、いずれにせよ彼女と会うことは避けられない。
俺は、世界の真実に一歩近づかなければならない。
また、小石を投げた。
水面に波紋。そして、溜息。
……俺は本当になんなんだ。
たまに訪れるアイデンティティの輪郭が歪む瞬間が、たまらなく不快で、気持ち悪い。
「……あら、メンター」
俺は無気力に首を巡らせる。
そこにいたのは、椿だった。彼女はどこからか手に入れた椿の枝花を持って、柔らかい笑みを向けてくれている。
俺はその笑顔に安堵を覚えた。
最近はスノーとの件から少し気まずさを覚えていたはずなのに、今は椿の存在に安らぎさえ感じている。俺は自分の身勝手さに、自嘲をせずにはいられなかった。
椿とはこの場所でよく二人になる。
それを承知でここに来ているわけだから。
「執務室にいらっしゃなかったので探したのです。やはりこちらにいましたか」
「うん」
椿に会いたくて。
そんな言葉は思っても、今の感情を抱えたままでは口に出すべきではない。
「……なんかここに来ると落ちつくからさ」
妥協の末口についた言葉は、それでも憂鬱を匂わせるワガママにしかならないもので。俺はそんな自分に嫌悪する。
心配させてしまうと、分かっているのに。
「どうしたんですか? 顔色が少し悪い気がしますが……」
「……いや」
ここで口籠るのが、なんとも俺らしい中途半端さだ。甘えたいなら甘えればいいのに、それも素直にできない。
あるのはひとえに後ろめたさ。
椿の気持ちは知りすぎるくらい、知っているから。
でも、そんな俺の複雑怪奇な心情を知らない椿は、なんの疑いも持たない純真そのものな眼差しで俺を見つめてくれる。
純粋なまでに心配してくれる。
「もしかして、なにか嫌なことでもあったのですか?」
「まあ、そうだな。……でも、これはちょっと言いづらいことでさ」
「そうですか。……私にも話しづらいことですか?」
「……そうだな。ごめん」
そもそも言えるわけもない悩みではあるが、匂わせておいて口に出さないのは不誠実だとはわかっていた。
わかっていたが、俺はそれでも――。
それでも、少し寄り添って欲しかったのだ。揺れ動くアイデンティティがもたらす不快と不安感が少し辛くて、耐え難かったから。
「わかりました。私は、側にいてもよろしいのでしょうか?」
「うん」
居て欲しい。
「良かったです。……では、隣失礼しますね」
椿は俺の隣に腰掛けると、肩が触れ合うくらいの距離まで詰めてくる。布越しにでも感じる温もりは、人のそれと何ら変わらない。
まるで薬のように、その温かさが沁み込んでくる。
俺の孤独を、緩やかに癒してくれる。
椿が俺の肩に頭を置いた。ふわりと漂う香りはどんな花よりも優しくて華やかだと思えた。
「……椿」
「はい」
「ごめんな。……その……俺はメンターだから。椿には嫌な思いをさせているかもしれないよな……」
どんなことで、とははっきり言えなくて。そんな自分のずるさに自己嫌悪してしまう。
彼女は上目遣いでそんな俺を見ながら、俺のすべてを包容するかのような、慈愛のこもった微笑みを浮かべた。
「わかっていますよ。あなたは、そういう人なんですから。あなたはちょっとずるくて臆病な、優しい人です」
椿の細い指が、俺の頬に触れる。
「でも、優しすぎるからずるくはなりきれない。そんなところがとても可愛らしい。……放っておけない人」
あまりにも蠱惑的で。あまりにも魅力的で。
俺は思わず目を逸らしそうになって、あまりにも優しく止められた。甘く蕩けそうな赤い瞳からは逃げられない。母性をくすぐられた母猫のような柔らかい手つきで、俺を離さないでいてくれる。
「ねえ、メンター。あなたはもっと自分の魅力に気づいてください。あなたは、頑なだったあの子を変えてしまうくらい凄い人なのですから。そんな可愛げのある弱気をあまり見せないでください。……お願いです」
「……うん」
「……もう。釈然としていないって顔をしないでください。本当なんですよ? あなたはただでさえ、沼なんですから」
「……沼って」
それはちょっと嫌な言い方だ。
「ふふ。沼ですよ。たまに、土で埋めてしまいたくなるくらいです」
「怖いこと言わないでくれよ」
顔をしかめて抗議をすると、椿はクスクスと笑った。
俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
ねえ、ミノルちゃん。
あなたはね、そろそろ自分の魅力に気づかないとダメなんだよ?
あなたは弱った女を狂わせる魔性の持ち主なんだから。
あまり、そうした性質をふりかざして、みんなを狂わせないでほしい。
そうじゃないと我慢できなくなる。
我慢できなくなっちゃうわ。
生誕祭が終わるまで、待てなくなるじゃない。
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