ストーカー

Mr.M

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二章 葉月

八月二十六日(金曜日)7

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体が凍り付いたように動かなかった。
僕は二人に気付かれぬよう小さく、
そしてゆっくりと息を吐き出した。
コーヒーカップに手を伸ばそうとして止めた。
微かに手が震えていた。

彼女は僕の発言に疑問を抱いている。

脇汗が腹斜筋を伝って落ちるのがわかった。
何か答えなければと焦れば焦るほど頭は混乱した。
僕は震える手を抑えて、
コーヒーカップを持ち一口啜った。
それからゆっくりとテーブルに戻した。
姿勢を正して正面の二人に向き合った。

その時、安田が大きく頷いた。
「まぁ夜といってもよほどの田舎道でもない限り
 街灯はあるでしょう。
 それにコンビニや
 ガソリンスタンドの灯りもありますからね。
 ずーと尾行されていたとすれば
 どこかで確認もできたでしょう」
「は、はい!」
安田の発言に張り詰めていた僕の緊張が解れた。
「ふーん。
 ま、いいわ。
 それよりも一か月も前のドライブの日を
 よく覚えていたわね。
 気分でふらっとドライブに行くような人が」
僕の試練はまだ続いていた。

「そ、そうでした!
 あの夜は満月だったんです!
 そ、それで覚えてたんです」
偶然とはいえ満月だったことに
僕は心の中で感謝した。
それにしても彼女は油断がならない。
全く興味のないようなふりをしているが、
しっかりとこちらの話を聞いているのだから。
「まあまあ、いいじゃないですか。
 情報は多いに越したことはないですから。
 褒められることはあっても、
 責められるのはお門違いですよ。
 石が流れて木の葉が沈む。
 牛は嘶き馬は吼え。
 犯人の自首で事件解決。
 ねえ、八木さん?」
「は、はぁ・・」
「何よ、あんたたち。
 二人がかりなら私に勝てるとでも思ってるの?」
武衣に凄い形相で睨まれた。
それでも彼女の美しさは健在で、
こんな表情で睨まれるのなら、
僕は彼女を女王様と呼ぶことに
何の躊躇いもないと今この場で神に誓える。
「ここは警察ではないんですよ。
 取り調べじゃあるまいし。
 何よりも八木さんは被害者なんですから」
「ふん。
 ちょっと疑問に思っただけでしょ?
 ま、いいわ」
彼女は多少の不満をその表情に残しつつも、
ここは矛を収めてくれたようだった。

「ところで、郵便物の紛失についてですが、
 これが事実だとすれば被害が出ているわけで、
 やはり警察へ届けるのが一番だと思います」
安田がもっともなことを口にした。
「は、はぁ・・」
「まぁいいでしょう。
 それらのことが起こり始めたのが、
 一カ月くらい前からということですよね?」
「はい」
僕は力強く頷いた。
「まだ一か月という短期間で、
 ストーカーだと断定するには
 早すぎると思うのですが。
 こういう言い方は失礼かと思いますが、
 郵便物の紛失は
 八木さんの勘違いという可能性もあります。
 ドライブ先の車にしても、
 真っ赤なポルシェのような目立つ車で
 尾行をするとは考え難い。
 直接ストーカーから接触してきた事実でも
 あれば対応もできるんですが、
 そうなるとこれはもう警察の仕事です」
たしかにその通りである。

「た、たしかに。
 ストーカーの素性がわかっている場合には
 警察に相談に行けるのですが、
 相手の素性がわからないのが問題でして。
 こちらに頼めば、
 そのストーカーの正体を突き止めることが
 できるのではないかと思ったわけです」
「なるほど、そういうことですか」
安田は頷いて腕を組んだ。
その時、
彼の隣で退屈そうにしていた武衣が
大きく背伸びをした。

「ふーん。
 それって全部あなたの被害妄想じゃないの?
 もしくは単なる虚言か。
 あなたってどちらかといえば
 ストーキングする側の人間でしょう?」
「なっ!」
不意に鋭利な刃物で
背後から突き刺されたような衝撃が身体に走った。
開いた口が塞がらないとは
まさに今の僕のことを表していた。
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