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贖罪
しおりを挟む『九番、春若杏梨さん』
彼女の名がコールされると、会場内がどよめいた。名前こそエントリーされていたものの、本当に出場するとはきっと誰も思っていなかったのだろう。
杏梨は僕に一度視線をくれたあと、すぐに舞台上へと足を進めた。
彼女が現れると、観客たちは更に騒がしくなる。
『本物?』『嘘、本当に弾くの?』『ていうか弾けるの?』『無理じゃない?』『何しに来たの?』と、不躾な声が舞台袖にいる僕にまで聞こえてくる。
……好き勝手言ってくれる。許されるならその口を僕がひと針ひと針丁寧に縫い付けてやりたい。二度と口が聞けなくなるぐらいに。
杏梨は堂々とした姿勢でお辞儀をし終え、椅子の調節を手早く済ませる。
その間にも観客たちのざわめきは収まらない。
『春若美影の娘だっけ』『あの不倫の……?』『でもフェイク動画だったんでしょう?』『春若美影もあれから消えちゃったもんねー』
そんな会話が会場の端々から聞こえる。拍手の音がないから余計に耳に入り込んでくるのが憎らしい。
ただでさえ舞台に立つのを怖がっていた彼女だ。この心無い声が彼女の心を乱さないといいが……。
杏梨が着席しても尚、観客たちは静まらなかった。
四年前、ネットの誹謗中傷により人前で弾けなくなった、春若美影の娘が演奏しようとしている。観客たちは格好の話題だと思っているのだろうか。好奇、興味、面白半分。舞台袖の隙間から見えるだけでも、悪意なき悪意の視線に彼女は晒されている。なぜかクスクスと嗤う声まで聞こえる始末だ。
こんな穢れた空気の中に、彼女の美しい月の光はふさわしくない。彼らに聞かせる価値などない。
……腹が立つ。人の心の傷を、一体何だと思っているのか。一体彼女が何をしたと言うのか。誰にも彼女を嘲笑う権利などない。踏みにじる権利もない。彼女はお前たちを楽しませる玩具なんかじゃない。
あまりに無作法な観客たちに、さすがに一言、言ってやろうと思い立った瞬間──重厚な和音で僕たちは強烈に殴られた。
低音部から弾き出される細かな音が空気を切り裂くように鋭く広がり、次いで続くアルペジオが波のように押し寄せる。──ラフマニノフ『楽興の時 第四番』Op.16-4だ。
恐らく観客を黙らせるために始めたその演奏は凄まじいものだった。
杏梨の指は鍵盤を駆け巡り、右手の華麗なスケールが急速に流れ出す。緊張感を孕んだパッセージ、息つく間もない細かな音の粒が僕らを追い立てる。
彼女の奏でる音は、僕らを容赦なく殴り続ける。全身に痺れが走ったように、全くと言っていいほど身体が動かない。息をするな目を離すな耳だけ使え黙って聞けと、春若杏梨によってこの会場内は支配されている。
四年間、彼女が耐えてきた痛み。荒々しい音の波で鬱積した思いが放たれる。
彼女の抱える傷が、音の雨となって降り注ぐ。それは僕たちの肌から胸の奥深くまで侵食していく。
無数の匿名たちによる言葉の暴力。何が真実か見極めようともしないで、多数を正義と信じて石を投げた者たち。
自覚なき加害者たちは今もこうして、他人事だからと呑気に笑っていられる。石を投げたことすらも忘れている。四年もの間、人前でピアノを弾くことが出来なくなった人の痛みなんて、知りもせずに。
そんな彼女の悲痛な叫びが、僕たちを飲み込んでいく。
──痛い。苦しい。彼女が受け続けた傷が、僕たちの全身にも刻まれているみたいだ。
杏梨の指は鍵盤を叩きつけるように激しく駆け抜け、低音から高音へと突き上げるような和音を鳴り響かせた。全身の力を込めて弾かれた最後の一撃で、音の激流はついに治まった。
……ようやく、身体が解放された。これを聞いて、もう彼女を嗤える人なんて一人もいないだろう。彼女の受けた傷の痛みが、まるで自分が受けたかのように共有され、観客の中には胸を押さえて涙を流している人もいる。
拍手をすることすらも忘れるほどの衝撃を与え、無となった空間に、柔らかな月の光が差し込んだ。
彼女の指先から静かに流れ出す音が、夜の空気を満たしていく。低い音から高い音へ、優しく連なる和音が、まるで月の光が水面をそっと撫でるかのように広がる。淡い旋律が浮かび上がり、静けさの中に溶け込んでいく。
──ああ、彼女の『月の光』だ。
僕が……ずっと……ずっと聴きたかった、この音。
四年前に彼女がコンクールで演奏した月の光の演奏動画を、見なかった日など一日もない。
彼女の癖を研究し尽くして、どれだけ彼女の弾き方に似せても、僕には手の届かなかった音。
あの日僕が奴らの計画を止めなかったせいで、もう二度と聴くことはないと思っていた……この月の光が、また僕の目の前で浮かんでいる。
また彼女が……僕の前に現れてくれた。
告解室で懺悔している時、濁した言葉。
……四年前の春、この月の光を聞いた時から──僕は君にどうしようもなく、恋焦がれていたんだ。
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