夜霧家の一族

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九章 夜霧家の崩壊

<人定 亥の刻> 大雨

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静かな卯の宅の一室から
狐狸の荒い息遣いが聞こえていた。
その時、ふたたび雨音が屋根を叩いた。
その音は先ほどよりも大きく、そして強かった。
その雨音と狐狸の息遣いに混じって
美しくも悲しげな笛の音が妖しく響いていた。

「はぁはぁ・・。
 ねぇ、聞かせてよ。
 アタシを殺してどうするの?
 夜霧の家を潰す気?」
そこまで話すと
狐狸は苦しそうに大きく息を吸った。
「死に逝くお前には関係のないことさ」
「はぁ・・はぁ・・そう・・。
 人の心を読むなんて大口を叩いてるくせに
 アタシの気持ちにはまったく気付いてないのね。
 それとも気付いていながらその態度なの?」
そう言って狐狸は無理に笑顔を作った。
その笑みに陰陽は無言で応えた。

「アタシには興味がないってことね・・。
 いいわ・・。
 でも、喜ぶのはまだ早いわよ」
狐狸は太刀を畳に刺すと、
右脇腹を抑えながら
歯を食いしばってゆっくりと立ち上がった。

「ひどく呼吸が乱れてるよ」
狐狸は陰陽の挑発を無視すると
ふたたび大きく息を吸って帯に手を掛けた。
するりと帯が落ちて着物が開けた。
いつの間にか狐狸の右手には
赤い玉が握られていた。

「ふふっ」と小さく笑った狐狸が
その赤い玉を
部屋の隅に置かれている行燈に向かって投げた。

赤い玉は行燈に当たると
バンッという低い音と共に破裂した。
同時に行燈が倒れ、
周囲に魚油の嫌な臭いが広がった。
次の瞬間、畳に炎が燃え移った。

「・・何の真似だい?」
目を閉じたままの陰陽が僅かに首を傾げた。
「火は生き物。
 アタシの行動は読めても、
 燃えさかる炎の動きは、
 その目じゃ追いきれないでしょ?
 あははは!」
「・・なるほど。
 ボクを道連れにするつもりかい?」
首を傾げたままの陰陽が冷静な口調で返した。

開いた障子窓から吹き込んできた風に煽られて
炎が陰陽の背後を塞いだ。

「仕方がないでしょ?
 陽兄ぃがいけないの。
 古来より愛と憎しみは紙一重って言うじゃない?
 愛情が憎悪に変わるのって案外、簡単なのよ。
 それに・・。
 女の憎しみは恐ろしいのよ」
狐狸が「あははは」と声高に笑った。

「さっきの言葉を訂正するよ。
 お前は夜霧の誰よりも歪んでる。
 その見目に相応しい人間だよ」
「それが本心?
 醜い女はその心の内も醜いと言いたいの?
 陽兄ぃも所詮、
 見目の良い女を好むその辺の男と同じね。
 幻滅したわ」
狐狸が憎々しげに陰陽を睨んだ。

「勝手に期待して、
 それが裏切られると逆恨みかい?
 つくづく質の悪い女だ」
「まるで自分だけは清く正しい人間だ
 とでも言いたいようね。
 でもアタシは知ってるのよ。
 陽兄ぃの中の醜い情念を」
狐狸は苦しそうに溜息を吐くと
口元を醜く歪めて小さく笑った。

「・・やはり。
 お前には死んでもらうしかないようだ」
陰陽の言葉が炎の中で冷たく響いた。
「あはは。
 陽兄ぃも怒ることがあるのね。
 はっきり言いなさいよ。
 『ボクは女を抱けない体なんだ』って!」
陰陽の表情が炎で紅く照らされると
その口元が「フッ」と緩んだ。
「『豊かすぎる想像力はその身を滅ぼす』
 昔、母さんの部屋にあった書物に
 そんな文句が書かれていたことを思い出したよ。
 でも・・。
 残念ながらお前の想像は見当違いだ」
「どう言い繕っても
 勃たないことに変わりはないんでしょ?
 陽兄ぃが生き延びたら夜霧の家はお終い。
 だからここで殺してあげる。
 アタシの夫になるのは双兄ぃで決まりね」
そこで狐狸は一度口を閉じた。
そして軽く首を傾げると
「・・そう楽観することもできないわね。
 まだ孤独がいるもの。
 流石に双兄ぃの方が実力は上だけど、
 孤独がどんな卑怯な手を使ってくるのか
 わからないし。
 急いで双兄ぃを見つけて
 策を練らないと拙いわ・・」
と独りごちた。

「・・やれやれ。
 この状況でお前のどこに
 そんな余裕があるのか不思議だよ」
陰陽が呆れたように呟いた。
「あら、多少の痛手は負ったものの、
 どちらかと言えば
 この状況はアタシの方が有利なのよ」

その時、
開いた障子窓から荒々しい風雨が吹き込んできた。
そして部屋の炎は勢いを弱めるどころか
更に激しく燃え上がった。

「お前に一つ、良い報せがあるよ。
 孤独兄さんは一双斎兄さんに殺られたよ」
瞬間、狐狸の表情がパッと明るくなった。
「あはは!
 さすが双兄ぃだわ。
 夜霧の家は
 アタシと双兄ぃが継ぐことになるのね」
狐狸が無邪気にはしゃいだ。
「随分と都合のいい考えだけど、
 忘れてないかい?
 闇耳もまだ生きてるよ?」
「あはは!
 闇耳に何ができるっていうの?
 双兄ぃに殺されてお終いよ。
 ここまで生き延びられたのは
 単に闇耳が無害だから、
 そうでしょ?」

一筋の炎が天井の片隅に燃え移り、
その火はあっという間に屋根の一部を燃やした。
そこから雨が降り込んできた。
それでも
部屋に燃え広がる炎の勢いを
止めることはできなかった。
白煙が部屋に立ち籠めた。

「あははは。
 炎は幻を見せるって知ってる?」
突然、狐狸が大きな笑い声をあげた。
そしてその場にしゃがみ込んだ。
続いて着物の裾に手を掛けて
頭からばさりと被った。
緋色の裏地が狐狸の体を包み込むと
それが周囲の炎の色に溶け込んで、
狐狸の姿を一瞬で消し去った。

焼け落ちた天井から強風が吹き込んだ。
揺らめく炎の波が激しくなり、
白煙が夜空へ舞い上がった。

「その着物がお前の体を
 炎から守ってくれるというのかい?」
燃え広がる炎の中、
微かな着物の音に反応した陰陽が口を開いた。

その時、
雨と風と炎と笛の音に混じって
どこからか懐かしい声がした。
「二人共、兄妹喧嘩は止めなさい!」
声の主は優しくそれでいて厳しく二人を諫めた。
そしてその声は紛れもなく亡き母、
八卦の声だった。

「か、母さん・・?」
ほんの一瞬、陰陽の表情に大きな動揺が見えた。

その瞬間、
炎の中から飛び出してきた赤い影があった。
その影は陰陽の懐へ飛び込むと同時に
逆胴に太刀を振るった。

「んぐっ!」
陰陽の左脇腹に朱い刀身が叩き込まれた。
緋色の着物がふわりと落ちて、
狐狸の赤い髪が現れた。

「残念、
 陽兄ぃは母さんのことが大好きだったものね」
八卦の声音のまま狐狸が高らかに笑った。
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